沈澱
鹽夜亮
沈澱
人間は、人間に沈む。柔らかい褥に呑み込まれるように、存在ごと、沈下する。それは緩やかに、底なし沼に引き込まれるかのように、体温で溶解することをお互いに繰り返しながら、深く深く堕ちていく。…
ホテルの空調が、ごうごうと音を立てている。間接照明が揺らめく炎のように彼女の影を映している。からん、とテーブルの上に置きっぱなしのコップから氷の音がした。飲みかけのウイスキーは、もう役割を終えた。その芳醇な匂いも、香水の匂いに押し込められて黙っている。
ゆらゆらと揺れながら、彼女はベッドの上で私に近づく。シーツが柔らかく、しっとりとした質感を肌に伝えてくる。清潔。清潔な白。それはここには似つかわしくない、そう思った。
「深く求めることは罪?」
首に腕を絡める彼女の言葉に、アルコールの臭気が混ざっている。溶けたロックアイスを思った。瞳を合わせると、蕩けた瞳孔が黒く鈍く輝いている。それは溶けた鉛のように、この部屋の空間全体ををねばつかせている。甘い、甘いバニラの香り。彼女のどこから香るともしれないそれに、女を感じる。漏れる吐息。その甘さに解けていくように、溶けていくように、綻んでいく理性の花束。顔を出す紅い薔薇は、きっと猛毒には違いない。
「いいや、それが人間だろう」
その答えを聞いてニヤリと歪んだ唇に唇を重ねる。リップグロスの艶やかな感触と張り、艶かしい粘膜の感触。互いに侵食を繰り返し、統合される存在の混淆に、酩酊を覚える。絡まる舌、味蕾を擦り付けて、あるはずのない甘さに脳が麻痺していく。人間の粘膜など、美味しいはずがない。だが、このホテルの一室の中では何もかも曲解されて、どろどろに溶けてしまう。欲動の力はどこまでも二人を突き動かして止まない。
肩にかけられただけの、はだけたシャツを脱いで、彼女はゆっくりを私を押し倒した。清潔なシーツからぼすっと音がする。彼女の顔は楽しそうに、獲物を見つけた狩人のように、歪んでいる。影の中で色濃く映えるのは血の滲むような、捕食者の蕩けた瞳。そこに私が映っている。私の瞳も、蕩けているのだろうか。その答えを知りたくて、食い入るように見つめ返した。
彼女が蛇のようにゆっくりと蠢くたびに、私の体に紅い印が増えていく。紅い口紅の痕。その印は深くない。シャワーを浴びて仕舞えば、消えてしまう。もどかしく、むず痒い快楽に身を捩る。突かれた嗜虐心が、彼女の首筋に吸い込まれる。はっきり見える頸動脈の脈動、そのうちにある赤黒い血、それを思って、私は自分の瞳が蕩けていくことを察した。
キスを落とす。あぁ、そんな言葉では生温い。もっと血生臭い、もっと人間的で、もっと動物的で。適温に保たれた温室の中で、絡み合うことだけを許された獣たちのような、その戯れ。バニラの甘さが撹拌される。空調の音が、脳から消えていく。ウイスキーの齎した酔いなのか、それとも快楽への欲動の奔流なのか、没我の理由がわからなくなる。
BGMもムードもない。まるでここは、檻だ。完璧に整えられた檻、逃げることも逃すこともない、お互いを縛りつけた檻の中。泥のように崩れていく脳髄を感じながら、身体は勝手に蠢いている。
「ねぇ、もっと刻みつけなよ」
「…ふふ、そういうの好きだよね」
首筋に立てられた八重歯に、肌が一瞬硬直する。押しつぶされた毛細血管が、微かな鬱血を残す。破られた皮膚からは血が滲む。ゆっくり味わうような残虐な、ぬたりとした咀嚼は、止むことなく続く。それは首に、腕に、胸に。シャワーでは落とせない刻印を落としていく。
今、彼女が何を考えているかなど、わからない。私が何を考えているかもわからない。全て溶けて、何もかも失くなってしまう。痛覚と快楽が、相容れないはずのそれが交錯する。溺れる。紅い水の中で溺死する自分が、彼女の背中越しに見えた気がした。
傷をつけられた、その憎悪。愛情。相対する、裏と表のどろどろとした熱量が、湿度を帯びて思考を覆い尽くす。応じるように彼女の腕に爪を立てた。ぴくり、とした体の痙攣反射と、悪戯な笑みが、間接照明の下で不気味に浮かんでいる。揺らぐ笑みの真意は誰も知らない。それに、私も笑みを返した。その真意は、私も知らない。
「危険だね」
「嫌か?」
「答えを知ってる問いをするのは、馬鹿のすること」
沈黙を作り出す唇から、血の味が沁みる。お互いの血を飲むことで一つになれたなら、どれほど簡単な話だろう。傷をつけて、繋がって、求め合っても永遠に二つの影法師。虚しい二つを、間接照明だけがぼんやりと照らしている。
彼女の唇に歯を立てる。じんわりと血が滲む。それを舌に乗せて、絡めて呑み込む。何もかもを欲してしまうのは、強欲に他ならない。
あぁ、もしそれを罪と言うのなら。いくらでも私を罰してくれればいい。首を絞めて、頸動脈を噛み切って、肉に爪を立てて、私を罰してくれればいい。刻みついた傷を、流れ出た血を、貴女が愛してくれるのなら、それで構わないのだから。夢のような揺蕩いの中で、熱病のようなこの、蕩けた脳のまま消えてゆけたなら、私は赦されるのだろうか。
