第32話:その手を握る資格
ジジ……。
静かな医務室に、古びた蛍光灯がかすかに鳴る音だけが響いている。
ツン、と鼻をつく消毒液の匂い。真っ白なシーツの、冷たい肌触り。
私立星光学園の地下、その一角にある医務室は、任務で傷ついた学生たちが運び込まれる場所だった。
(……わからねえ)
閃は、ゆっくりと自分の右の手のひらを開いた。
さっきまでの、あの感触がこびりついている。
人の形をした何かが、自分の力によって、抵抗もできずに消滅していく、あの、嫌な感触。
(結局、俺は……また……人を、殺した)
だから、引き金を引いた。
だが、それは組織の「命令」を
(奴らが「悪」だったのか? 本当に? 俺たちが「正義」だから、殺してよかったのか?)
(クソ……。何も、わからねえよ……)
頭の中で、ぐちゃぐちゃになった思考が渦を巻く。
自分は、ただの便利な道具だ。組織の命令に従うだけの、人殺しのための「最高傑作」。
そう思おうとしても、胸の奥が、焼けつくように痛んだ。
「……閃くん?」
静かな声に、閃はハッと顔を上げた。
いつの間にか、
隣のベッドでは、先に運び込まれた樹が、麻酔で静かに眠らされている。
「……ああ」
「腕、見せて。手当、するから」
詩織は、閃のぶっきらぼうな返事を気にするでもなく、消毒液とガーゼを準備し始めた。
「……別に、いい。こんなもん、
「だめだよ。放っておいたら、バイ菌が入る」
詩織は、有無を言わせない静かな強さで、閃の腕を取った。
彼女の、小さくて、温かい指先が、閃の戦闘服の
その瞬間だった。
(やめろ……!)
閃は、反射的に腕を引いていた。
まるで、
違う。逆だ。
汚れているのは、俺のほうだ。
「……さわんな」
自分でも驚くほど、冷たく、低い声が出た。
詩織が、驚いたように目を見開く。
「……汚れるぞ。お前の手が」
絞り出した声は、震えていたかもしれない。
(こいつは、違うんだ。俺や、組織の闇とは、関係ない場所にいるべき人間だ)
(こんな、血の匂いが染みついた手を……こいつに、触れさせちゃいけない)
閃は、再び、自分の拳を強く握りしめた。
人を消した、この手。
もう、元には戻れない。
詩織は、そんな閃の姿を、ただじっと見つめていた。
その瞳は、傷ついた
彼女は、何も言わずに、閃が固く握りしめたその拳の上に、そっと自分の両手を重ねた。
「……っ」
閃の肩が、ビクリと震える。
想像していた温かさとは違う。どこか、ひんやりとした、清らかな水のような感触だった。
「汚れたりしないよ」
詩織は、穏やかに微笑んだ。
「もし汚れたって、私が洗い流してあげる」
その言葉は、閃のささくれだった心の奥深くに、静かに染み込んでいく。
「どんなに汚れても、閃くんがどれだけ傷ついても……。その手が、どれだけ血に濡れても」
詩織は、重ねた手に、少しだけ力を込めた。
「私が、全部、洗い流してあげるから」
(……洗い流す……?)
その、あり得ないはずの言葉に、閃の心のタガが、音を立てて外れそうになる。
張り詰めていた緊張。
自分を「化け物」だと「不良品」だと「人殺し」だと、そう思い込ませていた冷たい
(だめだ……。こんな、優しい言葉をかけられたら……)
(俺が、本当に、ただの人殺しの道具じゃなくなっちまう……)
閃は、詩織の手を振り払おうとした。
だが、できない。
彼女の、小さくて柔らかい両手から伝わってくる、清流のような不思議な感触が、閃の固く握った拳を、その奥にある
「……閃くん。力を、抜いて」
詩織は、
「手、開かないと。治療、できないよ」
その声に、
泥と、乾いた血と、そして、消し去ったはずの命の感触がこびりついた、汚れた手のひら。
それが、詩織の前にさらけ出される。
(……ああ。やっぱり、汚ねえ手だ)
閃が、
ズキン!!
(……っ!?)
体の内側、その奥深くで、何かが、また暴れ出そうとしていた。
丹沢の山荘で、スカイ・サーペントのメンバーを消滅させた時の、あの熱。
心の
(クソ……。またかよ……!)
