幼馴染の婚約者と親友の令嬢に裏切られたご令嬢の末路

柴又又

第1話

 (あれ? ここは……)

 気が付くとわたくしは赤ん坊になっておりました。



 視界視界れています。足元あしもとがぐらつくみたいに――。


 なぜそんなに笑顔なの。どうして? わたくしは何かおかしいのでしょうか? 私は……。


 まぶたを閉じてしまうように、暗闇くらやみが押し寄せてまいります――。



 フランソワーズ・モラレッティ。それがわたくしの名前です。


 つい先ほど、婚約者こんやくしゃであるラスティ・バレンティーノ様より婚約破棄こんやくはきを言い渡されてしまいました。私の何がいけなかったのでしょうか。


子爵令嬢ししゃくれいじょう伯爵令嬢はくしゃくれいじょうじゃね。仕方ないわよ」


 身分みぶんでしょうか。確かに私の家は子爵家ししゃくけ


 なぜ? どうして友人のミラ様がラスティ様の隣にいらっしゃられるのでしょうか。


「ミラ様とフランソワーズ様ではね」


 確かにミラ様は大変美たいへんうつくしく可愛かわいらしい方です。伯爵家と私のお家よりも身分が高いです。それでも……。それでも決められた約束ですのに。相応ふさわしい相手になると、努力どりょくをしてきましたのに。


 足元が揺らぐのを感じます。他人と比べられてしまったら私は……。現実が、揺らいでゆくのを感じておりました。暗くなってゆきます――。


「いい子でちゅね」


(……え?)


 私はどうしてしまったのでしょうか。ふたたびび開いたまぶたの先には、私の知らない女性がおりました。


 差し出された指先ゆびさきいためないよう躊躇ためらいがちに。柔らかく背中へと。ささえられた頭部とうぶ。持ち上げられて。その両手の中に収められてしまいます。


「いい子だね。本当に可愛らしい」


「そうですね。あなた」


(え?)


 どうやら、私はショックのあまり、現実を直視ちょくしできないようでした。


 それでも時は進みます。ぎる日々にあれよあれよと幼稚園生ようちえんせいになっておりました。元いらした世界とは何もかもがことなります。


 蛇口じゃぐちをひねるだけで綺麗きれいな水を得られるのです。なんという事でしょう。


 これはテレビと言う物らしいです。不可思議ふかしぎですね。スマホ。ですか。この小さくて四角い機械きかいで、遠くの映像えいぞうをご覧になられたり遠くの方とお話ができたり致します。


涼子りょうこちゃん。将来結婚しょうらいけっこんして」


「え? それは……その。もうわけないのですが」


「なんで⁉ ぼく涼子ちゃん好き。結婚して?」


「ごめんなさい……」


「先生‼」


「あらあらどうしたの? 良太君」


「うわぁーん。涼子ちゃんが結婚してくれないって」


「あらあら。仕方しかたないですね」


 申し訳ないのですがご婚約こんやくのお約束やくそくなどは両親りょうしんを通して頂かなければ……。ありがたいお話なのですが。


 私はどうしてしまったのでしょうか――変わらない物もございます。ピアノです。楽譜通がくふどおりにしかけないのですが、両親はとてもよろこんで下さいました。


 まるで元の世界の両親のようです。父と母は大丈夫だいじょうぶでしょうか。お父様は無理をしていないかしら。病気がちなお母様は……。


 子供にしてはぎてしまいましたでしょうか。子供コンクールに出場する事となり優秀賞ゆうしゅうしょうを頂いてしまいました。楽譜通がくふどおりに弾いただけなのですが……周りの子供が涙をこぼしてしまい申し訳なく。


 楽譜がくふとは音楽の完成系かんせいけいです。音楽において楽譜とは完成された物なのです。これがもっともすぐれたかたちなのです。ですので元の世界においては楽譜通りに弾く事がもっとも重要じゅうようなシナリオでした。アレンジなどとてもとても。


 実際じっさい私が弾いたピアノよりも、まわりの子供が弾いたピアノの方が賞賛しょうさんを得ておりました。私のは楽譜通りですから……。それなのに優秀賞ゆうしゅうしょういただいてしまいましたから、本当に申し訳がなく……。この世界においても楽譜は完成されたもののようです。


 両親からは音楽の道を進められ、家庭教師かいてきょうしはどうかと誘われたのですが、ピアノに関しまして、元の世界の技術ぎじゅつがありますので何だか申し訳なく……新たにヴァイオリンをまなびたいと申し出させて頂きました。


 小学校はお受験じゅけん私立しりつに。小中高大しょうちゅうこうだい一貫いっかんです。


 とても。そうですね。とても素晴すばらしい時間でした。大好きな音楽に没頭ぼっとうする日々。ヴァイオリンに向き合う日々は、それはもう、とてもとても。


 音楽は楽しいばかりではございません。嫉妬しっとねたみもございます。音楽において勝者しょうしゃはございません。それでも優劣ゆうれつは存在してしまいます。先生に可愛がって頂けるのはとても光栄こうえいなのですが、それを嫌々いやいやと受ける方もございます。


「いい子ちゃんぶって」


「ぶりっ子が」


「先生の前でだけいい恰好をして」


「クラシックなんてつまらない。ロックじゃない」


 私には友達ができませんでした。それは仕方しかたがないのかもしれません。こうして学業がくぎょうにて友達が出来ない事をかんがみれば、元の世界、前世におきましても、婚約破棄されてしまったのは、私に責任があり、仕方がなかったのかもしれません。


 時には楽器がっきを隠されたり、上履うわばききをかくされたりした時もございました。楽器は本当に困りました。ヴァイオリンはとても高価こうかな物です。こわされたら困ってしまいます。それでも。


 この国はとても平和へいわくにです。貴族などの身分はなく、皆さん平等びょうどうに生活できます。何時でも綺麗きれいな水が飲めます。パンはとても柔らかいです。子供が外を笑顔えがおで歩けます。武器ぶきたずさえた警戒けいかい必要ひつようもございません。


「ねぇ。お姉さん。今暇いまひま? 俺も今暇なんだけどさ。おごるからカフェ行こうよ。そこのさ」


 お姉さんと言うよりも……貴方の方が現在におきまして年上かと存じます。


「また会ったね。これって運命うんめいじゃない?」


通学路つうがくろがここですので」


「メッセージ交換こうかんしようよ」


「ありがとうございます。ですがご遠慮えんりょさせて下さい」


「俺って案外遊あんがいあそんでいるって思われているんだけどさ。意外いがい一途いちずなんだよ」


「そうなのですね」


 ナンパとはめげずにお声をかけるのがミソかと存じます。人は何度も会えば次第しだいに心を許すものかと存じます。心理学しんりがくですね。


 清潔感せいけつかん――清潔感ですか。清潔感の正体。私はそれはニオイではないかと考えております。お無精ひげがございましても、お体毛たいもうがおくとも、お腹周なかまわりがふとくいらっしゃっても代謝たいしゃが大変よろしくても、ニオイさえ大丈夫でしたら、そばにいても大丈夫だと考えるのでございます。


何時いつももつれないね。泣いちゃうかも」


「何時も良いニオイが致しますね」


「え? そう? められちゃったなー」


大変良たいへんよいかと存じます」


「君って、お嬢様じょうさまなんだね。真面目まじめっていうかさ」


普通ふつうかと存じます。では学業がくぎょうがございますので」


 ゆったりと生活できるのは私のしょうに合っておりました。ヴィオリオンを弾けば父様と母様が聞いて下さいます。お母様のひざに頭を乗せ、あまえさせていただける日々は、なんとも。何とも言えず。


