番外編

EX-桜枯れし時、冬来たる

 五月の陽光が、神居大学の古い煉瓦を白金に塗り上げていた。キャンパスは初夏という名の優しい魔法にかかり、目に映るものすべてを美しく乱反射させている。


 風が、中庭のベンチに座る北山心春のピンクブラウンの髪を、戯れるように梳いていく。世界は祝福に満ちているのだと誰もが錯覚してしまう、そんな昼下がり。


 隣でペットボトルの紅茶に口をつける親友、春日井桜子の仕草には、それだけで一枚の絵画のような気品が宿っていた。


「――それでね、うちのマスターの新作試食が、もう本当にどうかしてるの! 『本場のスパイスですから』の一言で片付けられないレベルで辛くて! 舌が悲鳴を上げるってこういうことかって!」


 大げさに顔をしかめる心春に、桜子は艶やかな黒髪を指先に絡ませ、鈴を転がすように笑った。


「ふふ、心春さん本当に楽しそう。喫茶店でのお仕事」


 彼女の完璧な微笑みの裏側に、不気味な光が一瞬宿るのを、初夏の光に眩んだ心春が知る由もなかった。


「うん! お客さんは相変わらず閑古鳥だけどね……。でも、マスターの淹れるコーヒーは絶品だし、賄いがもう、本当に……!」

「店長さんのこと、心から慕っていらっしゃるのですね」


 桜子はそう言って、心春の頬にかかった髪をそっと払う。その姉のように自然な優しさに、心春の胸は温かなもので満たされる。この優しさに、彼女は一度、心を、魂ごと救われたのだ。


 大学に入学したばかりの頃、心春の世界は色彩を失っていた。垢抜けない自分は、きらびやかな同級生たちの輪に溶け込めず、キャンパスの隅で息を潜めるだけの透明な存在。


 そんな彼女が、派手な女子グループの格好の的になるのに時間はかからなかった。参考書は心ない落書きで汚れ、持ち物は姿を消し、背後からは粘着質な悪意が囁かれる。世界から拒絶されているような、息苦しい地獄の日々。


 あの日も、空き教室の冷たい壁に追い詰められ、涙を堪えるので精一杯だった。その灰色の空間を切り裂くように現れたのが、桜子だった。


『あなたたち、何をしているのですか』


 凛として響く声。誰もが知る、官房長官令嬢という絶対的な背景。主犯格の女子生徒は怯えながらも「こいつがトロいから、教えてやってるだけだって!」と虚勢を張った。


 桜子は、彼女たちを侮蔑するでもなく、ただ静かに、強者の余裕をたたえて見つめた。


『彼女は、わたくしの大切な友人です。二度と、その汚らわしい手で触れないでいただけますこと?』


 あの時の桜子の横顔を、心春は一生忘れない。灰色の世界に差し込んだ、光そのものだった。


「……桜ちゃんには、本当に感謝してるの。あの時桜ちゃんがいなかったら私、きっと大学を辞めてた」


 真剣な眼差しに、桜子は悪戯っぽく微笑んでみせた。


「大げさですよ。わたくしが、そうしたかっただけですのに」

「それでも、だよ! だから……」


 今度は私が桜ちゃんを守る――そんな言葉は、桜子の提案に遮られた。


「では、その感謝の気持ち、今度のサークルの新作メニューで示していただきましょうか。週末、わたくしの家で一緒に試作会をしませんか? 腕によりをかけて、美味しいケーキも用意しておきますから」

「ほんと!? 行く行く!」





 その夜、喫茶『すのうどろっぷ』には、いつもの静寂が満ちていた。閉店作業を終え、モップを手にしながらも、心春は何か言いたげに矢上の周りをうろついている。


「マスター……あの……」

「どうかしましたか」


 手を止め、矢上は静かに問いかける。銀縁眼鏡の奥の瞳が、穏やかに心春を捉えた。


「変なこと聞くって、思われるかもしれないんですけど……この前の事件で、私を攫った人たちが……言ってたんです。『春日井官房長官の娘』って……」


 矢上の顔つきに、僅かに鋭さを増す。眼鏡の位置を直す何気ない仕草の裏で、傭兵として生きた経験が、血の匂いに似た危険信号を嗅ぎ取っていた。


「それって、やっぱり桜ちゃんのことですよね? ニュースでも最近、桜ちゃんのお父さんの周りが物騒だって……。もしかしたら、また狙われるんじゃ……私が、そばにいてあげなきゃって思うんです」


