一話約5000字のホラー連作集 井上と千佳の怖くて甘い話を添えて

武州青嵐(さくら青嵐)

第1話 風鈴

 引っ越して二日目。

 帰宅すると、ベタが死んでいた。


 独り立ちする際、母が買ってくれた観賞魚だった。


 大学卒業までずっと親元で暮らしていたのだが、新卒採用者は2年間、研修も兼ねて本社預かりとなる。地元民以外は全員寮に入ることが決まっていた。


 そのとき、『寂しくないように』と母がもたせてくれたものだ。


 たかが魚と思っていたのに、ベタは人懐っこかった。

 千佳を認識すると、泳いで近づいてきたり、エサをやるときに指をつついたりした。


 ほかの魚にはないラビリンス気管というもので呼吸をするため、世話もしやすい。


 紺色の大きく美しいひれを動かして泳ぐ姿も絵になった。


 なにより、帰宅して「ただいま」と言える相手がいることがこんなに重要だと思わなかった。


 そのベタが死んでしまった。


 研修終了と同時に退寮することになり、新たにみつけたアパートに引っ越した翌日のことだった。


 帰宅すると、水槽の中で腹を見せて浮いていた。

 千佳は靴を脱ぎ捨てて駆け寄り、何度も水槽をつついたが、まったく反応しない。どう見ても死んでいた。


(どうして……)


 頭に浮かんだのは気温だ。ベタはそんなに厳密な温度管理も必要なかったが、なにかがダメだったのだろうか。夏日などまだ先の話なのに。


 寿命だったのか? スマホで検索する。そこには1年から1年半と書いてあった。千佳の目から涙がこぼれた。


 ならばお迎えが来てしまったのだ。


(とにかく……埋葬しよう)


 着替えもせずに、水槽の蓋をあけた。いつもならエサをねだるベタは一切動かない。

 すん、と洟をすすり、ポケットからハンカチを取り出した。ベタをすくいあげ、包む。

 スコップなどないので、迷った末に使い捨てのプラスプーンを手に持った。


 そのまま、部屋を出た。


 このアパートは築35年の2階建て。内装はきれいだが、外観はかなり悪い。刑事ドラマの犯人が住んでいそうだなと千佳は思っていた。刑事がドアを叩くと、隣人が出てきて「〇さんなら留守ですよ」とか言いそう、と。