「あの。きゅうに失礼します。あの。彼をもてあそぶのはやめて下さい」


 お声をかけて頂いたのは可愛らしいお嬢さんでした。


「弄ぶ。ですか?」


「見ていて可哀想かわいそうです」


 彼とは――お心当こころあたりは一つしかございません。


「わかりました。今後はそのようにいたします」


「え? あっはい。……つまらない人。私の方が彼を思っているのに……」


 帰りの通学路つうがくろ変更致へんこういたしました。女性には二種類にしゅるい存在そんざいするかとぞんじます。不安定ふあんていを求める方と安定を求める方です。私は後者こうしゃです。


 楽譜通りです。楽譜通り――。周りの方々は私をつまらないとかたります。つまらない生き方だと語ります。ですが私には、このつまらない生活がとてもこのましいものでした。


 クリエイティブな活動かつどうにはたしかに才能さいのうが必要です。ですが演奏えんそうをこなすだけならば、それは努力の範囲はんいです。どれだけ音楽と向き合ったか。それがすべてです。


「一ついいかな?」


「はい。先生。何か御用ごようがおありでしょうか?」


「その。私生活しせいかつかんして、俺が口を出すものではないのだが、その、なんというか」


「はい?」


「あまり、遊びすぎるのはどうかと」


「遊び。ですか?」


「それは確かに。君の自由だが。自分を大切にして欲しいと。その。うわさが出回っていてね。君が。男と遊び歩いていると。音楽においてもイメージが大切だから。君に関して、そんな事はないとは思うのだが。職権乱用しょっけんらんようだろうか。すまない」


「先生。ご心配をおかけ致します。私は男遊びなどはしておりません。噂ですか」


 これは元の世界にもございました。そうして噂にて敵を作り、一つにまとまったり、相手をおとしめたりする話術わじゅつの一つにございます。貴族の女性がこの使つか交渉術こうしょうじゅつ一手いっしゅですね。


「そうだよな。すまない。杞憂きゆうだったようだ」


「いいえ。ご心配ありがとう存じます。先生」


「いや、かまわないよ。じゃあ、演奏を続けようか」


「はい。先生」


 ただ……私は、音楽で生計せいけいを立てようとは考えておりませんでした。プロになろうとはとてもとても。それが、余計よけいにダメだったのかもしれません。同年代どうねんだいの方々を傷つけてしまっておりました。それが私への攻撃を助長させていたのです。


 先生方せんせいがたからは海外かいがいで学びを得てはと申し出も頂いたのですが、私はどうもこの国がお好きなようでして。はなれたくはありませんでした。


「一度は海外で学んだ方がいい。君には才能がある」


 ありがとう存じます。そこまで認めて下さるなんて。ですが……。私は。


 将来しょうらい司書ししょの道をと模索もさくしておりました。本は音楽と同じぐらい好ましいものです。司書の資格を習得するために大学へと進学したいと申し出させて頂きました。


 大学へと進学させて頂きます。


 そんなおりでした。父からお見合いのお話を頂いたのは。


 お相手は24歳と年上の方でした。


「無理にとは言わないが、一度会ってみないか?」


 父にそう告げられまして。お会いさせて頂きました。


 鉄次郎てつじろう様とお名前を頂きました。背が高く、視線の鋭い方でした。18歳の頃から自衛隊に努めていらした方のようです。このたび鉄次郎様のお父様が体調を崩してしまったそうで、お戻りになられたようでした。


「初めまして。このたびは、ご足労頂きありがとうございます」


「初めまして。涼子と申します。こちらこそ。この度はこのようなお話を頂きましてありがとう存じます」


「ご丁寧にありがとうございます。鉄次郎と言います。父が無理に申し出てしまったようで、申し訳ない限りです」


「そうなのですね。お父様とは……」


「あなたのお父様と家の親父が知り合いのようでして。あなたを一目見て、親父がどうも気に入ってしまったらしく」


「そうなのですね」


「……まさか、このような可愛らしいお嬢さんが来て下さるとは夢にも思わず、このような無骨ぶこつな恰好で申し訳なく」


 膝の上で拳を握り、背筋をまっすぐと伸ばしておられます。綺麗な目。


「ありがとう存じます」


「断ってくれて全然構わない」


 その言葉を聞いて、前世を思い出しておりました。今世においても私は、選ばれないのかもしれませんね。


「他にお好きな方が?」


「いや、俺は女性とはとんと縁が無くて。ただこんな容姿なんで、怖がらせてしまったんじゃないかと」


「怖がる。ですか?」


「あぁ。目つきが悪いだろ? 鬼っ子とか呼ばれて。特に女性には怖がられる事が多くてな」


「ふふふっ。そうなのですね。怖くはございません。目が、とても綺麗に存じます」


 それから擬古地ぎこちなく他愛たあいの無いお話をさせて頂きました。鉄次郎様は私の話に耳をかたむけ、お話を聞いて下さいました。他愛の無い会話です。それから鉄次郎様のお話をお聞きしました。時間はあっと言う間に参ります。


 スーツのニオイが致します。新調しんちょうしたばかりのスーツですね。ネクタイもぴっしりと、靴には光沢がございます。香水などは嗜まないようですね。


 会話の節々ふしぶしから相手を探るような、心理学を駆使くしするような素振りは見られませんでした。素直な方なのですね。


「本日は。ご足労頂ごそくろういただき、ありがとうございました」


「いえ。鉄次郎様。こちらこそ。このようなお話を頂き、ありがたく存ます」


「それで。その。また。その。会って頂けますか?」


「はい。お時間がよろしい時に、ぜひにと存じます」


「そっそうか。ありがとう。じゃあ。また……」


「はい」


 鉄次郎様。真面目な方なのですね。お家へと帰りますと、父が嬉しそうにしておりました。母は複雑な表情をしておられます。


「どうだった?」


「はい。印象いんしょうは大変良い方かと存じます」


「涼子。嫌だったら断ってもいいのよ?」


「はい。お母様。大丈夫です。大変良い方でしたよ」


「まったく。あなたったら。今は恋愛は自由なものなのですよ? この年でお見合いだなんて。相手は24歳ですってね。6歳も年上ではないですか。涼子。付き合っている方がいたら、ちゃんと断るのよ?」


「大丈夫です。お母様」


「あなたは良い子過ぎて。お母さんとても心配だわ。悪い男に騙されないかしら。本当に心配だわ。もういい子過ぎて心配過ぎてお母さんもうあなたから目を離したくないわ」


「それは言い過ぎですよ。お母様」


「そんな事はないぞ。涼子。お父さんだってお前が心配でたまらないよ。まさか家からこんな良い子が生まれるなんて」


「お二人とも、私を買いかぶり過ぎです」


 そう告げるとお二人は大きく息を吐き出しておられました。


「本当はね。貴女が海外へ行くのではないかと気が気ではなくて。お父さん。そうなのでしょう?」


「あっ……お母さん。それは……」


「まったくもう」


「ふふふっ。ありがとう存じます。お父様。お母様。それで一つお願いがあるのですが、お父様」


「ん? なんだい? 次に会う日取りかな?」


「いえ、そうではなくて。私、このたび、18歳になりますので、車の免許を習得したく存じます。加えまして、免許費用を工面くめんしたく、アルバイトをしたいと考えております」


「え? 車の免許費用ならお父さんが出すよ」


「せっかくですので、アルバイトをしようかと存じます。幸いにして先生より、ヴァイオリンを教える生徒を紹介しょうかいして頂きました」


「そうか。わかった。しかしアルバイトをしても構わないが、免許費用はお父さんに捻出させておくれ」


「ありがとう存じます。お父様。ではアルバイト費用でのちほど、まかなわせて下さいませ」


「もっと甘えていいのよ? あなたはしっかり者だけれど、何処か危ういのよね。お母さん本当に心配だわ」


 お母様の腕の中へとおさめられてしまいました。心配して頂ける。私もお母様へと甘えさせて頂きます。


「いっいいな。お父さんには甘えてくれないのかな? お父さんにも甘えていいんだよ? 涼子」


 家庭教師を行う生徒は小学生の男の子です。不躾ぶしつけながらヴァイオリンをお教えさせて頂きました。すじがとてもよろしいです。この年でこれほど弾けるだなんて、優秀ですね。


「お姉さん先生。ここなんだけど」


「あっ。ここはですね。ターラタララー。このような感じですね。リズムが大切です。はい。とてもお上手です。グッド。とても良いですね。そうです。譜面通りにリズムを刻んで……グッドッ」


 これで一日一万円頂けます。


「ありがとうお姉さん先生」


「はい。ではまた次回」


「またね。またねっ。絶対来てね」


 生徒との関係は良好のようです。帰り際に、生徒のお兄さんと対面たいめん致しました。髪を染めて、ピアスをしておられます。


「あっ。どうも。へぇー。あいつの先生なんだ。よろしくね。先生」


 視線が唇や胸、股間へと流れておられます。杞憂きゆうかと存じますが、あまり良い視線の流れではありませんね。この方には気を付けなければいけないかもしれません。実際良くありませんでした。二人きりになられた時に、せまられて。


「お姉さん。俺にもヴァイオリン教えてよ。その体で。いいだろ?」


 女性におモテになる方のようですね。強引に迫れば女性は受け入れると思考しているようにございます。


 腕を掴まれ押し倒されそうになりましたが、腕に噛みついて難を逃れました。本当に危なかったです。逃げ出せました。その後、生徒や親御おやごさんに何度も頭を下げられてしまいました。あの方とは絶縁ぜつえんしたようにございます。


 免許は無事習得できました。


 鉄次郎様とは何度もお会い致しました。ある時は映画に。ある時は夕食等をご一緒させて頂きました。今更ながらスマホの番号などを交換させて頂き。


 夜景の窺えるレストランです。


「このようなお店にご招待頂きまして、ありがとう存じます」


「いや。来てくれてありがとう。その。あまり会話が上手ではなくて。気の利いた言葉は言えないのだが。その。すまない」


「こうしてお会いできるだけで、嬉しいですよ」


「……うっ。その、こちらこそ、嬉しいです」


 ただ。鉄次郎様は女性におモテになるようで、少し頬を膨らませてしまいます。後輩の女性ととても仲が良いのです。ただの部下なのは理解しているのです。それでも待ち合わせ等で逆にナンパなどをされておりますと、頬が膨らんでしまいます。


「どっどうしたの。ですか? そんな頬を膨らませて」


「いえ、あなたがナンパなど、されておりましたので、頬を膨らませてみました」


「そっそうですか。安心して下さい。今、俺が夢中なのはあなただけですから」


「今、だけですか?」


「あっいや。そういうわけでは」


「ふふふっ。今日は、展望台てんぼうだいなどに、参りませんか? 免許を取りましたので、運転致しますよ?」


「いいのですか?」


「かまいません」


 運転しておりますと、寝息が聞こえて参ります。仕事でお疲れなのですね。


「……はっ。すっすみません。寝てしまった。今はっ」


「構いません」


「はぁ……申し訳ない。展望台も、閉まっている……。あぁ、本当に申し訳ない」


「お疲れ。なのですね。もう少し横になられて下さい」


「しかし」


 ひたいに手を添えさせて頂きます。


 どうやら部下の一人が多大な損益そんえきを出してしまったようなのです。おかばいになり、挽回ばんかいをするために奔走ほんそうしていらっしゃる。そのような忙しい合間あいまにも、私との時間を作って頂けたのですね。


「大丈夫です。大丈夫。ゆっくり。お休みになられて下さい。今だけは」


 くつろいでも構わないのです。


 彼とせっすると同時に彼の部下だという男性との接触せっしょく機会きかいも増えました。偶然ぐうぜんにしては会う回数が多いです。決まって彼と会えない時なのです。露骨ろこつなので私でも十二分に理解できます。


「また会いましたね」


「そうですね」


 他愛の無い会話から数度すうどに渡り徐々じょじょに話題を広げる手腕。お見事です。彼が仕事で会えないさみしい日々を埋めるかのように接して参ります。彼と会うより頻度が高くなって参りました。次第にご飯などに誘われるようになります。二人きりになるのは避けます。


 鉄次郎様と会うようになり半年が過ぎました――買い物に付き合って頂けると、初めて、手を、繋がせて頂きました。


「汗ばんでいて。その」


「構いません。私も。その。汗が」


「大丈夫です」


「あなたの手は。とても。温かいです。ずっとこのままでいたいです」


「うっ……」


 呻いた後に、鉄次郎様は何度も深呼吸を繰り返しておりました。どうなさったのでしょう。


「今まで、有耶無耶にしていましたが。もう。お願いします。結婚して下さいッ」


「あっ。はい。よろしくお願い致します」


「いやっ。違うんです。え? いいん……ですか?」


「はい。ただ……その。結婚を前提としたお付き合いなど、少しの間、して頂ければ、その、心の準備もございますので」


「それは。もちろんです。はい。本当に俺でいいんですか?」


「逆にお聞き致しますが、私ではダメですか?」


「……よろしくお願いします。俺が必ず、あなたを幸せにして見せます」


「どうか気負きおわないで下さい。あなたと一緒に居られれば、それだけで十分ですから」


 身をせさせて頂きますと、彼はその腕の中へと私を誘って下さいました。ずっとこのままでいたいと感じるほどに、彼の胸元は温かく、包んで頂けました。


 色々な所へ参りました。水族館や遊園地。夢の国は、あなたは若干苦手そうで、人も多く、私もあまり得意ではないと感じました。


 山登りなど如何いかがでしょうか――小さなお山です。頂上まで車で参れますので帰りは楽に参ります。手料など振る舞わせて頂きました。どうでしょうか。あなたの好みをまだ把握しておりません。


 カラオケ等、如何でしょうか――あなたは歌うのがあまり得意ではないようですね。釣りにも参ります。ゴカイに触れられると申しましたら、少々驚おどろかれてしまいました。ゴライアスワームと比べれば可愛らしいものですね。


 あなたとの月日が重なって参ります。


 バレンタインにはチョコレートを――差し出しますと随分ずいぶんおどろかれてしまいました。


 頬に当てられて手。血液の流れを感じます。上からにぎりその温もりに身を任せます。


「ずっと……好きで頂けますか?」


「はい。一生大事にします」


 ファーストキスは、チョコレートの味にございました。


「もう一度、よろしいですか?」


「はい」


「もう一度……」


「何度でも。かまいませんよ」


 心臓が熱を持ち脈打ち膨らみます。彼の指先が震えておりました。私の指先も、僅かに震えております。とどめるように手をかさね合わせますと、鼓動こどうまでもが重なるようですね。


 もどかしいように。その胸の内側へと収められてしまいます。


「あなたは悪い人だ」


 耳元でささやかれてしまいます。


「そうですよ? あなたにとっての悪い人です」


 そう答えてあげます。そう答えますと少し強めに抱きめられてしまいました。離れるのがもどかしいように、離れては、苦しそうな彼の表情。また胸の内へと収められてしまいます。いくらでも抱き留めて頂いて構いません。


