銀猫はしなやかに夜を舞い
北 流亡
第1話
真鍮のハンドルを回すと、コーヒーの風味が鼻先に漂ってきた。
ほのかなナッツ臭は、ブラジル豆特有のものだ。
矢上は、ミルの蓋を開ける。コーヒーの味は9割方豆の挽き方で決まる。
豆の粒は均一であった。ハンドルを回す。ただそれだけの動作だが、出来が安定するまで2年はかかった。
挽いた豆をドリッパーに入れ、肩くらいの位置から湯をそそぐ。
豆が膨らみ、活きたコーヒーの香りが店内に行き渡る。
喫茶「すのうどろっぷ」は金曜日の夜にも関わらず、客がひとりもいなかった。オールドジャズの柔らかな音色が良く聞こえた。
「マスターの淹れるコーヒーって本当に良い香りがしますよね」
北山
心春はこの喫茶店のアルバイトである。普段は近くにある神居大学に通っていて、週4くらいのシフトでホールスタッフをしている。
矢上はコーヒーをカップの中ほどまで入れると、小鍋で温めていた牛乳を注ぐ。仕上げに、蜂蜜を入れてマドラーで混ぜる。黒と白が混ざり合い、淡いベージュになる。コーヒーが飲めない心春用のアレンジだ。
「どうぞ」
「わあ、ありがとうございます!」
心春はカフェオレを一口飲むと、ほうと息を吐いた。
すのうどろっぷがある神居市は、5月上旬ではあるが、まだまだ夜は肌寒かった。
矢上は、鍋で煮込んでいたものをすくい取り、更に盛り付ける。
心春の目が輝く。さっきから食欲を刺激する香りが漂っていた。
「これ、メニューに入れようか検討しているのですが」
トマトで煮込んだ茄子料理であった。矢上は仕上げに刻んだパセリを乗せる。
「パトゥルジャン・イマム・バユルドゥです」
「ぱ、ぱとぅる、なんですって?」
「パトゥルジャン、イマム、バユルドゥです。トルコ語で『お坊さんの気絶』って意味です」
ほー、と心春の口が大きく開く。
「こんなに美味しそうな見た目なのに物騒な名前ですねえ」
「お坊さんが気絶するくらい美味しい、ってことらしいですよ」
「それは期待大ですね、いただきます」
心春は、茄子をフォークで半分に切り、口に運ぶ。表情がぱっと華やぐ。
「濃厚~! 茄子がトマトや香味野菜の旨味を全部吸って、相乗効果でとんでもなくおいしくなってますね! これ確かに気絶しちゃいそう!」
心春は満面の笑みで次の茄子を頬張る。4つ並んでいた茄子があっという間に皿から消えていた。
「いかがでしたか?」
「いやあ、めちゃめちゃおいしかったです! これ絶対売れると思いますよ!」
心春は笑顔から一転、据わった目で矢上を見る。
「お客さんが来れば」
心春は一文字ずつ強調するように言った。
「もう1年くらい働いて、今更言うのもヘンですけど、このお店お客さんが少なすぎます!」
矢上は気にしない様子でカップを磨いている。
「もっと宣伝とかするべきですよ! 今はもう『モノが良ければ売れる』なんて時代じゃないんですよ! インスタとかツイッターを使って世間にアピールするべきです!」
「ご心配ありがとうございます。でも大丈夫ですよ。お嬢さんを1人養えるくらいには稼げていますから」
矢上が口元を緩める。心春は口をとがらせる。
「なんか悪いなって思っちゃうんですよね。マスターとおしゃべりして、コーヒーとまかないをご馳走になるだけの日もありますし」
「お気になさらず。それも見越しての給料ですから」
「それはそうなのかもしれないですけど……あ、そうだマスター!」
「どうされました?」
矢上はカップを乾いた布巾に置く。
「月曜日、テレビ出るから見てくださいね! 18時20分くらいから『どさんこガイド』に! 生放送ですよ!」
矢上は、その日は休みにしてくれと、珍しく言われたことを思い出す。
「すのうどろっぷの宣伝もしますからね! お客さんわんさか来ますから、発注多めにしておいた方が良いですよ!」
「そうなるといいですねえ」
「もー、呑気なんですから」
心春は皿とコーヒーカップを持って立ち上がる。
「せめて洗い物くらいはやらせてくださいね……きゃっ!」
心春は段差に躓いた。皿とコーヒーカップが空中を舞う。手を伸ばすが届かない。コーヒーカップが地面に落ちる。目を閉じる。割れる音が、しない。
「心春さん、お怪我は無いですか?」
心春はおそるおそる目を開く。矢上が、皿を掴んでいた。
下を見て心春は驚く。コーヒーカップは、矢上の革靴の先端で、ぴたりと止まっていた。
矢上は爪先を跳ね上げる。カップが浮き上がり、手に収まる。
「……すごい。マスター、サッカーとかやってました?」
「似たようなことでしたら」
矢上は柔和な表情を崩さなかった。
カウンターに入ろうとする心春を手で制す。
「心春さん、あちら」
矢上が手のひらを入口に向ける。
常連の老夫婦が、立っていた。
心春はにこやかな表情を向ける。
「いらっしゃいませ!」
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