第28話:癒しの手と、白檀の誘い

 鬼教官・霧島きりしまげんの圧倒的な暴力に、プライドも才能も、全てを粉砕されたせん。深い闇の中、どれくらいの時間が、経っただろうか。


 ……ピ、ピ、ピ……。

 電子音が、規則正しく響いている。

 鼻につくのは、消毒液の、清潔だが冷たい匂い。


(……医務室、か……)


 閃は、ゆっくりと目を開けた。

 体中が、ギシギシと痛む。まるで、鉄の板に全身を挟まれたかのようだ。

 重い体を無理やり起こそうとすると、隣から、静かな声が聞こえた。


「……動いちゃダメ。まだ、安静にしてないと」


 声のした方を見ると、水瀬みなせ詩織しおりが、心配そうな顔で、ベッドの脇に座っていた。

 彼女の手には、冷たい水で絞ったタオルが握られている。


「……詩織……。なんで、お前が……」

風間かざまくんから連絡があったの。『閃くんが、鬼教官に地獄のシゴキを受けてるみたいだ』って」


 詩織は、そう言うと、そっとタオルを閃の額に乗せた。

 ひんやりとした感触が、燃えるように熱い頭に、心地よかった。


「……ひどい顔。あちこち、アザだらけ」

 詩織は、閃の腕や頬にできた、生々しい打撲痕だぼくこんを、痛ましそうに見つめている。

 その指が、そっと、閃の頬のアザに触れた。


(……あったけえ……)


 霧島の、全てを破壊するような暴力的な感触とは、まったく違う。

 優しくて、柔らかくて、まるで、心の傷まで癒やしてくれるような、不思議な感触。


 その時、閃の脳裏に、ふと、池袋での光景がよぎった。

 たちばな陽菜ひなの、まっすぐな瞳。

『あんたのやったことは、間違ってなんかないよ』

 あの言葉。風間結翔ゆいとの、全てを包み込むような、優しい言葉。

『君のその優しさは、価値のあるものだ』


(……あの時、俺は……)


 無意識に。ほんの一瞬。

 あの二人の言葉に、心が揺れていた。

 東雲しののめに否定された自分の行動を、肯定してくれた。それが、嬉しかった。

 特に、橘の、あの、まっすぐな……。


(……いや)


 閃は、目の前の詩織を見た。

 彼女は、何も言わない。

 閃の行動を、肯定も、否定もしない。

 ただ、こうして、ボロボロになった自分のそばにいて、黙って、その痛みを和らげようとしてくれている。


(……こっちだ)


 言葉じゃない。理屈じゃない。

 橘の言葉は、確かに温かかった。だが、今、自分が本当に求めているのは、この、何も言わずにそばにいてくれる、この温もりだ。

 閃は、無意識のうちに、そう、気がついていた。


「……悪ぃ。……心配、かけた」

 閃が、かろうじてそれだけを口にすると、詩織は、ふわりと、優しく微笑んだ。

「……ううん。おかえりなさい、閃くん」


 その笑顔が、霧島によって叩き潰された閃の心を、ゆっくりと、だが確実に、溶かしていくのだった。


 詩織しおりが医務室を出ていくと、部屋には再び、電子音だけが響く静寂が戻ってきた。

 額に乗せられたタオルの冷たさだけが、現実感を伝えてくる。


(……詩織……)


 せんは、目を閉じた。

 まぶたの裏によぎるのは、霧島きりしまの鬼のような形相と、詩織の、全てを許すような優しい笑顔。

 叩き潰された痛みと、癒やされた温もり。

 その、あまりにも極端な二つの感覚が、閃の頭を混乱させる。


(俺は、弱い。……霧島の言う通りだ)


 才能に溺れた、ただのガキ。

 詩織一人、守れやしない。

 その無力感が、鉛のように、再び閃の心を沈ませていく。


 その時だった。

 コン、コン。

 静かで、遠慮がちなノックの音が響いた。


「……あ?」


 詩織が戻ってきたのか? いや、彼女のノックは、もっとリズミカルだ。

 閃が返事をする前に、ドアが、ゆっくりと開いた。


「……失礼するよ」


 入ってきたのは、閃のまったく知らない、一人の老人だった。

 歳の頃は、六十代だろうか。品の良い、灰色の着物を着こなしている。背中は少し丸まっているが、そのたたずまいには、不思議な落ち着きがあった。

 何より印象的なのは、その顔に浮かんだ人懐っこい笑みだった。


「……誰だ、あんた」


 閃は、警戒を隠さずに、低い声で尋ねた。

 医務室とはいえ、ここは財団の重要施設だ。見知らぬ人間が、ふらりと入ってこられる場所ではない。


「やあ、やあ。神原閃くん、だね? これは、ひどい怪我だ」

 老人は、まったく悪びれる様子もなく、閃のベッドのそばに置かれていたパイプ椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。