 これが前世ではできませんでした。しかしこれをしなければ繋ぎ留められない愛なんて。本物の愛なのでしょうか。


 車を運転できるようになりましたので、両親を伴い旅行へと参りました。両親はやや心配のようでした。大丈夫です。安全運転ですので。


 旅行先で偶然夫の部下の男性に出会いました。お風呂上りに浴衣を着て歩いていたらばったりです。本当に偶然なのでしょうか。懐疑的かいぎてきです。


「偶然ですね」


「こんばんは。ご旅行ですか?」


「はははっ。友人と羽を伸ばしにね」


「そうなのですね」


 ちらりと視線を流した先には綺麗な女性の方がおられました。薬指に指輪がございます。良くありませんね。良くはありませんが、私がどうこう申す問題でもございません。


「では。失礼致します」


「バイバイ」


 二泊三日の旅行ですが、両親共にとても喜んで頂けました。親孝行おやこうこうは早めに。格言かくげんですね。車にヴァイオリンがんでありましたので、不躾ぶしつけではございますがお食事時に演奏などをひびかせて頂きました。旅館の方々、両親、他の方々にとても喜んで頂けました。ありがたく存じます。


 何度か鉄次郎様よりメッセージや電話がございました。


「……そちらはどう?」


「はい。両親共に大変健すこやかに過ごさせて頂いております」


「そうか……」


「元気がございませんね? 何かございましたでしょうか」


「……いや。なにも。両親との旅行か……」


 言葉をにごす鉄次郎様の胸の内を、私はこの時、せられませんでした。旅行から戻り、鉄次郎様にお会いしても、鉄次郎様のお顔はすぐれませんでした。仕事中に倒れたと連絡が来た時には、きもが冷える思いにございます。


 会いにゆきますと、病院のベッドにて横たわる鉄次郎様をごらんになりました。しかし視線が合えば、視線を逸らしてしまいます。具合はどうなのかと、寝不足ねぶそく栄養失調えいようしっちょう肺炎はいえんになりかけていたようでした。どうも心労しんろうから来るもののようで。


「どうかなさったのですか?」


「いや。何でもない」


「鉄次郎様。遠慮えんりょしてはいけません。ある程度の配慮はいりょは確かに必要です。ですが言いたい事は言わなければ相手には伝わりません」


「いや。本当に情けなくて。俺は、こんなに弱かっただろうかと……」


「どうなさったのですか?」


「傍にいてくれ。何処にも行かないでくれ。ずっと傍にいてくれ。頼む。君じゃなければダメなんだ」


「……どうなさったのです」


 その頬やおでこへと唇を寄せさせて頂きます。鉄次郎様は無骨ぶこつなお方。このように弱っておいでとは、一体どうなさったのでしょうか。手をにぎられ引き寄せられてしまいます。何度も頬や額へと唇を寄せさせて頂きます。響くリップ音。その手の甲へも唇を寄せさせて頂きます。


「すまない。……部下の佐久間さくま温泉街おんせんがいにいるのを見たと聞かされて。気が気じゃなくて」


「ふふふっ」


「なっ」


 笑ってはいけないのですが、思わず笑みが浮かんでしまいました。鉄次郎様は本当に可愛らしいお方です。こわもてな一面を持ちながらも、性格はとても可愛らしいです。


「何を笑っているのですか?」


「嫉妬して下さったのですね。なしを剥きましょうか」


「俺は真剣に……」


「私はあやまりませんよ? 悪い事は致しておりません。あなたを裏切るような行為は決して致しておりませんので」


 人間関係は複雑なものです。好む方ならばさらに特別です。自分に同じだけの傷があれば理解もできますが、自分にその傷がなければ理解もできません。


「私にはあなただけですよ?」


「それは……わかっているのだが」


 この梨と言う食べ物は私の好物です。この世界にて初めて出会い、衝撃しょうげきを受けた果物です。とても甘くて食感が良い。とても好ましいです。味と食感のバランスが良いのです。この味だけでもこの食感だけでもいけません。


「はい。あーんして下さい」


 鉄次郎様はそれ以上何も語らず、ムスッとねながらも梨を口にしておられました。佐久間様につきまして、少々申し出ては頂きました。だいぶ女性好きのようですね。どうやらツーショットを撮られてしまっていたようです。この世界におきましても恋愛に関してあの手この手を使うようですね。


「そんなに心配でしたのなら、早くものにしてしまえば良いかと存じますけれど?」


 そう申しますと鉄次郎様は奥歯を強くお噛みになられておられました。口をお開けとなり梨を催促さいそく致します。梨を頬張ほおばる鉄次郎様の頬へと、再び唇を寄せさせて頂きます。柔らかい頬ですが、生えかけたひげが少々チクチク致します。はむはむ。はむはむ。ふふふっ。伸びて来た手が体を掴みベッドへと――ガラガラと扉が開き。


検診けんしんの時間で……困ります‼ 病院でそのような行為は‼」


 看護師さんに怒られてしまいました。


 それからあれよあれよ言う間に結婚式です。とんとん拍子びょうしで話が進んでしまいます。私は小さな結婚式でも良かったのですが、私のお父様とお母様。鉄次郎様のお父様やお母様の都合がございまして。かなり盛大な式となってしまいました。来場して下さった方も、千や二千ではございません。結婚式自体も準備から式本番まで含め五日もかかってしまいました。


 ウェディングドレスも簡素かんそなレンタルで良かったのですが……うちのお母様がおばあ様より譲り受けたというウェディングドレスや白無垢に鉄次郎様のお母様が代々譲り受けて来たウェディングドレスや白無垢が重なり。幾度にも及ぶお色直いろなおしとめままぐるしい日々でした。


 そのまま新婚旅行だったのですが……おかしなお話なのですが、記憶が鉄次郎様の映像しかなく。私を鉄次郎様に捧げられました時には。受け取って頂いた時には大変喜ばしく――鉄次郎様にぎこちなくも激しく求められれば、なぜだかとても嬉しく。唇を当てれば求めるのを止められず、まぶたを開けば求めるのを止められず、気づけば朝を繰り返し、あっという間に旅行は終わりです。


 人目をはばかり唇を寄せられれば、鉄次郎様に抱き寄せられ近くのホテルへと。私も鉄次郎様をより知りたく。舌をわせずにはおられず。唇を寄せずにはおられず。何度も寄せる唇を止められず。その肌触りをより感じたいなどと……。


「鉄次郎様……」


 名を呼べば腕を掴まれ引き寄せられて、力尽ちからづくにでも物にすると言わぬばかりに胸の中へと収められてしまいます。擦り付けて挑発すれば。


「くっ……涼子。覚悟はできているんだろうな?」


「……どうなさるんですか?」


 混ざり合う汗のニオイに包まれて。


「俺から離れられなくしてやる」


 二人きりであるならば、それはとても甘い台詞せりふですね。


 その喉元のどもとでる舌と。痛いくらいに求められてしまいました。強く体を寄せてしまいます。あなたと交ざり合い混ざり合うたびに力を込めてあなたと密着してしまいます。根元までもを深く。心の奥底まで張った根を絡み合わせるかのように。今だけは決して離さぬと指の痕が残るほどに抱きしめられ注がれてしまいます。


 後に残った余韻よいんを確かめ合うかのように、また口付けを繰り返し――微睡まどろみと眠りへと落ちてゆきます。


 アッと言う間にございます。旅行なんてしていたのでしょうか。汚れた荷物とお土産だけがかさみます。


 旅行から帰還きかんし、新居しんきょへと移住致いじゅういたします――実家は平屋ひらやだったのですが、どうも……今度からは高所こうしょうつり住むようでして。


「はえ~……」


 見上げるビルにそのような間抜まぬけな声を上げてしまいました。


「ここに、住むのですか?」


「あぁ、気に入ってくれるといいんだが」


 移動がエレベーターです。階段での移動は前世を彷彿ほうふつとさせます。かなりの高所ですね。本当にここにお住みになるのでしょうか。中へと入りますとコンシェルジュさんに出迎でむかえて頂けました。