 健気な決意を口にする心春に、矢上は黙考する。いくら向井が粗暴な人間だとしても、そう都合よく人質を間違えるだろうか。もしかしたら、何かしらの作為が働いていたのではないか。


 けれど、目の前の少女の純粋な想いを、不確かな憶測で汚すことは、彼にはできなかった。


「……分かりました。ですが、決して無茶はしないと約束してください」


 やがて彼は、カウンターの下から小さなベルベットの箱を取り出した。中には、雪の結晶を模した精巧な銀のチャーム。裏面には、目視では判別不能なほどのGPS発信機が埋め込まれている。


「わ、綺麗……」

「気休めかもしれませんが。お守りです」


 矢上は、あえて少し芝居がかった口調で言った。その声は、ただのマスターがアルバイトにかけるには、あまりに真剣な色が滲んでいた。心春は、彼の不器用な優しさが嬉しくて、力強く頷いた。




 週末に訪れた春日井家の邸宅は、現実感のない壮麗な洋館だった。鉄製の重厚な門が人を拒むようにそびえ、幾何学的に整えられた庭園には人の営みの温かみが感じられない。


 磨き上げられた廊下は心春の足音を冷たく反響させ、壁に飾られた歴代当主たちの肖像画が、値踏みするように彼女を見下ろしている。豪奢だが、まるで時が止まった美術館のように、全てが無機質で冷たい空間だった。


 しかし、桜子に案内されて通された大理石の広大なキッチンだけは、別世界だった。近代的なアイランドキッチンには柔らかな光が満ち、バターと砂糖が溶ける甘い香りが、この屋敷で初めて心春を心から歓迎してくれた。


「あらあら心春さん、小麦粉が」

「ご、ごめん! バフってなっちゃった!」


 桜子がいたずらっぽく心春の鼻先に指で小麦粉を拭うと、心春もはにかみながら頬を掻く。巨大な空間に二人の屈託のない笑い声が響き、冷たい大理石がほんの少しだけ温まったように感じられた。


 サークルの新作であるフルーツタルトを作る。ひんやりと滑らかな生地をこね、カスタードを炊き、艶やかな旬の果物を飾り付けていく。ボウルに残ったクリームをこっそり指で掬って舐め合うのは、まるで本当の姉妹のようだった。


 将来の夢を語り、恋の話に頬を染める。


 それは心春にとって、人生で最も幸福な時間だった。孤独だった自分の世界に差し込んだ、唯一無二の光。この友情こそが、彼女の世界のすべてだった。


 夕食後、暖炉の炎がパチパチと音を立てるリビングで、桜子がハーブティーを淹れてくれた。光に透けるほど繊細なアンティークのティーカップに、黄金色の液体が注がれる。


「心春さん、お疲れでしょう? リラックスできる、特別なブレンドですよ」


 カモミールとラベンダー、そして知らない異国の花のような甘い香りが、湯気と共に立ち上る。一口含み、その温かさにほう、と息をついた。


 暖炉の炎とハーブの香りに包まれ、心春の心は完全に武装を解いていた。だからこそ、ずっと胸の内にあった懸念を、今なら伝えられると思ったのだ。


「あのね、桜ちゃん。実は、桜ちゃんのことで心配なことが……」


 懸念を口にしようとした、その時。


 世界が、水の中に落とされた絵の具のように、ゆっくりと滲み始めた。


 暖炉の炎が万華鏡のように乱れ、桜子の輪郭が曖昧に揺らぐ。


「あれ……? さくら、ちゃん……なんか……からだに、ちからが……」


 思考が麻痺していく。抗いがたい眠気が、意識を引きずり込んでいく。ソファのビロードが、やけに冷たく感じられた。助けを求めようにも、声にならない。崩れ落ちる彼女の耳に、桜子の声だけが、異常なほどクリアに響いた。


