第3話

 拳が頬を向けて振り抜かれる。

 男が、地面に転がる。


 薄暗いビルの高層階であった。

 かつてはオフィスがあったこのフロアは、コンクリートが剥き出しになっており、寂寞とした風体になっていた。

 月明かりと、僅かな電球が部屋を照らしている。

 割れた窓から風が吹き抜ける。

 荒い吐息の音が響いている。


 向井は、拳を震わせていた。

 心春は心臓の音が大きくなるのを感じていた。


「俺はなあ、春日井の娘を連れてこいって言ったんだよ。全然違う女連れてきやがって」

「すみません向井さん、でも」


 向井は鳩尾に蹴りを入れた。「この女が春日井の娘と背格好が似ていて」という言葉が口から出ることはなかった。どちらにせよ、失敗が帳消しになるわけではない。男は腹を押さえて悶絶する。


「あーあ、どうすんだよどうすんだよどうすんだよ。だから俺はこんな回りくどいことしないで、直接自宅襲えば良いんだってボスに言ったのによお」


 向井は袋から飛び出ている柄を掴んで、外に出した。

 刃が、三方向に枝分かれしていた。ぎらりと、光を反射する。斬りつけたものを絶対に殺す。そんな意志が形状から読み取れる。

 マンベレ。アフリカ式の短刀だ。


 向井はコンクリート片を真上に放り投げると、マンベレを振る。

 コンクリートが豆腐でも切るかのように真っ二つになる。

 破片が、心春のすぐそばに落ちる。心春は小さく悲鳴を上げる。


「お嬢ちゃーん」


 向井は間延びした声を出すと、屈んで心春の顔を見た。


「俺さあ、ボスの命令でカンボーチョーカンの娘を誘拐しなくちゃいけなかったのよね。知ってるよね? 春日井櫻子ちゃん」


 心春は何も口に出せなかった。櫻子は同じサークルの同級生だ。今日、同じテレビ番組に出ていた。


「ごめんねえ、俺の馬鹿な部下が櫻子ちゃんと君を間違えちゃってさあ。俺からもキツく言っておくから許してね」


 向井は満面の笑みを顔に貼り付ける。心春の背中に汗がじわりと滲む。


「じゃ、じゃあ、帰してくれるんですか……?」


 向井は突然立ち上がると、天井を見上げて高らかに笑った。


「んなわけねーだろ!」

「ひっ!」


 ナイフ。心春のすぐ横に深々と刺さっていた。向井はそれをゆっくりと拾い上げる。激昂していた。向井はナイフを高く振りかざす。


「とーぜん、お前には死んでもらう。恨むなら櫻子ちゃんを恨んでくれ」


 向井はナイフを握る手に力を込める。

 心春は目を閉じる。涙が滲み流れる。

 背後で、どさりと音が聞こえた。


 向井は振り返る。部下が1人倒れていた。


「なんだあ?」


 向井は部下に近づこうとする。影。正面に躍り出た。

 部下は一斉に銃を構える。


「なんだコイツは!」

「待て馬鹿! 撃つな!」


 全員の動きが一瞬止まる。影は、10人の集団のちょうど中央にいた。発砲するとと同士討ちになる位置だ。

 風が、唸りを上げる。3人が、糸が切れた人形のように倒れた。


 向井は目を凝らす。

 給仕服を着た男が立っていた。

 涼しい視線をこちらに向ける。


「おや、向井さんでしたか。お久しぶりです」


 矢上はマンベレを握る手に力を込めた。


「てめえは……矢上わたる!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る