「ジムにサウナ。エステや温泉もあるから。レストランやカフェもあったかな」


「お家の傍に。ですか」


「買い物をするのにはちょっと不便かもしれない」


「……あなたは私の手料理を頂きたくないのですね」


「馬鹿を言うな。毎日でも食べたいに決まっている。安心してくれ。配達で玄関まで持って来てくれるから。ただ無理して家事はしなくても大丈夫だ」


 なんだそれは。なんなのだ。配達ってなんなのだ。思わずそのような間抜けな感想を浮かべてしまいました。


「無理などしておりません……。毎日あなたの洗濯や料理がしたいのです」


「家政婦を雇っても構わない。それを視野には入れておいてくれ」


 愛しい人のお世話を行える。これほど幸せな事が他にございますでしょうか。ただ現代におきましては多忙たぼうもございます。現在私には夫の世話を行う余裕よゆうがあると言う事ですね。ただ……その心配なさらずとも、ここには家電かでんがそろっておりますから。あらかたのお掃除は自動掃除機じどうそうじきが行って下さいますし、食器も自動洗浄自動乾燥じどうせんじょうじどうかんそうとなっております。洗濯も洗剤をセットするだけで自動で洗浄して頂けますし、乾燥まで行って頂けます。デリケートな洗い物さえ気を付けましたら、さほど家事は大変ではございません。たたむのをなまけるのはさすがに怒られるでしょうか。


「それと……仕事に関してだが」


「そうですね。大学を卒業致しましたら司書ししょ目指めざすつもりです」


「俺の。俺の秘書じゃダメか?」


「旦那様の秘書ですか? それは構いませんが、私で採用されますでしょうか」


「それは大丈夫だ」


「コネはいけませんよ? コネは」


「残念だが俺はお前と一時ひとときでも離れる気がさらさらない。あきらめてくれ」


強引ごういんがすぎます……」


「何とでも言え」


 エレベーターを降り、お部屋へと、綺麗なお部屋です。窓から外がごらんになれますが、これは……高所ですね。眺めが良いと言えば良いのですが、木造平屋一戸建もくぞうひらやいっこだてで育った私としては違和感いわかんが。れるまでは時間がかかりそうですね。


 私の荷物はそれほど多くはございません。すでにセットされておりました。細かい調整ちょうせいは自分でして欲しいとの事です。お皿などもすでにそろっておりました。本当に今日からここにお住みになるのですね。


「あっ」


 後ろから夫に抱きしめられております。頭の天辺てっぺん口付くちづけの感触かんしょくを。流れる指先。顎下あごしたを猫のように撫でられてしまいます。


 お風呂では夫の体を洗います。石鹸せっけんであわあわですね。背中に押し付けちゃいます。背中へと先端せんたんから押しつぶれてゆく感触。夫が深く息を吐くのを感じます。前面へと手を這わせ、夫が手に石鹸をまとわせます。どうやら洗いっこのようですね。


「好きだ」


「はい。私も。好ましく思っておりますよ。旦那様」


 湯船に浸かっている間はまるで赤子が甘えるように旦那様の腕の中におりました。鎖骨さこつへと寄せる頬と湯船ゆぶねの温かさが何とも心地良ここちよく。心地良い私とはことなり旦那様は……。ふふふっ。唇を顎下へと押し付けて離します。


「お前はまたっ。俺をまどわして」


「……惑わされているのですか? 旦那様」


「愛している。離さない。愛している。お前だけだ」


 沢山たくさんの言葉を耳元でささやかれてしまいました。


 大学も卒業まであと半年と言う所で、私は体調をくずしてしまいました。吐きはきけ眩暈めまいおそわれ、のどれぼったく、胸やけのようです。病院にゆきましたらどうやら妊娠にんしんのようでした。初めての感覚で、まだふわふわとしております。私、母になったのですね。夫のほころぶ顔が脳裏のうりよぎります。私達の子供です。


 お家へと帰りまして、夫の帰りをお待ちします――今日はラザニアです。

 スマホは結構な頻度ひんどで鳴り響きます。夫からですね。病院はどうだったのか。通話もかかって参ります。そんなに心配なさらずとも……。


 父や母からもメッセージや通話が来ております。嬉しいのやら、過保護過かほごすぎると申しましょうか。


 夫は特に心配し過ぎです。帰って来た夫を玄関でお出迎えです。帰って来るなり夫はいかりの形相ぎょうそうにございました。


「電話に出ろ」


「あっ。はい」


「今じゃない‼ まったく……あまり心配させないでくれ」


 その腕の中へと。


「今日はラザニアですよ。トマトたっぷりです。マカロニパスタも入っておりますよ」


「……きたないからあんまり近寄らない方が」


「……そんな事はございません。今日もお仕事お疲れ様です。それにあなたの汗は汚くありません」


 身を寄せずにはいられません。戦って来た夫が汚いわけがありません。いいえ。この汚れすらも愛おしいのです。


「臭くないか?」


「大好きです。あなたの全てが……」


 頬に添えられた指。優しく撫でて頂けます。


「病院はどうだった?」


「あっ……あなた。お伝えしたい事が」


「不安にさせないでくれ」


「ごめんなさい。その……妊娠しておりまして」


 夫は口元をおさええ、顔を背けてしまいました。あら。嬉しくないの――と考えたのは杞憂きゆうにございました。ニヤニヤとゆるみそうな唇を隠しておいでです。お可愛らしいですね。


「そうか。そうかっ。俺と君の子供か」


「はい。そうです」


「そうか……。ありがとう」


 ゆっくりとした動作どうさで、頬をゆるませた夫に、その腕の中へと包まれてしまいました。


 両親にお伝えしたのですが、過保護が余計よけい加速かそくしてしまいました。両親が頻繁ひんぱんに家へとやって参ります。特に母は毎日のようにやってこられます。家事などを行って下さるのですが、まだお腹も大きくなっておりませんのに。


「こういうのは初動しょどう大事だいじなの。つわりはどう?」


「少し、ニオイには敏感びんかんになってしまったように感じます。牛乳がちょっと辛いです」


「牛乳を飲む時は温めて飲むように。香水も気を付けなさいね。トマトは大丈夫? お母さん柑橘系かんきつけい結構辛けっこうつらい方でね」


 大学を休学きゅうがくするかどうかでめてしまいました。卒業単位はもう少しです。周りの方々にご迷惑めいわくをおかけしないように気を付けながら通わせて頂きました。


 次第に重くなってゆくお腹――いい子ですね。


 生まれて来た子供は男児だんじにございました。名前を竜次りゅうじ名付なづけます。竜次はとても大人しい子供でした。半年ほどでママと言葉を発します。愛おしい我が子ですね。


 病弱びょうじゃくと申しますわけではございませんが熱が高い日が多いです。それがとても心配なのですが、子供は熱が出やすいので高熱こうねつでないかぎりは大丈夫だとさとされてしまいました。


 休学届きゅうがくとどけを出しておりました大学も無事に卒業できました。子育てに関してなのですが、両親に面倒めんどうを見て頂ける事となり、夫の秘書ひしょとして就職致しゅうしょくいたしました。


 挨拶等あいさつなども特に行わず、夫のスケジュールを管理致かんりいたします。家へと帰れば子供と母が待っており、夫のご両親も頻繁ひんぱんに通って頂けますので仕事にせいを出す事ができました。