 家賃は激安だが、古い。そのためか2階に住んでいるのは千佳だけ。アパート全体では10軒入居可能だが、1階には入居者が2人いるだけ。


 じじ、と。白熱灯が鳴る。ぱちっと硬質な音がした。虫が蛍光灯にぶつかったのだ。


 千佳は1階に降りた。


 ちりーん、と。

 涼し気な音がする。見ると、5つ並んだ扉の2つに風鈴がかけられていた。

季節外れだなと思いながらも、周囲を見回す。


 埋めようと思ったが、どこかしこも舗装されていて地面などない。


 目に留まったのは駐輪場だ。

 トタン屋根を載せただけの駐輪場。その周囲には夾竹桃が植えられていた。


 千佳は近づき、プラスプーンで地面を掘る。

 昨日雨が降ったからなのか、簡単に穴は掘れた。そこにそっとハンカチごと埋め、土を盛る。しゃがんだまま両手を合わせ、戦友を見送った気持ちで目を閉じていると。


 自転車が近づく音がした。

 反射的に顔を向ける。ライトがまぶしい。目を細めた。

 30代ぐらいの女性が自転車を押して近づいてきていた。


「なにしてるの?」

 ぶっきらぼうに問われて焦った。慌てて立ち上がる。


「あ、あの。このアパートの住人で……。その、鑑賞魚が死んでしまって」

「ここ、生き物だめよ」


 駐輪場に自転車を止め、女性はぶっきらぼうに言う。しまったと千佳は口ごもった。ペット不可とは聞いていたが、魚はいいと勝手に思っていたのだ。


「2階に越してきた人?」

 女性は自転車籠からバッグを取り出し、肩にかけた。


「はい。下関千佳です」

「土師玲子。よろしく」


 そう言って女性はさっさと一階の部屋に入っていく。

 がちゃりと鍵を回す音がした。


 続いて、ちりーんと。

 涼し気な音が響いてくる。

 風鈴だ。




 引っ越して3日目。

 眠っていた千佳だったが、足音で目を覚ました。


 とす、とす、とす、とす。

 軽い足音は千佳の枕元を通り、歩いていく。


 ぼやけた頭で「トイレに行くのかな」と考えて……。


 飛び起きた。

 この家に千佳以外、誰がいるというのか。


 上半身を起こし、とっさにスマホを握り締めた。

 豆電球だけがともる暗い室内に目を凝らす。


 寝室として使っているこの部屋は、間にすりガラスのはまった障子で間仕切りされ、その向こうはキッチンとトイレ、風呂があった。


 障子を閉めると圧迫感があるので、千佳はいつも開けていた。

 だから、キッチンどころか玄関までが一直線に見える。


 ぎぃ、と。

 軋む音に顔を向ける。


 トイレの扉が開いた。

 ぱたん、と扉が閉まる。


 かち、と照明がついた。扉の上部につけられた小窓が明るくなる。


 千佳はスマホを胸に抱きしめたまま、部屋の隅に移動する。110番通報したほうがいいのだろうか。だけど声を聞かれて襲ってこられたら? 警察ってメールで連絡とかできるの?


 脳裏に浮かんだのは、1週間前から交際が始まった井上の顔だ。彼にまずはアプリで連絡したほうがいいのだろうか。


 目まぐるしく考えていたら、水の流れる音がした。


 っぎぃ、と。

 トイレの扉が開く。


 千佳はさらに身を小さくして薄暗がりの中に身を隠す。


 なにかが出てくる。 

 目を凝らし、息をひそめていたのに。

 トイレからはなにも出てこなかった。


「え……?」

 つい声が漏れたとき。


 かち、と音がしてトイレの照明が消えた。

 千佳は悲鳴を上げて布団に潜り込む。スマホをお守りのように握り締め、ひたすら南無阿弥陀仏とアーメンを繰り返して夜明けを待った。




 引っ越して4日目。

 おっかなびっくり帰宅した千佳は、玄関扉を開けて仰天した。

 シャワーの音がしたからだ。


「うそ⁉」


 昨日は一睡もできなかった。ひどい顔色だったので、熱いシャワーを浴びて出社したのだが、まさか止め忘れていたのか。だとしたら水道料金はどうなるのだ。


 叩くようにして風呂の電気スイッチを押す。真っ青になって二つ折り扉を押した。


 もわ、と。

 すごい熱気が顔をなぶる。湿気もすごい。


 だが。

 シャワーはお湯を吐き出していなかった。


 それどころか。

 床が濡れていないのだ。水滴すらない。一滴も。


 それなのに浴室は湯気が充満していた。まるでさっきまで誰かがシャワーを使っていたように。


 とすとすとすとす。


 背後で足音が聞こえ、千佳は悲鳴を上げて部屋を飛び出した。

 施錠などする余裕もなく、階段を駆け下りる。

 無我夢中で走り、目に入ったファミレスに飛び込んだ。


「空いているお席にどうぞ」


 いつもなら返事をするのだが、そんな余裕もなく近くの四人掛けテーブルに座る。

 カバンから震える手でスマホを取り出した。


 どうしよう。あの部屋になにかがいる。

 そんな通報でも警察は相談にのってくれるのだろうか。


「いらっしゃいませ。お決まりになりましたら……」

 定型文を読み上げ、店員はテーブルに水をふたつ置いた。


「あ、あの」

「はい?」

「ひとり……ですが」


 震える声で千佳は店員に言う。


「あれ? おふたりではなかったですか?」


 店員は驚き、周囲を見回す。千佳は震えながら必死で自分の両肩を叩いた。そうすれば悪霊が払えると昔聞いたからだ。

 違う、と千佳は思った。

 部屋にいるんじゃない。これ、自分についているのではないか。

 店員は気味悪そうにテーブルを離れて行った。


(どうしよう……いのっちに連絡して部屋に来てもらう? それとも私がいのっちの家に……)


 アプリを操作した指が止まる。

 井上とは交際するまでに何度も何度もデートらしきものはしたし、連絡だって取りあった。


 だが、交際が始まって1週間。そんな意味深な連絡をしてもいいものかどうか。

 誘っていると思われても困る。


 というか。

 付き合う前はスタンプだの写真だのが日に何度も送られてきていたのに、いまは一切ない。ここ5日ほどは全く。


 付き合った途端、もう飽きられたのかなと絶望しかけていたのに、そんな連絡をするのは憚られる。


 ならば友人宅はどうだと思ったが、いずれも彼氏持ち。いきなり行くのはNGだろう。ビジホに泊るということも考えたが、お金が惜しい。そもそも、節約しようと思ってあのぼろアパートに決めたのだ。


 仕方なくドリンクバーだけ注文し、必死に「除霊」「幽霊 対処」「魔除け」をスマホで検索し、そこに書いてあった塩と日本酒、ファブリーズをコンビニで購入して千佳はアパートに戻ることにした。


