第4章

それから一週間後、私は再びスナック「蛍」のドアを開けた。今度は、もう少し自然に振る舞うことができた。まるで、常連客の一人のように。


「あ、また来てくれたんだ」兄が、満面の笑みで私を迎える。


「はい」私は笑って、カウンターの定位置に座った。


「今日は何飲む?」


「カシスオレンジで」


「覚えてるよ」兄はそう言って、迷いなくグラスを取った。


店内には、何人かの客がいる。私は適度に相槌を打ちながら、兄の様子を観察した。彼は、やはりカリスマ的だった。客を巧みに笑わせ、楽しませ、そして、気づかないうちに彼らを自分の支配下に置いている。そのすべてが、完璧に計算され尽くしているように見えた。


時間が経つにつれて、客は一人、また一人と帰り始める。そして、終電の時間が近づくと、店内には私と、もう一人の客だけが残った。


「そろそろ閉めるかな」兄が、独り言のように呟いた。


最後の客が帰ると、店内には私と兄だけが残された。静寂が、私たち二人の間に重くのしかかる。


「悪いね、付き合わせちゃって」兄が、私に労いの言葉をかけた。


「いえ、大丈夫です」私は、作り物の笑顔で応じた。


兄はレジを閉め、手慣れた様子でグラスを片付け始める。「送ろうか?」


「大丈夫です」


「そう?じゃあ、一緒に出ようか」


兄はそう言って、店の鍵を手に取り、私たちは一緒に店を出た。外は、もう深夜だった。人通りはほとんどなく、ネオンだけが、寂しげに光を放っている。


「どっち行くの?」兄が、私に問いかけた。


「駅の方です」


「じゃあ、途中まで一緒だな」


兄はそう言って、歩き始めた。私は、彼の後ろを、少しだけ距離を置いてついていく。



「ちょっと待って」兄が、突然立ち止まった。「タバコ、忘れた」


彼はそう言って、ポケットを探る。「あ、店に置いてきたかも」


「取りに戻りますか?」


「うん。こっちから行けば近道だし」兄は、薄暗い脇道を指差した。「裏口から入れるんだ」


彼はそう言って、細い路地へと足を踏み入れた。私は少しだけ躊躇してから、その後を追う。路地は狭く、薄暗い。街灯が一つ、頼りなく光を放っているだけで、周囲は深い影に沈んでいた。


兄は店の裏口の前で立ち止まった。「ちょっと待ってて」


彼は鍵を開け、店内へ入っていった。私は路地の入口で、じっと待っていた。周囲は、静寂に包まれている。時折、遠くで車の音が聞こえる。だが、それ以外は何も聞こえない。まるで、世界から切り離されたかのような空間だった。


兄が戻ってくる。「あった」彼は、タバコの箱を掲げて、得意げに笑った。


「よかったですね」私も、彼の笑顔に合わせて笑った。


兄はタバコを一本取り出し、火をつける。煙が、夜の冷たい空気に溶けていく。


「送ろうか?」兄が、もう一度私に問いかけてきた。


「大丈夫です」


「そう?一人で歩くの、危ないよ」


「すぐそこなので」


兄は少しだけ考えて、それから頷いた。「わかった。じゃあ、タクシー呼ぼうか」


彼はスマートフォンを取り出す。


「あ、いいですよ」


「いいって。俺も帰るし」


兄はそう言って、タクシーを呼んだ。それから、壁にもたれてタバコを吸い始める。


「お前、いい女だよな」兄が、唐突に言った。


「え?」


「いや、本当に。弟が羨ましいよ」


「弟」。その言葉に、私は息を呑んだ。


「弟、さん?」


「ああ。お前みたいな女、あいつには勿体ないよ」兄は笑いながら、そう言った。その声には、弟への軽蔑と、私への不快な称賛が混じり合っていた。


私は何も答えない。答えることができなかった。兄は、知っている。私が、彼の恋人だと。いつから?どうやって?私の頭の中が、激しい混乱に陥る。


「驚いた?」兄が、私の動揺を見透かしたように笑った。


「あいつから聞いてたんだ。カフェで彼女が働いてるって」


「……」


「まさか、俺の店に来るとは思わなかったけどな」


兄は煙を吐き出す。「何しに来たの?」


その声は、低く、鋭く、私の心を貫くようだった。私は何も答えない。


「俺を見に来たんだろ?」兄が続ける。「あいつが、俺のこと、何て言ってた?」


「……何も」


「嘘つけ」兄は冷笑した。「あいつ、絶対文句言ってるよ。俺が厳しいとか、怖いとか」


私は、知らず知らずのうちに拳を握りしめていた。


「でもな、あれは愛情なんだよ」


「愛情」。その言葉が、私の胸に突き刺さる。偽善に満ちたその響きが、私を深く傷つけた。


「あいつは弱いから、俺が鍛えてやってるんだ」


「……それは、違います」私は、抑えきれない衝動で、思わず言葉を発した。


兄は少しだけ驚いたような顔をして、それから冷たく笑った。「違う?」


「あなたは、彼を人間だと思ってない」私は言葉を続けた。「愛情じゃない。支配です」


兄の笑顔が、その顔から完全に消え去った。


「お前に、何がわかる」


その声は、氷のように冷たく、路地の空気を一瞬で凍り付かせたかのようだった。


「あいつは、俺がいなきゃ何もできない」


「それは、あなたがそう思い込ませてるだけです」私は、震える声で言い返した。


兄は何も言わない。ただ、じっと私を見つめている。その視線は、鋭く、冷徹で、私の全身を射抜くようだった。


「お前、面白い女だな」兄が、ようやく口を開いた。「でも、勘違いするなよ」


彼は吸い殻となったタバコを地面に落とす。「あいつは、俺のものだ」



兄はタバコの吸い殻を革靴で踏み消し、屈んだ。その瞬間、私は足元に何かが光るのを見た。割れたボトルの破片。それは鋭く、刃物のように尖っていた。私の手が、まるで意思を持ったかのように、それを掴んでいた。


気づいたときには、もう遅かった。兄の首筋に、その破片が深々と突き刺さっていた。


「あ……」兄が、言葉にならない呻き声を上げた。彼は目を見開いて、私を見る。その瞳には、驚き。困惑。そして、底知れない恐怖が、見る間に広がっていく。


私は破片から手を離す。兄は首を押さえて、よろめいた。血が、指の間から止めどなく溢れ出す。黒々とした血が、薄暗い路地の地面に、静かに染み込んでいく。


兄は膝をつき、そのまま前のめりに倒れた。音もなく。


私は立ち尽くす。周囲は、再び静寂に包まれた。遠くで、車のエンジン音が聞こえる。タクシーが近づいてきている。


私は兄を見下ろす。彼は動かない。目は開いたまま。だが、もう何も映してはいない。


私の手が、震えていた。しかし、それは恐怖からではなかった。胸に広がるのは、安堵。そして、深い達成感。私は、彼を救ったのだ。兄という名の鎖を、断ち切ったのだ。


満足感に浸りながら、路地を出た。タクシーが、ちょうど角を曲がって、こちらに向かってくる。手を上げると、タクシーが、私の目の前で滑るように止まった。


「どちらまで?」運転手が、無機質な声で問いかけてきた。


私は住所を告げると、タクシーは走り出した。私は窓の外を見る。夜の街は、いつもと変わらない。ネオンが光り、人々が歩いている。何も変わらない。だが、私の中では、決定的な何かが変わった。私は、彼を救った。それだけが、今の私にとって、唯一の確かな真実だった。

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光の底 神谷 伊織 @iori_kamiya

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