 スケジュールの合間あいまい、お弁当を差し出します。どうでしょうか。可愛らしい夫です。うふふっ。


「休憩時間が終わってしまいますよ?」


「今日は帰りたくない」


「午後からのお仕事も頑張りましょう」


「今日は帰りたくないと言っているのだが」


「会社にお泊りなさるのですか? では申請しんせいを致しますね」


「そう言う意味ではない」


「お弁当はどうでしたか? はんばーぐ。お醤油しょうゆ少々しょうしょう多かったかもしれませんね」


「わかっていて言っているだろう?」


「ふふふっ。わかります?」


「ひどい人だ……」


「だいぶ体型たいけいくずれてしまいました。少々おずかしい限りです」


「君は相変わらず魅力的みりょくてきだよ」


 今日はお家へ帰れそうにございません。両親へとそう告げますと、心配ないとお返事を頂きました。グルですね。わかります。


「午後からのお仕事は……」


「今日は全てキャンセルだ」


「もうっ。職権乱用しょっけんらんようはいけません。きゃっ」


 半年も待たずに二人目を授かりました。女の子です。名前を竜子りゅうこと名付けました。


 二人目の出産が少々難産なんざんとなり、体調を崩してしまいました。病院のベッドの上。夫が一晩中手をにぎっていて下さいました。


 竜次、竜子共にすくすくと成長して参ります。私とあなたの子供です。息を飲むほどに愛おしい。


 竜次には寂しい思いをさせてしまいました。私がおらずとも両親がおりましたので、寂しくはなかったと本人は言うのですが。三歳でそれはさすがに……。五歳まではかかるかと考えていたオムツもすぐに取れ、自分でお手洗いを行ってしまいます。


 ただやはり抱き上げますと竜次は優しく微笑ほほえむのです。もう三歳ですか。母乳を飲む竜次は微睡まどろむように身を寄せて甘えて参ります。


「あなたも甘えん坊なんですから」


「仕方ないだろ。悪かったな……」


「ふふふっ。いいんですよー? ねぇー? 竜次」


 そんな私は夫に背後から抱えられておりました。


 竜次と異なり竜子は奔放ほんぽうそのものです。アクティブで困ってしまいます。両親も翻弄ほんろうされております。良く飲み、良く動き、良く眠ります。


 夫と子育てと仕事の合間にジムへと通う事に致しました。少々崩れてしまった体型が気になります。現在正さなければ、ずっとのまま崩れてしまっているような気がします。夫には何時までも綺麗きれいな私を見てほしい――我儘わがままでしょうか。


「あなたのせいですからね」


「俺は好きだよ」


殿方とのがたは何時もそう言うのです。そう言うくせに。見て下さい。だいぶお肉が……胸だって張ってしまっています。あなたが私をこんなにしたのですよ? もうっ。責任せきにんはとって下さいね。聞いていらっしゃるのですか。わぁっちょっと。何処へ連れてゆく気ですか?」


「ベッド」


「旦那様ッ」


 ジムには主婦しゅふの方々が通っておりました。あまり良くありませんね。あまり良くありません。ジムには男性のインストラクターがいらっしゃるのですが、一部不真面目な方がございます。これでは真面目に働いている方が不憫ふびんです。それに不倫も良くありません。運動をしておりますと良く話しかけらるのですが、距離が近かったりボディタッチが多かったり致します。


 シャワールームが不安です。被害妄想ひがいもうそうかもしれないと私も考えるのですが、それでも夫以外の男性にはあまり近づいて欲しくありません。それにたまに……その。行為の音が聞こえるのです。本人達はどう考えているのかわかりませんが、それを聞くこちらの気持ちも考えて欲しいのです。少なくとも私は不快ふかいです。わざと聞かせているのか、それで私が発情はつじょうすると考えていらっしゃるようなのです。


 このような感想を言えるような身分ではございませんが、はっきりと申しませば気持ち悪いです。私まで巻き込まれそうで怖いです。実際周りの女性も私を巻き込もうとしておられます。快楽かいらくを求めるのは勝手ですが、私には夫がございます。男性の方の言いなりになっておられるようですが、それでよろしいのでしょうか。


 夫にこの問題をお話すると夫は激怒げきどしているようでした。探偵たんていやとい、証拠しょうこをそろえますと各方面から阿鼻叫喚あびきょうかんの声が響きます。真面目に働いていた夫さんが可哀想かわいそうです。中には泣いている方もございました。本当に可哀想です。家族のために身をこなにしていらっしゃるのです。家族のために汗をかき汚れているのです。それなのにこの仕打しついちはあんまりです。子供にも良くありません。少なくない子供が巻き込まれておりました。


 私も女性陣よりかなりの嫌味や罵倒ばとうを浴びました。


「あなたがだまっていれば済む問題だったのに‼」


 そう告げられてしまいました。結局けっきょくはダメだったと私は思います。ジムを運営うんえいしている方やコンシェルジュの方々もかなり疲弊ひろうしておられました。裁判さいばんともなりますとさらに時間を有します。大変にもなりますが頑張がんばって頂きたいです。


 厄介やっかいでしたのは上層の方におえらい方の奥様おくさまがおられた問題です。この方はどうもスワッピング等を提案ていあんしていたご様子で。私も何度かパーティーに招待されておりましたが参加しておりませんでした。この方が色々となさっており、犠牲ぎせいとなった方も少なくはないようでした。はからずもマンションのやみりとなる形となってしまいました。


 夫の提案ていあんにて引っ越す事となり、新たに平屋の一軒家いっけんやへと移り住みます。


「大丈夫なのですか?」


「問題ない。元々家のじいさんが使っていた家だ。そんな事よりお前が無事でよかった」


「私は旦那様一筋ひとすじですので」


「俺もお前だけだ。お前だけだよ。お前だけだ」


「旦那様。一応いちおう言っておきますが」


「それだけはない」


 いたいくらいに抱きしめられてしまいました。


 木造平屋一戸建てです。なんだかとても安心致します。両親も家に足を運ぶのが軽くなったと申しておりました。竜次さんは物静ものしずかで少し心配です。竜子さんはヤンチャ過ぎて逆に心配です。上手に子育て出来ておりますでしょうか。


 竜次さんが中学生となった時に、問題がございました。竜次さんが万引まんびきをしたと警察からご連絡があり、急いで足を運びます。


 到着とうちゃく致しますと竜次さんは席に座り小さく震えておりました。店長さんのお話で、三万円のイヤホンがかばんの中から出て来たと言うのです。となりへと座り、竜次さんの話を聞いておりました。竜次さんはなかなかお話をして下さいませんでした。


 竜次さんの手を握っておりました。冷たくなった手です。初犯しょはんと言うことでお店に料金を支払い、警察より厳重注意げんじゅうちゅういの上、その日は解放かいほうして頂けました。


 夫にはお話を致しませんでした。夜通よどうし竜次さんの手を握っておりました。竜次さんは大丈夫だと。ごめんなさいと何度もあやまるのです。むずかしい年ごろです。しかし竜次さんが万引きをする理由を知りたいのです。私がさびしい思いをさせていたのでしょうか。次の日。竜次さんは怪我けがをして帰って参りました。転んだのだと言うのです。嘘ですね。夫には話しておりませんが、夫は薄々うすうすと気付いているようにございました。気付いていて気付かないふりをして下さっているのです。似通にかよう所があるのでしょう。


 竜次さんは先生からの評判は良いのですが友達とは積極的せっきょくてきな交流を持ちません。心配です。一人が好きだと言うのは理解できるのですが。母として孤独こどくなのは良くないと考えるのです。


 心配だったのですが――自分で解決してしまったようです。どうもイジメを受けていたようなのですが、先生に呼び出されてしまいました。生徒の数人と喧嘩けんかをしたと。複数ふくすうの生徒と対自たいじしていたようですが武器はいけません。武器は。停学になってしまいましたが、高校では退学になるレベルの喧嘩でした。


「あいつらが、母さんに手を出すって言うから」


「……それでもバットはいけません。バットは。死んでしまいます」


「はい」


「よくやった」


「あなた‼」


「はははっ」


 親御おやごさんたちとの話し合いは苦労くろう致しました。もめにもめて修復不可能しゅうふくふかのうになった方から、お互い様とおっしゃって下さる方、これくらいヤンチャな方が良いとおっしゃって下さる方もおりましたが頭は下げました。暴力はいけませんから。イジメの事実もございます。逆に頭を下げて下さった方の方が多かったです。