「ええ、ごゆっくりおやすみなさい。わたくしが、あなたのために淹れたものですから」


 薄れゆく視界の端で、心春は見た。


 慈愛と侮蔑、歓喜と冷酷――その全てを溶かし込んだ、今まで見たこともないほど恍惚する桜子の笑顔を。




 目覚めた時、心春は硬い椅子に縛り付けられていた。ひんやりとした空気が肌を刺す。


 そこは、壁一面に無数のモニターが埋め込まれた広大な地下室。そして全てのモニターが、あの日の夜廃ビルで戦う矢上の姿を、様々な角度から、繰り返し再生していた。


 壁にはおびただしい数の隠し撮り写真。喫茶店での彼、街を歩く彼、本を読む彼。


「桜ちゃん……? 大丈夫……? 私たち、何か……」


 混乱する頭で、なおも親友の身を案じる心春の前に、暗闇から桜子が現れた。純白のワンピースは、どこにも汚れがない。


「ええ、大丈夫ですよ。少し、眠っていただいただけです」


 噛み合わない会話に、心春は初めて本能的な恐怖を覚えた。


「これ、何……? どうして私、縛られて……」

「ごめんなさいね。これも、必要なことなのです」


 桜子は壁の写真を愛おしそうに撫でる。その指先が、矢上の顔をなぞる。


「美しい……。本当に、美しい方……」


 そして振り返り、心春を射抜くように見つめた。


「ねえ心春さん。この前の誘拐事件、本当に犯人がわたくしたちを間違えたと、そう思いますか?」

「なんでそれを……」

「あれは全部、わたくしが仕組んだことなんですよ」


 静かに、しかし底知れない狂気を湛えた告白が始まった。


「全てわたくしの自作自演。父の裏のコネを使えば、あの程度の闇組織チンピラを雇うのは容易いこと。あなたを攫わせることで、〝彼〟が動くかどうか、試したのです」


 心春の顔から、急速に血の気が引いていく。


「そして、わざとあなたに似た格好をしてテレビに映りました。一緒に買いに行った双子コーデも、そのための布石。後ろ姿だけなら、見分けがつかないでしょう?」

「どうして……そんなこと……」


 震える声に、桜子は妖しく目を細めた。


「全ては雪の雫スノードロップを、呼び覚ますため」

「スノー……ドロップ……それって」

「彼の、傭兵時代のコードネーム。雪の雫。純白の花でありながら、その球根に致死性の毒を宿す。皮肉なことに、花言葉は――『あなたの死を望みます』……美しくて、危険。まさに彼そのもの」


 桜子はモニターの一つを指差す。そこには、砂漠で戦う若き日の矢上がいた。


「幼い頃、海外でテロに巻き込まれました。護衛は全滅し、死を覚悟した瞬間――彼が現れたのです。まるで死神のように敵を殲滅し、返り血を浴びながら、ゴミでも見るような目でわたくしを——そして、去っていった」


 過去を思い出すように、桜子はうっとりと目を閉じる。


「あの日、わたくしの世界は、彼という存在に飲み込まれた。以来、彼の全てを調べ上げました。戦歴、技術、殺害数、使用武器……その全てを」


 タブレットの画面に、矢上の詳細なプロフィールが映し出される。


「でも、彼は変わってしまった。牙を抜き、爪を隠し、こんな辺境の街で喫茶店の真似事など……!」


 桜子の声に、憎悪が滲む。


「許せなかった。伝説の傭兵が、ただのバリスタに堕ちるなんて。だから、彼を元の、あの美しい姿に戻して差し上げようと決めたのです」

「それで……私を……?」

「ええ。あなたは、最高の餌でしたわ」


 画面に、大学入学当初の心春が映る。一人で寂しそうに弁当を食べる姿。


「覚えていらっしゃいますか? あのいじめ」


 心春の体が震えた。地獄の日々の記憶。


「あれも、わたくしが裏で仕組んだもの」

「……なにを……? 言って……」

「辛かったですか? 悲しかったですか? ごめんなさいね? あなたを孤立させ、絶望の淵に突き落とし、そこからわたくしが救い出す。そうすることで、あなたという、絶対にわたくしを疑わない駒を手に入れるためだったのです」