上気せるように部屋の温度が上がっていく。ねばつく湿度に、甘い香りが絡んでいる。その奥にある生々しい人間の匂いも、血の香りも、全てが私の脳を蝕んで殺していく。蕩ける瞳孔、揺らぐ影。次第に加速する、その焦燥に、たまらない愛おしさを覚える。加熱する、欲動がマグマのような熱を帯びて、表出する。身体は本能の依代になる。理性も自我も溶け落ちたこの暗闇で、肉は欲動にだけ支配される。彼女の首を愛撫するように指を這わせる。この思いが決して悟られないように、優しく、優しく。
このまま抱き殺して仕舞えたのなら、貴女の全ては私のものになるのだろうか。…
夢は夢のまま消える。それを知っている。首に添えた手を下ろし、柔らかな胸に触れる。しっとりとした汗、吸い付くような肌。これほど美しい肉体が、何故これほどに堕ちることができるのだろう。私の肉体は、美しいのだろうか。私も彼女も、同じように堕ちているというのなら、そうであってほしいと願う。
私たちは結局、この間接照明に照らされる、二つの影法師だ。影が重なっても、一つになることなどない。人は一つにはなれない。どれだけ溶けても、いつまでも孤独のままだ。簡単な思考さえ、混ざることはない。何もかもは掴めない煙草の煙のように、一瞬絡まり合ってはどこかに消えていく。刹那に過ぎ去る交接を繰り返して、また離れて、また近づいて。飽きることもなく、満ち足りることもない。それは融合なんて言葉では言い表せない。
この地獄を、何と呼ぼう。この快楽を、何と呼ぼう。蕩けた瞳、柔い肌、熱を帯びた肉、湿った身体。決して混ざり合わずに、交じり合う個体と個体。支配される、支配する、刹那に切り替わる攻防。欲動にのみ突き動かされた、穢れたこの思い。意思もなく動き続ける身体。
あぁ、そうだ。これは。
捕食、だ。
柔らかい肉に、呑まれる。匂いそのものに呑み込まれる。紅い空気が、私を呑み込む。柔らかに艶やかに、どこまでも沈むビロードのように滑らかに。沈み込む指は、彼女の肌に食い込んで仕舞えば、離れることはできない。それに幸福を覚える。震えるほどに、私という存在は悦びを感じる。苦痛と快楽の境界はもはやどこにもない。背中に食い込む彼女の爪が、私の皮膚を引き裂く。そこからつーっと垂れる血の温かさを感じる。それすら愛おしい。そう思わずには、いられない。
存在を呑まれることは、死に限りなく近い。肉体の死より、余程容易で、誰にでも許されている死。それは甘美に、私の目の前で香っている。捕食者を具現化したように、私を呑み込んで、私に呑み込まれる彼女は、肢体をくねらせながら今は私に組み敷かれている。支配者と被支配者は、常に一定ではない。ウロボロスの円環のように、絶えず巡りながら、尾を噛み千切り続ける。
加速する運動の中で、時間が止まっている。私と彼女以外の全てが沈黙して、何もかもが失われたかのように、溶け落ちている。身体だけが勝手に蠢き続ける。『お互いの境目がわからなくなるまで』そんな美辞麗句を脳の裏側で言い訳にしながら。ここのどこに美しさなどある?どこを見ても、体液と血に塗れた、欲望の坩堝だ。そう嘲笑う自我を殺して、熱された身体は動き続ける。
だが、終わりは必ず訪れる。やがて必ず火は消える。荒い息を重ねながら、それを感じる。音が消えていく。匂いが強くなる。人の、血の、粘膜の、汗の匂いが。人間の生きている匂いが濃くなる。それがたまらなく、私の中の死を引き寄せる。相反している、それをわかりながら、理性は何の役にも立たない。
果てることは、生の中にある死だ。緊張と弛緩は人の快楽を支配する。痙攣と共に、脳が消え失せる錯覚を覚える。思考が消える、存在が消える、この瞬間だけ、彼女と一つになったかのように錯覚する。…
永遠にも感じられる数秒の後。途端に鼓膜に秒針の音が刺さる。色の消えた視界に、少しずつ色彩が戻ってくる。組み敷いた彼女の胸に身体を倒して、呼吸する。鼓動が共鳴する。お互いの鼓動が、初めて聞こえたような気がした。全身の筋肉が弛緩し、解放される。欲動は肉体を手放し、用済みとばかりに無意識の底に帰っていく。慌ただしく戻って来た理性と自我が、自らを嘲笑っている。
「一つになれた?」
「あぁ、きっと」
息を整えながら、唇を重ねる。その優しさに驚きを覚える。捕食者は、いつでも優しい顔をしている。獲物を食べる、その瞬間まで。
『ねぇ、全部食べてよ。
私は貴女を全部食べ尽くすから』
口にすることのできない言葉を噛み砕きながら、優しい唇にゆっくり、牙を立てた。これ以上何も望めないのなら。これ以上人は一つになどなれないのなら。そんなわかりきったことを問うてしまうほど、君も私も堕ちてしまったというのなら。
せめて血の味を、君の味を、もっとくれ。…
沈澱 鹽夜亮 @yuu1201
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