第三十一話 ハンニバル
日は流れ、四月三十日。
皇位選の立候補締切まで、残された猶予は十日となっていた。
しかし、ウーデルバッハは依然として皇位選出馬の意志を公にしていない。
それを知る者は、執事バルトランド、アレス中将、ヴィクター大尉、そしてルリ少尉の四名のみである。
理由はヴィクターが口止めしているからだ。
ぎりぎりまで出馬の意志を伏せ、まずは静かに、確実に、力を集めることを優先するべきだと進言したのである。
ウーデルバッハが立つ――その報せは、必ずセドリー派を動かす。
彼らにとって脅威と映らずとも、英雄アレスが推薦人となれば、ただの噂話では済まない。必ず揺らぎが生じる。
ゆえに、まずは備えねばならない。軍勢を、支持者を、戦う覚悟を。
今、ヴィクターらが奔走しているのはそのためである。
――ウーデルバッハとの会談を終えた後。
「ヴィクター。貴官の言う通り、出馬の表明はぎりぎりで構わぬ。だが……武力を整えると言っても、アレス中将に並ぶ武を持つ者など、帝都にそういるものではないだろう」
ウーデルバッハは紅茶を口に運びながら、左手に座るヴィクターへ視線を向ける。
「帝都ではありませんが――一人、あてが」
「誰だ?」
ウーデルバッハの手が、静かに止まった。
「ハンニバル・フォルス・グラドマール准将です」
その名を聞いて、アレスは頭を抱えた。同じくバルトランドも下を向いてしまう。
二人の様子を見てウーデルバッハは首を傾げたが。
「本気か?ヴィクター大尉?」
「ええ、中将」
アレスは少し考えたのち、大きくため息を吐いた。
「なんだ、それほどの人物なのか?」
ウーデルバッハの疑問に隣からバルトランドが反応した。
「殿下はまだ小さかったので、覚えていないかもしれませんが、叔父です。ハンニバルは、あなたの」
「叔父だと?しかしーー」
「ええ、リーゲルシュタナー性ではございません。殿下の母、第四皇妃がグラドマール家出身。第四王妃の実の兄がハンニバルなのです」
ライゼンベルフに見初められ、名家リーゲルシュタナーに養子という形で迎えられ、その後、皇帝の皇妃となったのか。
そのように回りくどいことをしたのは、グラドマール家が辺境の地の貴族であるからであろう。上級貴族らの体裁を気にしてのこと。
貴族は常に揚げ足をとってくるから。
ウーデルバッハはあまり、母とは口を聞かないため、その事実は初耳だった。
いや、母から口を閉ざしているのだ。
「そうか。なら手伝ってくれそうではないか。グラドマールの血も私に入っているし」
「殿下、そう簡単にはいきますまい」
「何故だ?」
「ハンニバルは、素行に少々問題を抱えておるのです。荒々しく、猛々しい男だと」
ウーデルバッハの想像では武人そのものに思えた。
「奴は戦好きなのです。戦を楽しむためなら自分の命すら惜しまない男なのですよ。それゆえ部下にも無理を強いる。そして奴は三年前から遠い南方の任地で長い休暇中です」
「それなのに・・・」
アレスは視線をヴィクターに向けてくる。当然、睨みに近かった。
「わかってますよ、危険なのは。しかし、これから皇位選を戦っていく上で、彼の力は必ず必要になる。宝剣使いのハンニバルの力は!」
ハンニバルには異名があった。
彼が持つ矛は『宝剣』と呼ばれている。
地層深くにある『地銀岩』という岩を刃に使用している、これは光に当たると虹色に光る岩だ。まるで宝石のように輝く。
それ故、宝剣使い。
「俺が、説得しますよ。そしたら文句ないでしょう?」
「はぁ――分かったが、くれぐれも気を付けろよ?」
そうしてