第13話 スクラップブック④ 私のレゾネ
カワムラさんの発表が終わったあと、
アトリエの中には、しばらくのあいだ沈黙が残った。
紙を閉じる音、ページをなでる音。
椅子が軋む小さな音さえ、やけに大きく響く。
その沈黙を、オオワシ先生の穏やかな拍手がそっと破った。
「……いいわね、カワムラさん。すごく素直で、すごく繊細だったわ」
優しく言葉をかけると、先生は軽く息をつくように微笑んだ。
他の生徒たちも、何かを飲み込むようにして拍手を送った。
拍手は静かに、けれど確かに波紋のように広がっていく。
――それを見ながら、私は思っていた。
この空間の中で、いま起きていることは“ただの発表”ではない。
一人ひとりの中にある「好き」や「痛み」や「夢」が、
ページという紙の上に、ありのままの形で現れている。
誰かの作品を覗くたび、
自分の胸の奥の、まだ名前のついていない部分が少しずつ動いていくのがわかった。
美とは何か。
それは“評価されるもの”ではなく、“肯定されるもの”なのかもしれない。
そんな考えが、ぼんやりと浮かび始めていた。
⸻
「次は……あなた、ね」
アンザイ先生の声が、静かなアトリエの空気を震わせた。
私の心臓が、一瞬だけ止まる。
そして、すぐに跳ね上がる。
手のひらが汗ばんでいる。
膝の上に置いたスクラップブックの表紙を撫でると、
自分の指先の震えが、紙越しに伝わってきた。
「……はい」
自分でも驚くほど小さな声で答えていた。
お立ち台の上に立つ。
視線が集まる。
四方から光が差してくるような錯覚。
自分がこのアトリエの中心に立っている――
そんな当たり前のことが、こんなにも息苦しいものなのか。
目の前にいるのは、同じ受験生。
けれど今の私は、試験ではなく“自分という作品”を見せようとしている。
ページを開く前から、
喉の奥が、少しだけ熱くなっていた。
⸻
「……改めまして、○○です」
口を開いた瞬間、自分の声が思ったよりも高く響いた。
思わず息を整える。
「私のスクラップブックのテーマは、“私のレゾネ”です」
ページをめくる。
最初の一枚目には、彼女の写真を貼り付けていた。
最初に“自分の好きを伝えて”と先生に言われた時、
真っ先に思い浮かんだのは――
今、海外出張をしている彼女のことだった。
私の発表に、オオワシ先生は思わず吹き出して笑った。
その横で、アンザイ先生が小さく咳払いをする。
オオワシ先生は少し恥ずかしそうに、
「気にせず続けなさい」とアイコンタクトを送ってきた。
私は小さくうなずき、ページをめくった。
⸻
そこから私は、
自分がこの予備校に戻ってくるまでの時間を、
写真を交えながら紹介していった。
学生時代、初めて描いたデッサンの一部が貼られている。
不器用な線。硬い影。
それでも、当時の私はそれを“完成”だと思っていた。
「昔の私は、形を描くことに必死で、
“うまく描けるかどうか”ばかりを気にしていました」
かつて私は現役生と呼ばれる頃、この美術予備校に通っていた。
だが、周囲の生徒との圧倒的なレベルの差に打ちのめされ、
スタートラインからして違うという現実を思い知らされた。
半年も経たないうちに、私は辞めてしまった。
それでも諦めきれず、
いくつかのバイトを転々としながら、
独学で絵を描き続けた。
⸻
ページをめくる。
そこには、最近描いた静物のスケッチ。
果物の皿、影の中の光。
「昔は“上手く描こう”としていたけど、
今は“見よう”として描いている――そんな気がします。
描くことよりも、“見ること”を学んでいる感じです」
言葉が自然と出てくる。
準備してきた台本なんて、どこかへ消えていた。
アトリエの光が柔らかくなっていく。
さっきまで強張っていた空気が、
少しずつ呼吸を取り戻していくのがわかった。
⸻
「そのあと私は、公務員になりました」
次のページには、
グレーベースのデジタル迷彩を着て、
同期や後輩と肩を組んで写る写真が貼られている。
私は、ただの公務員ではない。
――航空自衛官として、去年の夏まで勤務していたのだ。
カワムラさんが息をのむのが見えた。
「入隊の理由なんて立派なものじゃなくて、
夢に区切りをつけようか迷っていた時、
自衛官の友人に誘われた……それだけなんです」
衣食住が保証され、給料が安定している。
そんなイメージのまま、私は入隊した。
けれど、その日々の中で出会った言葉があった。
⸻
「俺の嫁さんが入院してるんだ。
好きな花の絵を描いてくれないか?」
そう頼まれたのは、ある夏の夕方だった。
割り切って働いていた私は、絵を描くことから遠ざかっていた。
人のために絵を描くなんて、考えたこともなかった。
けれど私は花屋へ向かい、
奥さんが好きだと言っていた花を買い、
それをモデルにして絵を描いた。
開いたページには、その花の絵の写真。
不出来な一枚。
それでも私は額に入れて渡した。
先輩と奥さんは、驚くほど喜んでくれた。
笑顔が、今でも焼きついて離れない。
⸻
それからしばらくして、奥さんは亡くなった。
「この絵に描かれた花を、直に見られるように頑張る」――
奥さんはそう笑って言っていた、と先輩は教えてくれた。
「少しでも思い出を残していたいから、
この絵は家にずっと飾るよ」
その時、私の中で一つの感情が生まれた。
――もし私がここで絵をやめたら。
先輩との思い出も、あの奥さんの笑顔も、
全部なかったことになってしまうんじゃないか。
私は“思い出”にしたくなかった。
絵で人が喜んでくれたことも、
自分がまだ絵を好きだと気づいたことも。
それを“過去”という棚にしまい込むことが、
どうしてもできなかった。
⸻
それからの私は、
時間を見つけてはスケッチブックを開いた。
基地の部屋、公園、休憩所――場所なんて構わなかった。
見たもの、感じたものを、
ただ無我夢中で描き殴った。
二任期の終わりに、
私は上司に告げた。
「もう一度、絵に本気で挑戦したいです」
五年間の自衛隊生活は、そこで幕を下ろした。
上司には「わがままだ」「社会人失格だ」と叱られた。
けれど、私の背中を押してくれたのは――
あの先輩と、そして彼女だった。
⸻
「だから、私は今ここで絵を描いています」
自分でも驚くほど、声が静かに落ち着いていた。
「私の“好き”を応援してくれる人のためにも。
そして、私自身の“好き”を続けるためにも」
言葉を締めて、ページを閉じた。
⸻
短い沈黙。
そのあとで、オオワシ先生がふっと笑った。
「……十年以上講師をしているけど、
自分の彼女の写真を貼った生徒は初めてだったわ。
でも――いい発表だったわ。言葉も作品も、どちらもあなたらしかった」
柔らかい笑いと拍手が起こる。
その音がアトリエの天井に反射して、やさしく降り注ぐ。
私は軽く頭を下げた。
足が震えていたが、なぜだろう――
心は、不思議と静かだった。
“見せる”ことの怖さよりも、
“見られる”ことの喜びを、少しだけ理解した気がした。
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