 残酷な真実が、心春の心をナイフのように引き裂いていく。


「あの女子生徒たちにはお小遣いを渡してお願いしましたの。官房長官の娘の頼みとあらば、簡単でしたわ」

「嘘……嘘だよね……?」

「本当ですよ。発端はいじめの偶然。けれど、その火に油を注ぎ、形を整えたのはわたくし。感謝しています、心春さん」

「本当なの……?」

「そしてあなたは、わたくしがあの喫茶店を勧めると、すぐにバイトを始めてくれた」


 桜子の手が、ワゴンに並んだ鈍色の器具を撫でた。メス、鉗子、そして見たこともない形状の刃物。


「でも、計画は失敗しました。彼は誰も殺さなかった。ブラックフラッグの連中を、全員生かしたまま制圧してしまった。伝説のスノードロップなら、皆殺しにしたはずなのに。きっと、あなたの存在がそれを邪魔した」


 失望の色を浮かべ、桜子は心春を見つめる。


「皮肉ですよね。あなたをきっかけにしようとしたのに、あなたがブレーキになってしまった。でもわかったの、彼が本当の〝雪の雫スノードロップ〟に戻るためには、そのブレーキを壊しちゃえばいいって」


 メスが、蛍光灯の光を冷たく反射した。


「あなたには、わたくしの神を蘇らせるための、尊い生贄になっていただきます」

「やめて……桜ちゃん……私たち、親友でしょ……?」


 涙ながらの問いに、桜子は心底不思議そうに、可憐に首を傾げた。


「親友……? ああ、そう見えていましたのね。……ふふ、よかった。わたくし、ちゃんと上手くのですね」


 刃が、心春の頬に触れる。冷たい金属の感触。

 最初の一撃が、心春の腕を切り裂いた。鋭い痛みが走り、熱い血が流れる。


「いや……痛い……! 痛いよ……さくらちゃん……」


 その時だった。


 遠く、一階の方から、何かが床に倒れ込む硬質な残響が、微かに届いた。


 恐怖に喘ぐ心春とは対照的に、桜子の唇が、笑みの形に歪む。彼女は手を止めると、うっとりと天井を見上げた。


「来ましたわね。〝彼〟が……」


 桜子は、心春の胸元で微かに光る銀のチャームに視線を落とす。矢上がお守りとして渡した、雪の結晶。


「そのチャームからの信号をたどって」

「え……?」


「GPS発信機が埋め込まれていることくらい、すぐに分かりましたわ。わたくしがそれに気づかないとでも? これも、あなたという聖餐を彼に捧げるための、大切な道標なのですから」


