第2章 夏、夏期講習

第15話 戻れない夏と、これから来る夏

あのスクラップブックの発表が終わり、六月も半ばに差しかかる頃。

 アトリエの空気はどこか落ち着きを取り戻し、

 油絵具とペインティングオイルの匂いが、また“いつもの日常”へと戻りつつあった。


 制作中の生徒たちの手を止めるように、アンザイ先生がプリントの束を手に口を開いた。


「もうすぐ七月に入ります。予備校も夏休みに入りますね。

 夏期講習に参加する生徒は、これから配布するプリントに参加希望と、参加する週の予定を書いて提出してください」


 そう告げると先生は近くの生徒にプリントを渡し、それを皆に配るよう促す。

 淡いクリーム色の紙が、人から人へと流れていった。


 ――夏休み。


 その言葉を耳にした瞬間、私はふと現実に引き戻された。

 ここにいる生徒全員が、夏期講習に参加できるわけではない。

 月謝とは別に、講習費がかかる。

 誰もが自分の意思だけで決められるものではないのだ。


「プリントどうぞ」


 顔を上げると、隣にいたマユズミさんが差し出してくれた。

 ピンクのツナギに金髪のショートヘア、

 耳のピアスが蛍光灯の光を跳ね返して小さく光る。

 彼女の手から受け取った紙の感触は、思ったよりも重たかった。


 プリントには、七月の頭から八月の末までのカリキュラムと、

 週ごとの講習費が細かく記されている。

 ページをめくるたびに、静かに現実がのしかかってくるようだった。



「アンザイ先生、すみません。全員に配ったはずなんですけど、けっこう余りました」


 マユズミさんが声を上げると、アンザイ先生は軽く笑ってうなずいた。


「ああ、今日来てない生徒もいるんだね。全員分擦り出したつもりだったけど……

 残りは後日来た子たちに渡しておこう。アトリエの壁にでも掲示しておくよ」


 その何気ないやり取りを聞きながら、

 私はプリントの空欄を見つめていた。

 “参加希望週”と書かれたその枠が、やけに遠く感じる。


「最初の週はまだ学校があるから後半からかな?

 夏休みずっとってよりは、週の内容で決めるよ。

 後半は私大の教授とかも来るって書いてあるし」


 近くの席の男子が友人と話している声が耳に届く。

 軽やかな笑い声。

 その響きが、少し眩しかった。



 ――夏休みなんて、私には関係がない。


 当然、仕事というものがついてまわる。

 それは、成人を迎え、納税者として生きる者にとって、

 悲しみと誇りの両方を抱えた“義務”のようなものだ。


 夏期講習代は……ある。

 問題は、私の「時間」と「体力」。


 日中は仕事。

 夜はアトリエ。

 そして帰宅してから、翌日に備える。

 睡眠はいつも削られ、

 それでも“描く”という理由だけで、私は今日もここにいる。



 これまでの予備校生活なら――

 夕方にアトリエへ向かい、夜の帳が降りる頃に家路につく。

 深夜から早朝にかけて別の顔として働き、

 朝日を拝んで床に伏す。


 夕日に挨拶をしてアトリエへ行き、

 月に「ただいま」を告げて帰る。

 そんな生活にも、もう慣れていた。


 だが夏期講習が始まれば、それも変わる。

 朝から予備校が始まり、夜に帰り、

 そして深夜から働く日々。

 時間の流れが、これまでとはまるで違うものになる。


 ――絵を描くために眠りを削り、

 働くために夜を犠牲にする。

 それが、今の私の現実だ。



 不思議なものだ。


 他の生徒たちは、制服に身を包みアトリエへやって来る。

 私は私服で通い、

 皆が眠りにつく頃に制服へ着替えて仕事をこなす。


 昼と夜が反転した生活。

 同じ「一日」という時間の中にいながら、

 私だけが別の世界で生きているような感覚。


 けれど、この奇妙さが嫌いではなかった。

 アトリエの蛍光灯も、夜勤の街灯も、

 どちらの光の下でも、私は確かに生きていた。



 プリントの余白を指でなぞりながら、

 私は静かに息を吐いた。


 “戻れない夏”と“これから来る夏”。

 その境界線が、今まさに目の前にある気がした。


 窓の外では、まだ六月の風が柔らかく吹いている。

 その風の向こうに、

 汗と絵具の匂いが混ざる、あの夏の光景がぼんやりと見えていた。

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