 いやだなぁ、いやだなぁ、と思いながら千佳はアパートの階段を上がる。怪談話の御大の気持ちがすごくわかった。


 じじ、と明滅する白熱灯にさえおびえながら、自分の部屋の前まで進む。


 そして足を止めた。

 風鈴があったからだ。


 扉の脇には無機質な銀色のポストが取り付けてある。このアパートはみんなそんな作りだ。


 千佳用のそのポストの側面。

 そこにマグネットのフックが張り付けられ、風鈴がぶら下がっていた。


「え……な、なんで?」


 千佳がつけた覚えはない。

 そもそもちょっと古びている。短冊というのだろうか。ぶらさがったあの長方形の紙。あれが日に焼けて、元の色が褪せている。


 捨てるべきか迷ったが、「間違えてそこにつるしてしまった」と言われたときに困る。


 このまま放置しておこう。そう決意した時。


 ちりーん、と。

 風鈴が鳴った。


「……もうやだ。誰のよ、これ」


 そういえば下の階の二部屋にはいずれも風鈴がぶら下がっていた。ということは、大家からの贈り物なのか? こんなのをつるされていたら、「ここは有人です」と知らせるようなものではないか。


 千佳は半泣きになりながら、レジ袋から塩の入った袋を取り出す。爪でちょっとだけ破いてつまみ出す。


 よくわからないまま、玄関前に振った。


 ちりーん、と。

 風鈴が鳴る。


 そして気づいたのだ。

 風など吹いていないことに。


 ちりーん、と。

 色をなくした千佳の前で風鈴が鳴る。


「もういやあ!」


 千佳は風鈴にしたたるほどファブリーズを吹き付け、泣きながら部屋に駆け込んだ。

 そうして。

 部屋中いたるところに塩を撒き、ファブリーズを吹き付けて、日本酒を飲んで寝た。




 引っ越して5日目。休日だった。

 千佳は買い物をしてからアパートに戻り、駐輪場で自転車を止めた。

 ほかの荷物は自転車籠に入れたまま、土に埋めたベタに手を合わせる。


 初めての一人暮らしを支えてくれた大事な戦友だった。どうか安らかに。目を閉じてそんなことを思っていたら、つん、と指先になにかがふれた気がした。ベタがよくエサを催促するしぐさ。


 思わず目を開くと、すぐ後ろに女性が立っていた。同じアパートの住民だ。


「こんにちは」

 あいさつをすると、彼女もおざなりに返した。


「風鈴、どう? 昨日はなにも出なかったんじゃない?」

 ぶっきらぼうに言われて、千佳は言葉を失った。


 そうなのだ。

 日本酒を飲んで寝たから気味の悪いものに気づかなかったのかと思ったのだが。

 あれ以来、なんの異変もない。


「あれさ、このアパート全体を移動するのよ。新人好きだから、引っ越し直後の部屋にはすぐに行くみたい」

「行くって……。え? ウロウロしてるってことですか⁉」


「つい最近までは、私の隣の空き部屋にずっといたわよ。音量大きくしてたら壁ドンしてくるもの。あと、恋人を連れて来たらやきもちやくみたい。嫌がらせしてくる」


 あっけにとられている千佳の前で、女性は淡々と語る。


「気味悪いけどさ。家賃激安だし、リフォームも完璧でしょ? 古いから防犯上どうなのと思うかもしれないけど、縄張り意識が強いせいか、泥棒とか痴漢とかを追い払ってくれるから安全なのよね」


「は……あ」


「気持ち悪いって思ったら引っ越したほうがいいと思うけど。こんな物件選ぶってことは、まだ給料そんななわけでしょ? 新卒2年目ぐらい?」


 千佳は頷く。だよね、と女性は言う。


「ただね、ここ、生き物はダメなのよ。人間はそうでもないけど。私もハムスター飼ってたけど弱っちゃって……。友人に譲渡したの。魚ちゃんには可哀そうなことしたわね」

「そう……だったんですね」


 もっと早く知っていれば、自分も実家に預けたのに。そんな後悔が沸く。


「風鈴って、魔除けなんだって」

 唐突に言われて千佳は目を瞬かせた。


「音色が魔除けになるみたい。吊っている限りは部屋に入ってこないから」

「ひょっとしてあの風鈴……」


「私、予備があるからあげる」

「あ、りがとう……ございます」


「じゃ」

 女性はそれだけ言って、さっさと部屋に戻ってしまった。


(風鈴……あとで検索してみよう)


 そう思いながら、千佳は荷物を持ち、階段を上がって二階に行く。

 自分の部屋の郵便受け。

 そこにぶら下がる風鈴が目に入った。


 ふと。

 きれいな紺色のなにかが短冊の周囲を巡った。

 それはまるであのベタの尾ひれのようで。


 つん、と。

 短冊をつつく。

 ちりーん、と。


 風鈴が鳴った。

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