 桜子の言葉の意味を、心春は理解できなかった。ただ、すぐ近くで二つ目の音がした。


 人の体が崩れ落ちる、肉を打つような鈍い音。そして、微かな呻き声が聞こえ、すぐに途切れた。


 地下室に続く廊下で、警備員がやられたのだ。


 桜子はナイフを握り直し、ゆっくりと地下室の扉へ視線を向けた。まるで、舞台の幕が上がるのを待つ主役のように。


「心春さん、あなたには心から感謝しますわ」


 錠を破壊された扉が、重い音を立てて開いていく。


 暗い廊下を背に、そこに立っていたのは、いつもの銀縁眼鏡をかけた、喫茶店のマスターだった。


 矢上の目に映ったのは、地獄だった。


 血塗れでかろうじて息をしている心春と、その返り血を浴びて恍惚と佇む、純白の桜子。


「あぁ……!」


 桜子が、歓喜に打ち震えながら振り返る。


「来てくださったのですね、雪の雫スノードロップ!」


 矢上の心の湖面に張り詰めていた薄氷が、音もなく砕け散った。怒りも、悲しみも、後悔も、全てが蒸発し、氷点下の殺意だけが残った。


「美しい……! その瞳! それこそが、わたくしが焦がれ続けたあなたの本当の姿!」


 桜子は両手を広げる。恋人を迎えるように。


「さあ、わたくしを殺して! あなたの手で、わたくしを伝説の一部にして! そして戻るのです! 雪の雫スノードロップへ!!」


 しかし、矢上は桜子を見ていなかった。


 彼女の存在など、まるでそこにないかのように通り過ぎ、彼は静かに心春の前に膝をついた。


 矢上の指先が、煌めくような速さで心春を縛るロープを断ち切っていく。一切の躊躇いも、乱れもない。


「心春さん」


 彼の声は、凪いだ湖面のように静かだった。いつもの喫茶店で彼女に語りかけるように。


「遅くなってすみません。地下で、電波が届きづらかったようです」


 傷に触れないよう、そっと彼女の頬に触れる。


「……なぜ?」


 完全に無視された桜子の顔が、憎悪と屈辱に歪む。


「なぜそいつを……! わたくしを見なさい! あなたの再誕の口火は、このわたくしでしょう!」


 桜子が、なおも心春に近づこうと一歩踏み出した、その時。


 矢上の姿が掻き消えた。


 桜子は反応すらできず、喉笛に鋼鉄の指が食い込み、壁に叩きつけられる。


「そう……これ……! この痛み……! 最高の、悦び……!」


 苦痛の中でさえ、桜子は笑っていた。


「あの日あなたに救われた命が……本来失われたはずの人生が、今、そのあなたによって終わらされる……! あぁ……逝く逝く逝く逝く逝くぅ!!」


 矢上の手に、さらに力が込められる。


 瞬間――


「だめ……」


 か細い声が、地下室に響いた。血まみれの心春が、震える指先で、彼のズボンの裾を弱々しく掴んだ。


「マスター……人を……殺しちゃ……だめ……だよ」


 血の混じった咳と共に、言葉が紡がれる。


「マスターは……もう……そんな人じゃない……私……知ってる……優しい……マスターを……信じてる……」


 彼女の言葉が、殺意という濁流を堰き止める、最後の防波堤となった。琥珀色の光を灯す喫茶店の情景が、心春の笑顔が、脳裏をよぎる。


 彼の手から、力が抜けた。


 床に崩れ落ちた桜子が、激しく咳き込む。


「帰りましょう、心春さん。二度までも、巻き込んでしまってすみません」


 心春を抱きかかえ、地上へあがる階段に向かう。


「ふざけないでッ!!」


 望んだ結末を否定され、憎悪に顔を歪めた桜子が、隠し持っていたナイフを手に、矢上の腕の中にいる心春めがけて突進する。


「私の邪魔をするなぁッ!!」


 桜子を凍てつく瞳で一瞥すると、床のメスを足で蹴り上げ、空中で掴み、一切の躊躇なく桜子の頸動脈洞を柄で正確に打ち、迷走神経反射で失神させた。


「あ……」


 桜子は悲鳴すら上げられず、白目を剥いて崩れ落ちる。殺しはしない。それが、心春の願いだったから。


「マスター……よかった……」


 薄れゆく意識の中、心春が血で汚れた顔で微笑む。


「人殺しに……戻らなくて……」


 その言葉を最後に、彼女の瞳から光が消えた。


「心春さん! しっかりしろ!」


 矢上は、絶望的な暗闇の中を、一条の光を探すように駆け出した。




 あれから、半年。神居市に、今年最初の雪が降っている。


 喫茶『すのうどろっぷ』は、今日も静かだった。矢上はカウンターの内側で、一杯のコーヒーを淹れている。豆を挽く音、湯が落ちる音。半年前と何も変わらない日常。


 春日井桜子は、親の権力によって事件を揉み消し、心神喪失を理由に罪に問われることなく、今もどこかの高級医療施設でしているという。


 あの日、矢上が裏社会のコネで運び込んだ病院で、心春は一命を取り留めた。だが、奇跡的に意識を取り戻した時――彼女は、矢上のことも、喫茶店のことも、何もかもを忘れていた。過酷な体験による、防衛的な記憶喪失。


 矢上は、彼女の前から姿を消すことにした。自分の存在が、いつかまた彼女を闇に引きずり込むかもしれない。彼女が忘れてくれたのなら、それがいい。そう、自分に言い聞かせて。


 カラン、とドアベルが乾いた音を立てた。


 矢上の時間が、止まった。


 湿った雪の匂いと共に、ピンクブラウンの髪を揺らし、一人の女性が入ってくる。半年前よりも少しだけ大人びた横顔。記憶の中にある快活な笑顔は鳴りを潜め、どこか物静かな雰囲気をまとっている。


 心春だった。


 彼が守るために手放した、失われた日常そのものが、歩いてきた。


 矢上の心臓が、万力で締め上げられたかのように大きく軋む。だが、彼はカウンターの木目に爪を立てることで衝動を殺し、完璧な店主の仮面を被った。ただの、初対面の客として。


