第4話

 薄暗い廃ビルの中、矢上と向井の視線が交わる。

 空気が、ぴんと張り詰める。


「お元気でしたか、向井さん」

「なんだその気持ち悪い喋り方は、一般人カタギ気取りかよ」


 向井はマンベレを正眼に構えた。切っ先は、矢上の喉元に向いている。

 周囲の、6人の部下たちもナイフに持ち替えていた。


 心春は困惑していた。矢上と向井が顔見知りであることにだ。柔和な喫茶店のマスターと、闇の世界の住人との接点を想像できなかった。


「セイリア以来でしたか?」

「そうだ。お前が革命軍を皆殺しにしたあの時以来だ」


 何のことだろうか。心春はセイリアから記憶をたどる。

 セイリアと言えば、10年ほど前まで激しい内線が繰り広げられていた国だ。半ば大国の代理戦争と化していた背景もあって、様々な国から傭兵が介入していたなんて話も聞いた。


 まさかあのマスターが。心春は訝しむ。しかし、ただの人間ではないことは、今思えば、日常の片鱗に見え隠れしていた気がする。


 部下たちはじりじりと矢上と距離を詰めていた。矢上は、両手をだらりと下げていた。

 2人が、左右から飛びかかる。刺突が交差する。

 矢上の足が、男の腹にめり込んでいた。矢上は体を捻る。もう1人の腕を取り、地面に叩きつける。

 残りの部下たちは動揺する。殺気がまったく無かった。反応だけで攻撃した。そんな動きだ。


 矢上に返り討ちにされた2人は、地面で痙攣していた。

 矢上の表情は涼しいままだ。


「腕は衰えていないようだな」

「いいえ、衰えましたよ。こっちに住んでからは勉強ばかりの日々で」


 向井は矢上の周囲を歩きながら、少しずつ距離を詰める。


「向井さん、休戦にしませんか?」


 矢上は肩を竦める。向井の動きが止まる。


「私、昔から弱いもの虐めが嫌いでして」

「てめえッ!」


 4人の部下が一斉に飛びかかる。矢上は一歩後ろに下がる。

 裏拳を顎に当て、蹴りを股間に入れる。同時に行っていた。2人が倒れる。

 刺突。右から来た。矢上は上半身を逸らしつつ、蹴りを膝に入れる。骨の、砕ける音がした。倒れざま、顎に膝を入れる。


「マスター危ない!」


 背後からナイフが振り下ろされる。矢上は振り向かずに、肘を腹にめり込ませた。男は、泡を吹いて前のめりに倒れる。


 矢上は周囲を見る。向井の姿が無かった。殺気。飛んでくる。咄嗟に体を逸らす。風が、胸元を掠めた。シャツが、ネクタイごと横に切れていた。一血が、真横に線を引いていた。


 マンベレが、空中を旋回して向井の手元に戻る。矢上はふうと息を吐いた。かわすだけで精一杯だった。


「これを躱したのはお前が初めてだよ」

「なかなか素晴らしいものをお持ちですね」

「戦場から逃げたお前と違って、俺はずっと戦っていたからな」

「ブラック・フラッグ」


 向井の肩がぴくりと動く。


「それがあなたのですか」


 神居市の議員と繋がっているテロ組織だ。情報はとっくに仕入れていた。

 接触する機会が無かっただけで、向井のことも神居に来た瞬間から知っていた。汚れ仕事ばかりさせられていることも

 矢上は口元に笑みを浮かべる。


「お似合いの職場ですね」


 向井は顔を真赤にする。


「ぶっ殺してやる!」


 マンベレを振りかぶる。矢上が消えていた。いや、眼の前にいた。

 向井は投げようとしていたマンベレを振り下ろす。腕が、上に弾かれる。

 マンベレが天井に刺さっていた。

 矢上の右足が高く上がっていた。靴底が、天井を向いていた。


「二度と、俺の前に現れるな」


 踵。向井の頭頂部に落とされる。向井の顔が地面にめり込む。

 向井は、ぴくりとも動かなかった。

 心春は覗き込むように見る。


「……これ、生きてますよね?」

「大丈夫ですよ。仮にも中東の戦火を生き抜いた男です。これくらいじゃあ死にませんよ。たぶん」

「たぶんって」


 矢上は心春に手を差し伸べる。心春は一瞬逡巡したがその手を掴む。固くて暖かい手であった。


「お怪我はございませんか?」

「大丈夫です。マスターが助けに来てくれたから」


 遠くから、サイレンの音が聞こえてきた。少しずつ大きくなってくる。


「そろそろ警察が到着するころですね。心春さん、ちょっと失礼」

「うわわわっ!?」


 矢上は、心春の背中と膝裏に手を当てて持ち上げる。


「こ、これってお姫様だっ――」

「口を開かないでください。舌を噛みますよ」


 矢上はそのまま走り出し、裏口の階段を飛ぶように駆けていった。


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