すのうどろっぷ
中川隼人
I-喫茶すのうどろっぷ
その街の片隅、まるで世界の喧騒から忘れ去られたかのように、喫茶店『すのうどろっぷ』は琥珀色の光を灯していた。
二〇二五年、五月。花金という言葉も過去の遺物になりつつある午後七時。店内を満たすブルーマウンテンの残り香が、誰もいない客席の間を彷徨っている。二十席の椅子たちは、今日も主人を迎えることなく、ただ静かに佇んでいた。
「マスター。今日も、私たち二人っきりみたいですねー」
アルバイトの
手持ち無沙汰に濡れ布巾を滑らせる彼女の視界の片隅で、棚に置かれている一冊の文庫本が目に入った。いつもそこにあるマスターの私物だが、そういえば、表紙の角はずいぶんと丸くなっている。
「ええ。これ以上ない、贅沢な時間ですよ」
店主の
しかし、その厚い胸板とワイシャツ越しにも分かる剛健な腕は、年齢という記号を無意味なものに変えている。鋼のような体躯に反し、彼の声と物腰は、上質なカシミアのように柔らかい。
「もうっ、そんな悠長なこと言って!」
心春は頬を膨らませた。
「このままじゃお店、潰れちゃいます。私のバイト代も……」
「ご心配には及びません。私の道楽に、心春さんを巻き込むつもりはありませんから」
彼の言う道楽が、傭兵時代に築き上げた資産を、ウォール街の怪物どもとチェスをするように運用した結果であることなど、目の前の快活な大学生が知る由もなかった。
矢上は、エスプレッソマシンのスチームノズルから一瞬だけ蒸気を噴出させた。白い霧が天井に向かって昇り、やがて店内の薄明かりに溶けていく。
「そろそろ休憩にしましょう」
彼は手を止めて厨房に向かった。
「新作の味見をお願いしたいのですが」
「え? 新作ですか?」
心春は期待と不安の入り混じった表情で、厨房から聞こえる油の跳ねる音に耳を澄ませる。
十分後、矢上が運んできた皿を目にした途端、心春の瞳が宝石のように輝いた。
「これ……イスケンデルケバブ!」
白い皿の上で、薄切りにされた仔羊の肉が褐色の輝きを放っていた。トーストしたピタパンを土台に、肉が幾重にも重なり、その上から深紅のトマトソースが芸術的な曲線を描いて流れ落ちている。
傍らには純白のヨーグルトがそっと寄り添い、黄金色に煮詰めたバターが全体を聖油のように祝福していた。立ち上る湯気は、クミンとオレガノ、そして仔羊特有の野生的な香りを運んでくる。
「よくご存知ですね」
矢上は心春の横にカフェオレを置いた。ミルクの泡が、完璧な雪の結晶を描いている。
「ブルサ地方の伝統料理を、少しアレンジしました」
「わーい、いただきまーす!」
心春がフォークで肉とパンを持ち上げた瞬間、肉汁がゆっくりと皿に滴り落ちた。口に運ぶと、まず仔羊の濃厚な旨味が舌を包み込む。
続いてトマトソースの爽やかな酸味が追いかけ、ヨーグルトのクリーミーな優しさが全体を中和する。最後にバターの深いコクが、すべての味を一つの交響曲へとまとめ上げた。
「んんー!」
心春は目を閉じて、至福の表情を浮かべる。
「羊肉なのに全然臭みがない……むしろ、この野性的な香りがたまらないっていうか。それにこのソース! トマトの酸味とスパイスのバランスが完璧っ。マスター、これ絶対、看板メニューにしましょうよ!」
「お口に合ったようで何よりです」
一口カフェオレを飲み、真剣な眼差しで矢上を見つめた。
「だから! もっと宣伝しないと勿体ないです! 私のサークルのSNSでバズらせますから!」
「お気持ちだけ、ありがたく頂戴しておきます。ひっそりと。それが、この店の身上ですので」
矢上は淡く微笑んだ。その姿に、心春は少しだけ唇を尖らせる。
話題を変えようと、彼女は自身のサークル活動について話し始めた。
「そういえば、私の料理研究会、今度テレビの取材が来るんです!」
心春の声が弾んだ。
「月曜日の夜に収録なんです。『若者の食文化』みたいな特集らしくて。『Stella Kitchen』、ついに全国区ですよ!」
「ほう、それは素晴らしい」
「まあ、部員100人以上いるんで、私が映るのは豆粒くらいでしょうけど!」
屈託なく笑う心春を見ながら、矢上は短く相槌を打っていた。
その時だった。
棚の最上段から調味料の瓶が滑り落ちた。心春が声を上げる暇もない。矢上は振り向きもせず、流れるような動作で左手を伸ばし、落下する瓶を音もなくキャッチ。まるで、瓶の軌道が最初から見えていたかのように。
「……え?」
「おっと、危なかったですね」
矢上は何事もなかったように瓶を棚に戻す。
「どうかしましたか? 心春さん」
「い、いえ……」
心春は釈然としない表情を浮かべたが、皿の上のイスケンデルケバブがあまりにも魅力的だったので、すぐに食事に意識を引っ張られる。
そんな窓の外では、神居市の街灯が一つ、また一つと灯り始めていた。
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