 今回の喧嘩で竜次さんは自信を持ったようでした。変な自信でなければ良いのですが。母親と言うのはとても難しいです。美味しいご飯とお世話があれば上手に回るわけではありませんから。


 竜子さんは……問題ないようですね。どのような方とも仲良くなってしまうようです。習い事や稽古けいこがお嫌いでしょっちゅうサボってしまいます。ですがすこやかに育って頂ければ、それで良いのです。竜次さんの方が習い事や稽古に真面目です。竜子さんの特技のらんに木登りと記載きさいがございました。あれ、竜子さんは女の子、ですよね。特技が木登り。ですか。そうですか。すぐに乳離れしてしまった事もございます。お母さんはとても寂しいです。お父さんとの方が仲が良いみたいですね。なぜでしょうか。メラメラと嫉妬しっとしてしまいます。竜子さんはもっとお母さんに甘えるべきです。そうすべきです。めらめら。


 竜次さんはまなぶのがお好きで、竜子さんは経験けいけんするのがお好きなようですね。


 竜次さんは私立しりつのエスカレーターですが竜子さんは……。お受験じゅけんは無理ですね。じっとしていられませんから。うん。無理でした。じっとしていませんから。竜子さん……。お受験の場にトカゲをつかまえて来てはいけません。


 その話を聞いて夫は笑っておられました。笑いごとではございません。まったく。


 母の日に……息子が花束はなたばおくって下さいました。感無量かんむりょうです。竜子さん。嬉しいのですが、お母さんトカゲはちょっと。クワガタならば良いというわけでもございません。お爺ちゃん、お祖母ちゃんが竜子を甘やかしています。ぷんぷん。竜子さん。お母さんカブトムシもちょっと……。


 竜次さんは抱きめますとおずかしそうに顔をそむけます。これが大変愛たいへんあいくるしいです。何かが心の中に補充ほじゅうされてゆくようですね。わかります。


「お母さん。もう子供じゃないって」


「お母さんにとっては何時いつまでも貴方は子供です」


 夫からはディナーにさそわれてしまいました。エスコートされてしまいます。


「なんだかお恥ずかしいです」


「君は綺麗だよ」


「また……そのような歯の台詞せりふを」


「綺麗だよ」


 ほほに手をえられ見つめられますと何ももうせません。そのままホテルへとまり一晩帰ひとばんかえりませんでした。夫婦なので、問題は無いのですが……。このように情熱的じょうねつてきに求められますと。また子供が出来てしまいます。何人でもかまわないのですが。いけませんね。夫が好きでたまらないのです。


「お前が好きでたまらない」


 気持ちまでシンクロしておりますのでしょうか。


「またそのような……」


「こうして抱きしめていると、いとおしくて仕方がない」


「もう。あなたたったら」


 色々な雑誌ざっしを眺めたおり恋愛は三年で終わると申しますが、おそらく三年目からは愛情なのだと感じておりました。


 目が覚めれば夫の腕の中――起き上がろうとすれば押さえられて抜け出せません。強く腕の中へと収められてしまいます。


「離さない」


「では。もっとぎゅっとして下さい」


「あぁ」


「おしたい申しております。あなたを……愛しております」


 そう告げますと夫はもだえるように私を強く押さえつけます。かまいません。微睡まどろみの中。カーテンかられた光がれておりました。夫のすべてを受け止めたい等と、私は我儘でしょうか。そそがれる愛情に密着みっちゃくせずにはおられません。あなたに包まれたい。口付けすら好ましく重ねずにはいられません。


 たまには家族で旅行です。初めてハリケーンに遭遇そうぐう致しました。ですがその後はおだやかで、淡水たんすいのクラゲなどを鑑賞かんしょう致しました。


 私が水に入るのを躊躇ためらっておりますと、少年が手にクラゲを乗せて持って来て下さいました。可愛かわいらしいクラゲでした。


 初めて蝙蝠こうもりのスープとヤシガニを頂きました。これは前世ぜんせで味わいましたモジョホジョの味に近かくて独特どくとくなお味にございました。


 家族四人で夕日をながめて過ごします。ゆったりとした時間にございました。竜子さんは特に目をかがやかせて色々な物を経験しておりました。ただお二人共、気後きおくれしておりますのか、傍を離れません。可愛らしいです。


 夫と二人。子供を挟んでベッドの上です。子供達の体温は何とも心地良ここちよく。夫と子供達を眺めておりますと、息遣いきづかいいだけが――やさ眼差まなざしと大きな手の中。身を少し乗り出して求める唇と微笑ほほえみ。


「いい子だ」


「あなたの良い子ですよ。うふふっ」


 頬に添えられた指先。まぶたを閉じればやすらぎの中――。


 旅行も終わりですが帰り道は皆様落ち着いておりました。少しだけ寂しい気持ちになりますね。終わりは何時も物悲ものがなしいものです。竜子さんは特に感受性かんじゅせいが高いようで、少しなみだぐんでおりました。竜次さんはクールですね。子供達を両脇りょうわきへとかかえられる。深い息が漏れてしまいます。


「よし。ちょっと車とってくるよ」


「はい。あなた。ここでお待ちしておりますね」


「パパ。早くしてよねー」


「あぁ。すぐ戻るよ」


 パパですって。ふふふっ。喧騒けんそうの中。眺めている景色が過去かこかさなり流れます。人々の移り変わりと営みの中――。両手が触れる子供達。もう一人欲しいなどと、夫に相談してみましょうか。もう一人と言わず……。


「きゃあああああああああ‼」


 悲鳴ひめい木霊こだま致します。なんでしょうか。刹那せつな混乱こんらんです。皆さん悲鳴の方へと視線を。


「うわああっ‼ 逃げろ‼ 早く‼ 逃げろ‼」


 これは――人々のなみみだれ、あらわれた男の手には白刃はくじんにぶい光をびておりました。子供二人を背後はいごへと隠し、置いた荷物もそのままに走らせます。


「うわわああああああああああああ‼ 死ねぇええええ‼」


 子供達だけは絶対に守らなければ――。背中へとするどいい痛みが走ります。子供達だけは絶対に守らなければ。振り向いた先、男の白刃がお腹へと突き刺さるその瞬間しゅんかんがまるでスローモーションのようにうかがえておりました。肌へと浸透しんとうし、しずみ込んで参ります。これでいい。これでいいのです。強烈きょうれつな痛みとしびれが参ります。


「離せ‼」


「うっ……ぐっ」


 刺さったナイフを握ります――車が突っ込み、降り立った夫が男をおさえ込みます。


「涼子‼ 涼子‼ 大丈夫か⁉」


「離せぇええええええええええ‼ 離せよぉおおおお‼ 離せぇえええええ‼」


 あなた。来て下さいました。あなた――。


 不思議なのです。痛みがあまりありません。せきが漏れ出します。なぜでしょうか。力が。抜けてゆくのです。足が。くずれてしまいました。


「お母さん‼」


「ママ‼」


 あぁ。竜次さん。やはり、男の子なのですね。お母さんを抱きとどめられるほど大きくなりましたね。


「……竜次。あぁ……」


 触れた頬に赤いあとがこびりついてしまいます。汚してしまいましたね。


「いい子に育つのよ。優しくね。お母さんね。嬉しかったの。ごめんなさいね。いじめる側じゃなくて良かっただなんて」


「お母さん‼ 救急車きゅうきゅうしゃ‼ あぁっ指がふるえてっ。お母さん‼」


「ママッ‼ ママッ‼ お兄ちゃん‼ お父さん‼」


「誰か警察を呼んで‼ 大丈夫ですか⁉ 警察‼」


「みんなで押さえつけて‼」


「コイツ‼ ふざけやがって‼」


「竜子。あなたは、自由に、ね?」


 あなたは芯の強い子ですから。わくとらわれず、自由に生きるのよ。


「おがああさん‼」


「風邪、ひかないように、温かくして、眠るのよ?」


 あなた――。


 あなた――。


 あなたの姿が遠くにございます。


 あなたと一緒になれて――。


 私は――。


 幸福しあわせでした――。


「涼子‼」


 遠くにあなたの声が聞こえます。


 耳鳴みみなりが致します――私はどうなりましたのでございましょうか。真っ暗な暗闇の中におります。まぶしい。光が。笑い声が聞こえて参りました。


「ごめんな。フランソワーズ。でも俺は真実の愛に気付いてしまったんだ。そう。ミラへの愛に」


「ごめんなさいね。フランソワーズ。親友の貴女から彼を奪ってしまうだなんて」


 急な暗転あんてん眩暈めまいにふらついた足。ペタリと床へと座り込んでおりました。顔を上げ見回しますと。ここは――何処か見覚えのある風景ふうけいです。何か誰かが何かを語っておりますが、耳に入って参りません。笑い声がひびいておりますが、そんな事はどうでも良くございました。


