第17話 夏期講習―静物を描きなさい①
申し込みの期限が過ぎ、
いよいよ明日から――夏期講習が始まる。
一週間ほど前、私は申請と振り込みを済ませ、
その報告をアトリエ内にいたオオワシ先生へ伝えたのだった。
「おー、最初から最後まで全部参加? すごいわね」
驚きと、少しの心配が混じった声が返ってきた。
「仕事終わってから朝まで描くんでしょ?
体調には気をつけて、休める時にはちゃんと休みなさいよ」
その言葉に、私は小さく頷いた。
気遣いの中に、確かな励ましがあった。
「夏期講習の期間は、内部生――つまり今ここにいる子たちと、
外部生、普段は来ていない人たちも一緒に描くからね。
真新しい絵も人も見られて、きっと良い刺激になるわ。
身体を壊さず、全部の課題をこなしてね」
オオワシ先生はそう言って、
最後に笑顔で肩を軽く叩いてくれた。
⸻
その夜、家に帰ってからも、
私は夏期講習のプリントを机に広げていた。
講習のカリキュラムには、
「木炭デッサン」「構成課題」「石膏像」「油彩静物」と並び、
その隣にびっしりと記された日程表。
一つの週が終われば、次の週が始まり、
そのすべてが入試へと繋がっていく。
――去年の冬、アンザイ先生が言っていた言葉を思い出す。
『夏期講習、冬季講習、そして入試直前講座だけ参加する人も多いんだよ』
その時は、まだ遠い話だと思っていた。
けれど今、その“夏”が、確かに自分の目の前に迫っている。
⸻
外では、蝉の声がかすかに鳴き始めていた。
湿った夜風がカーテンを揺らし、
机の上のプリントの角を小さくめくる。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
それは不安でも、焦りでもない――期待だ。
――この夏、何かが変わるかもしれない。
そんな予感を抱きながら、
私は明日のために筆を整えた。
眠れぬ夜の静けさの中、
絵の具の匂いだけが、夏の始まりを告げていた。
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仕事を終え、夜明けとともに家へ戻った。
軽くシャワーを浴び、髪を乾かしながら道具を詰め直す。
鉛筆、練りゴム、木炭、スケッチブック――。
一つひとつを確かめるたびに、胸の奥が少しずつ高鳴っていく。
眠気を押し殺すようにして家を出たころには、
街はすでに真夏の朝の光に包まれていた。
⸻
予備校に着くと、校舎の前の歩道には
キャリーケースを引きずる人の列がずらりと並んでいた。
まだ開校してからそれほど時間は経っていないはずなのに、
まるで駅のホームのような賑わいだ。
大きなカバンや画材を抱えた人たち――
おそらく外部生、あるいは都外から泊まり込みで来ているのだろう。
私はその列を横目に、少しだけ息を吐いた。
この列に並んでいたら、きっと開始時刻には間に合わない。
迷った末、裏手の非常階段へと足を向ける。
幸い、こちらにはまだ誰もいない。
鉄の階段を一段ずつ上るたびに、
夜勤明けの身体の重さがじんわりと足にのしかかる。
けれど、それでも足取りは軽かった。
⸻
定められた階のアトリエにたどり着くと、
すでに十数人の生徒が、それぞれの席に道具を広げていた。
室内には木炭の粉と油絵具の混じった匂いが立ちこめ、
朝の光がカーテン越しに柔らかく差し込んでいる。
壁際にはまだ空いた席がいくつか残っていた。
私は静かにそこへ向かい、道具を並べた。
⸻
「今日の課題は――静物を描きなさい」
アンザイ先生の声が、アトリエに響く。
組まれたモチーフに目を向けると、
アクリル板の上に据えられた大きなイーゼル、
そこに掛けられた透明のビニール傘、
足元にはプラスチックのチェーンや、様々な小物が散りばめられていた。
――なんて、複雑な構成だろう。
光と影、質感、反射、重なり。
一つとして同じ形がない。
今まで描いてきた静物デッサンの中でも、
明らかに難易度が上がっていることを肌で感じた。
⸻
まだ描く位置は自由に選べるという。
私はアトリエをゆっくり見回し、
自分に合いそうな角度を探した。
ざわめきの中、
木炭の粉が舞う光の粒を見つめながら、
私はそっと心の中で呟く。
――始まったんだ、私の“夏”が。
ペン軸を握る指先が、少しだけ震えていた。
⸻
今回の課題は、木炭による静物デッサン。
制作期間は二日間。
明日の夕方には講評が行われるという。
つまり――今日と明日、合わせて十時間以上。
そのすべてを、この一枚に費やすことになる。
私は左手の腕時計を見つめ、
自分なりの描き進め方を頭の中で組み立てた。
一日目で構図と大まかな明暗、形の整理を終える。
二日目で質感と空間、そして全体のバランスを詰める。
焦る必要はない。
この二日間をどう使うかで、結果が決まる。
自分の制作速度と癖を把握していれば、
きっと問題はない――そう思っていた。
だがその時の私は、まだ知らなかった。
“時間”というものが、
この夏ほど重たく、残酷なものになるとは。
⸻
進めれば進めるほど、
目の前の静物と、木炭紙の上に広がる“それ”との違いが
少しずつ、確実に気になりはじめた。
描いては見比べ、首を傾げる。
線を直せば形が崩れ、
影を濃くすれば、全体の調子が沈む。
こう描けばここが良くなって、
でも、そのせいで別の場所が狂う。
たった一箇所を整えるだけで、
別の一箇所が壊れていく。
描いて、消して。
また描いて、また消して。
まるで、
その場で地団駄を踏んでいるような気分だった。
紙の上で一歩も前に進めず、
気持ちだけがどんどん前のめりになっていく。
時計の針は思った以上に早く回っていて、
気づけばアトリエの窓はすっかり夕焼けに染まっていた。
――何も掴めないまま、
私はその日を終えてしまった。
⸻
アトリエを出ると、街はまだ明るかった。
夕焼けに染まるビルの隙間を抜けながら、
私は帰りの道を歩いた。
家に着くと、靴を脱ぐ間もなくベッドに倒れ込み、
数分の仮眠のあと、夜勤へと向かった。
仕事場の音と人の声が、まるで別の世界のように響く。
それでも私の頭の片隅には、
まだアトリエの静物が焼きついて離れなかった。
夜明け前、再び家へ帰る。
シャワーを浴びて髪を乾かす。
カーテンの隙間から差す朝の光が、
まぶたを叩くころ――。
私は再び、アトリエへ向かう支度を始めた。
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