「私は、やなぎ龍巳たつみという者だ。……財団の評議員を、務めさせてもらっているよ」

「……評議員?」


 閃は、眉をひそめた。

(なんだそりゃ。理事会とか、そういうのの仲間か? ……知らねえな)

 閃にとって、財団の上層部とは、養父である神原かんばらまもるただ一人。それ以外の、理事会だの評議員会だのといった組織には、何の興味もなかった。


「無理もない。君たち学生には、私たちのような年寄りは、縁のない存在だろうからな」

 柳は、まるで閃の心を読んだかのように、優しい笑みを浮かべた。

 その、どこまでも人当たりの良い態度に、閃は、逆にどう反応していいか戸惑う。


「……で、その評議員が、俺に何の用だよ」

「いや、なに。霧島くんが、また、有望な若者を叩き折ってしまったと聞いてね。……まったく、あいつは手加減というものを知らん。昔から、本当に不器用な男でな。私からも謝らせておくれ。すまなかったね」


 その言葉は、閃にとって、まったく予想外のものだった。

 霧島の「上司」にあたるような人間が、自分に頭を下げてきた。

 閃が、驚いて黙り込んでいると、柳は、さらに言葉を続けた。


「……池袋での一件も、聞いたよ」

「……!」

「霧島くんや、東雲くんは、君を『プロ失格だ』とでも言ったかな? 守るべき市民を危険にさらし、私情で任務をけがした、と」


 その言葉が、再び閃の心の傷に触れる。

 だが、柳は、悲しそうな顔で、ゆっくりと首を振った。


「……しかし、私はそうは思わないよ」

「……は?」

「守りたいもののために、危険をかえりみず、我が身を捨てて飛び込める。……その熱い心こそが、本当の『強さ』の源泉なんじゃないかね?」


 閃は、息をのんだ。

 たちばなや、風間かざまが、自分にかけてくれた言葉。

 だが、それを、この財団の上層部の人間だという老人が、口にしている。


(こいつ……何が言いてえんだ……?)


 養父の護は、閃を「道具」「最高傑作」としか見ない。

 霧島は、閃を「兵士」としてしか扱わない。

 東雲しののめは、閃を「素人」だと切り捨てた。

 この組織の「大人」たちは、誰もが、閃の感情を「邪魔なもの」として否定してきた。

 なのに、目の前のこの老人は。


「護くんも、霧島くんも、少しばかり考え方が古いようだね」

 柳は、閃の目を、まっすぐに見つめた。その細められた瞳の奥に、一瞬、測り知れないほどの深い光が宿ったのを、閃は見逃した。


「これからの時代を、これからの財団を支えるのは、君たちのような、新しい力、新しい心を持った若者たちだ。……私は、そう信じてるよ」

「……」

「私はね、閃くん。いつでも、君の味方だ。理事会や評議員会がどうあろうと、私個人は、君のその『熱さ』を、全力で守るつもりだよ」


 柳は、そう言うと、満足そうにうなずき、ゆっくりと立ち上がった。


「おっと、いかんいかん。怪我人に、長話はこくだったな。……まあ、そういうわけだよ。ゆっくり、休んでくれたえ」


 柳は、最初と変わらない、人の良さそうな笑みを閃に向けると、静かな足取りで医務室を去っていった。


 パタン。

 扉が閉まり、再び静寂が訪れる。


(……やなぎ龍巳たつみ……)


 閃は、老人が残していった言葉を、頭の中で繰り返していた。

 消毒液の匂いの中に、かすかに、老人が残していった、高級な白檀びゃくだんのような、落ち着いた香りが混じっている気がした。


(……変なジイさんだ。……けど……)


 養父からも、師範からも、与えられたことのない、「無条件の肯定」。

 それが、霧島によってズタズタに引き裂かれた閃の心に、深く、静かに、染み込んでいく。


 閃はまだ、知らなかった。

 その、人懐っこい笑みの裏に隠された、底知れぬ闇の深さを。

 そして、自らが、財団という巨大な組織の、権力抗争の渦の中心へと、今まさに、引きずり込まれようとしていることを。

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