 子供達が無事で良かった。子供達が無事で良かった。母として人として。子供たちが守れて良かった。そう考えるだけで涙がこぼれて参ります。しかしながら、ぼやける視界の中で私を嘲笑ちょうしょうなさるのは――。私は白昼夢はくちゅうむをごらんになられていたのでしょうか。現実逃避げんじつとうひからの長い白昼夢だったのでございましょうか。しかしながらもう、こちらの事は、それほど重要じゅうような問題ではありませんでした。


「何をしている」


 感慨かんがいぶかいものですね。私はとても幸せでした。


「こっこれは殿下でんか


「これは何の見世物みせものだ? ってたかって女一人を見世物みせものにするとは悪趣味あくしゅみな奴らだな」


 皆が息を飲んでおられます。殿下です。まだお若い方です。


「お前は……立て」


 腕をにぎられ力をめられ、さすがに立ち上がらないわけには参りません。この国おかれまして皇帝一族の権力けんりょくは絶対ですので。


「来い」


 はえー……。腕を握られ連れ行かれてしまいました。お腹をさすさす致しましたが、傷口などはございませんね。背中も眺めます。


 噴水ふんすいふちへと座らされてしまいました。


「……泣くほどあいつが好きなのか?」


 改めて殿下を眺めます。この国の第一王子です。黒髪でまだまだお若いご様子です。竜次さんと同じぐらいでしょうか。ふふふっ。お可愛らしいです。


「何を笑っている」


「いえ。申し訳ございません。確かに婚約者ではございました。しかしながら好ましいとは考えておりません。涙は少し事情じじょうがございまして」


「……好きではないのだな?」


「はい。私には大切な方がおられますので」


 鉄次郎様。例え白昼夢であったとしても私の心の中には今もなお、あなたが存在しているのです。


「それは鉄次郎か?」


「……へ? 殿下は、鉄次郎様をご存じなのですか?」


「答えろ」


「……はい。私は鉄次郎様をお慕い申し上げております」


「……そうか」


 なぜにございましょうか。殿下に抱きしめられてしまいました。その小さな胸の中です。


「殿下?」


「お前のいない日々は、地獄じごくのようだったよ。涼子」


「へ?」


「悪いけれど、俺はお前を手放す気はないよ。涼子」


「てっ……鉄次郎様?」


「あぁ。まったく。こんな所にいるだなんて。まったく。しかも婚約者だなんて。許せそうにない。あぁ許せそうにない」


 強く胸の中へと抱き留められてしまいました。


「……殿下? 鉄次郎様……?」


「そうだ。長い長い時間だった。また出会えるなんてな。一目でわかったよ」


「本当に……鉄次郎様?」


「あぁ。そうだ。もう離れるんじゃない」


「これは、夢、でしょうか?」


「夢だったら俺はキレちまいそうだ。ようやく会えた。もう手離しはしない。もう二度と離しはしない。もう何処にも行くな。俺の傍にいろ」


 まさかまさかまさか。この世界で再び鉄次郎様と出会えるだなんて。


「そうだ。子供たちは⁉」


「無事だよ」


「そうですか。そうですか……。ごめんなさい鉄次郎様」


「なぜ謝る? 俺の方こそすまなかった。お前を守れなかった。やんでもやみきれない。すまなかった」


「ふふふっ」


「なにを笑っている」


「鉄次郎様。変わっておりませんね」


「変わったよ。変わった」


「そうですか?」


「あぁ……。ところで婚約は破棄されたのだろう?」


「えぇ? そうですが」


「じゃあ、何も問題はないな。俺と婚約しろ」


「あのぅ。鉄次郎様」


「なんだ?」


「鉄次郎様は今、何歳にございましょうか?」


「十歳だが?」


「私……十六歳なのですが」


「それが何だ?」


「鉄次郎様が十八歳になられましたら、私は二十四歳なのですが」


「それがどうした?」


婚期こんきが……ですね。この世界での婚期が……」


「言っとくけどお前が他の男に嫁ぐなんて絶対許さないからな。絶対に俺と結婚させる」


「私は……鉄次郎様をお慕い申し上げておりますが……そのう。皇帝一族としての義務ぎむが……殿下には」


「知るか。障害しょうがいの一つや二つ。捻り潰してやるさ。お前は何も心配するな。もう二度とお前を離さない。守れなくて悪かった。すませなかった。もう二度と、お前を手離したりはしない」


「そんなに謝らないで下さい。私もあなたを一人にしてしまってごめんなさい」


「いいさ。もう。いいさ。こうして出会えたのだから。ずっと傍にいてくれ……涼子」


「はい……。鉄次郎様」


 運命とは思いもよらぬものですね。ただ、その、何と申しましょうか。のちの障害は一つや二つでは済みませんでした。


「あの。鉄次郎様」


「なんだ?」


「伝えておりませんでしたので。その」


「あぁ。なんだ?」


「私、鉄次郎様と出会えて、とても、幸せです」


 そう伝えますと鉄次郎様は嗚咽おえつを零して顔を埋めて参りました。涙とそでを握る拳が震えております。


「ごめんな。ごめん。守れなくて。本当にごめん。ごめんな。俺が守らなきゃいけなかったのに。俺が守らなきゃいけなかったのに。ごめんな。痛かっただろう? 辛かっただろう? ごめんな」


「……いいのですよ。子供達は守れたではありませんか。いいのですよ」


「よくねーよ。お前に二度と会えなかったかもしれないと思うと俺は……俺は」


「……よしよし。よしよーし。また出会えたではございませんか」


「もう何処にも行くな。ずっと一緒にいてくれ。頼むよ……」


 鉄次郎様はなかなか離れてくれませんでした。お可愛らしいですね。


「……はい。ずっと一緒です」


「もう絶対に離さないからな」


 仕方がございませんね。まぶたの下にまった雫をこの指と魔法の呪文によって救ってご覧にいれます。


「……そういえば、ご存じですか? この国では婚約者よりも真実の愛に気付いてそちらへと靡く王子様の物語が流行っているのですよ? 捨てられた婚約者もまた遥か遠方の土地で、これもまた真実の愛を見つけて王子様よりも幸せに暮らすのです。そして王子は婚約者を手離した事を悔やみ晩年ばんねんを過ごすのです」


 あごをナデナデして差し上げます。暗い表情は良くありませんわ。


「……それは」


 鉄次郎様は目を丸くして考えておられます。お可愛らしいですね。


「……お前……俺をからかっているな⁉」


 ばれてしまいました。


「うふふっ」


「二度と離さないからな」


「……はい」


 愛おしいあなた。

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幼馴染の婚約者と親友の令嬢に裏切られたご令嬢の末路 柴又又 @Neco8924Tyjhg

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