「……あの、営業してますか?」


 記憶にある声より、少しだけ低いトーン。それがたまらなく胸を締め付けた。


「ええ。いらっしゃいませ」


 喉の奥から絞り出した声は、幸いにも震えてはいなかった。


 彼女は、吸い寄せられるようにカウンター席に座る。そこは、心春がいつもアルバイトをサボっては、賄いをねだる時の指定席だった。


 矢上は、ほとんど無意識に淹れてしまう彼女の好きな銘柄の豆に手を伸ばしかけ、寸前で思いとどまる。


「わ……いい香り……。コーヒーの匂い、ですよね? なんだか、すごく……懐かしい感じがします」


 店内を不思議そうに見回していた彼女の視線が、ふとカウンターの隅で止まった。そこに置かれていたのは、一冊の古い文庫本。


「……これ、素敵ですね。ブックカバー」


 彼女の指が、何かに導かれるように、深い焦げ茶色のレザーに触れる。一つ一つ手で刻印された、不揃いだが温かみのある雪の結晶の模様を、そっとなぞった。


「手作り、でしょうか。なんだか……見てると、胸が温かくなるような……」


 矢上は、息を飲んだ。それは、彼女自身が、かつて彼のために作ってくれたものだった。


「ええ……お客様からの、いただきものです」

 

 そう答えるのが、精一杯だった。

 彼女はメニューを手に取ると、ある一点を指差した。


「ええと……カフェオレ、お願いします。私、コーヒーが苦手なのに、なぜだか無性に飲みたくなっちゃって」


 完璧な雪の結晶を描いたラテアート。それを目にして、宝石のように瞳を輝かせた至福の表情。脳裏に焼き付いて離れない記憶の奔流を振り払い、彼は黙ってサイフォンに火を灯した。


 慣れた手つきのはずが、指先が微かに震える。それを叱咤するように一度強く拳を握り、スチームしたミルクを注ぐ。だが、そこにあの雪の結晶を描くことは、どうしてもできなかった。あれは、〝彼女〟のためだけのものだったから。


 ごくシンプルなカフェオレを、感情を殺して彼女の前にそっと置く。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


 彼女がカップに口をつけた、その時だった。

 衝動的に、体が動いていた。


「よろしければ」


 もう一皿、彼女の前に差し出す。

 白い皿の上で、香ばしく焼かれた仔羊の肉が、深紅のトマトソースと純白のヨーグルトに彩られた、イスケンデルケバブ。

 彼女が「世界で一番好き」だと言ってくれた、思い出の料理。偶然にも、今日の賄いで作っていたのだった。


「え……? あの、私、頼んでませんけど……」


 戸惑う心春に、矢上は練習してきたかのように、静かに告げた。


「試作品の、サービスです。お口に合うか、感想を」


 あまりに真摯な瞳に、心春は断れなかった。おそるおそるフォークで肉とパンを口に運ぶ。


 すると、彼女の瞳が、大きく見開かれた。


 濃厚な旨味、酸味、優しさ、そして深いコク。味が、ただの味覚情報としてではなく、温かくて幸福な〝感情の塊〟となって、彼女の魂を直接揺さぶった。


 知らないはずの味。知らないはずの場所。なのに、どうしようもなく満たされる。心のいちばん奥にある、失くしてしまった大切なパズルのピースが、ぴたりと嵌まるような感覚。


「……おいしい」


 ぽつり、とこぼれた呟きは、ほとんど吐息に近かった。


「すごく……懐かしくて……温かい味がします」


 彼女の瞳から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。堰を切ったように、次から次へと。


「……あれ……? どうして、だろう……。涙が、止まらない……」


 自分で自分の感情が分からず、混乱したように何度も涙を拭う心春。


 矢上は、何も言えなかった。


 言えるはずがなかった。駆け寄って抱きしめたい衝動と、彼女の平穏を壊してはならないという理性が、体の中で激しくせめぎ合う。ただ、万感の想いを喉の奥で殺し、飲み込むことしかできなかった。


 失われた記憶の奥深くで、彼女の魂が覚えていたのだ。


 この場所で、世界で一番幸せな味がしたことを。


「あの……」


 涙で濡れた瞳で、それでも彼女は、何かを決意したように顔を上げる。


 その言葉は、奇跡のように、店内で響いた。


「――ここって、バイト募集してたりしませんか?」

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すのうどろっぷ 中川隼人 @hayato-nakagawa

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