体が、内側から焼けるように熱い。
呼吸が荒くなる。
彼の持つ零極滅消術の高い力は、自らの精神状態にひどく影響される。
迷い、怒り、恐怖。そういった負の感情が、力の暴走を引き起こすトリガーになることを、閃は知っていた。
(まずい……。ここで、また暴走したら……)
隣には、無防備に眠る樹がいる。
そして、目の前には、詩織が。
「……閃くん?」
詩織が、彼の異変に気づいた。
閃の顔から血の気が引き、額に脂汗が
「どこか、痛むの?」
「……さわる、な……」
閃は、最後の理性を振り絞って、声を出す。
「今、俺に……近づくな……!」
だが、詩織は引かなかった。
それどころか、彼女は、閃の熱く、震え始めたその手を、再び両手で、今度は強く握りしめた。
「大丈夫」
その声は、医務室の静寂に、
「大丈夫だから」
次の瞬間、閃は信じられない感覚に襲われた。
詩織の手が触れている部分から、氷のように冷たい、けれど痛みを伴わない、不思議な「何か」が流れ込んでくる。
それは、清らかな湧き水が、燃え盛る炎を
閃の体内で荒れ狂っていた熱いエネルギーが、その冷たい「何か」に触れた途端、急速に勢いを失っていく。
(……なんだ……これ……?)
熱が、引いていく。
荒ぶっていた力の
さっきまで頭を支配していた罪悪感や焦燥感が、薄い膜の向こう側に遠ざかっていくようだった。
詩織が握る手は、確かに温かいはずなのに、彼女から流れ込んでくる力は、どこまでも冷たく、清浄だった。
それは、零極滅消術の、どの型にも当てはまらない。
破壊でも、強化でも、防御でもない。
ただ、そこにあるものを「無」に、「中和」していくかのような、不思議な力。
やがて、嵐が過ぎ去ったように、閃の体から、暴走の兆候は完全に消え失せていた。
残ったのは、激しい疲労感と、そして、詩織の手に包まれた部分の、確かな温かさだけだった。
「……もう、大丈夫」
詩織は、ふわりと微笑んだ。
彼女の額にも、うっすらと汗が浮かんでいる。まるで、閃の熱を、彼女が代わりに引き受けてくれたかのようだった。
「……お前……今、何を……」
閃は、かすれた声で尋ねた。
(今のは、なんだ? ただの手当じゃない。あの、冷たくて、清らかな力は……。俺の、この化け物じみた力を、まるで赤子の手をひねるみたいに、簡単に……)
詩織は、閃の問いには答えなかった。
ただ、少し困ったように眉を下げて、ふわりと微笑む。
「何って……。だから、手当だよ?」
彼女はそう言うと、今度こそ、救急箱から取り出した消毒液を脱脂綿に浸した。
「はい、腕、もう一度ちゃんと見せて。染みるかもだけど、我慢してね」
「……っ」
詩織が、戦闘服の破れた隙間からのぞく擦り傷に、そっと脱脂綿を当てる。
ツン、とした消毒液の匂いと、ピリッとした鋭い痛み。
その、あまりにも「普通」の痛みが、閃を現実へと引き戻した。
(……違う。さっきのは、こんな痛みじゃなかった)
(もっと、根本的な……俺の存在そのものを、鎮めるような……)
混乱する閃の視線をよそに、詩織は黙々と、しかし、とても丁寧な手つきで治療を続けていく。
泥を拭い、傷口を清め、ガーゼを当て、器用に包帯を巻いていく。
彼女の指先が触れるたび、さっき感じたような不思議な力はもうない。
ただ、女の子の、柔らかくて温かい肌の感触だけが伝わってくる。
「……本当に、ひどい怪我。こんなになるまで、無理して」
詩織が、少しだけ、
その声は、さっきまでの激しい葛藤と罪悪感に
(……ああ。こいつは、こうやって、いつも……)
任務で傷つくたび、心が
彼女のこの献身的な優しさが、どれだけ自分を救ってくれていたことか。
(俺の手は、汚れた)
閃は、治療が終わった自分の手を見つめた。
白い包帯が巻かれ、さっきまでの泥や血の
(……けど。こいつが、洗い流すって、言った)
人を消した、あの感触は消えない。
罪悪感が、消えたわけじゃない。
だが、詩織が隣にいる。
彼女が、その汚れごと、自分を受け止めてくれる。
その事実が、鉛のように重かった閃の心を、ほんの少しだけ、軽くしてくれていた。
「……詩織」
「なあに?」
「……いや。……サンキュ」
それだけ言うのが、閃の精一杯だった。
詩織は、驚いたように少しだけ目を見開いた後、心の底から嬉しそうに、花が咲くように笑った。
「どういたしまして」
閃は、彼女の笑顔から、バツが悪そうに顔をそむけた。
彼はまだ、気づいていない。
さっき自分が体験した、あの不思議な「中和」の力が、詩織自身の持つ、もう一つの特殊な能力の
彼女もまた、この星光学園に集められた「才能」の一人であること。
そして、零極滅消術とは異なる系譜の、「癒し」と「鎮静」の力を持つ、極めて
ただ、今は。
この少女の存在そのものが、自分の荒れ狂う力を安定させる、唯一無二の「鍵」になり始めていること。
その予感だけが、確かな温もりとして、閃の胸の内に、静かに宿っていた。
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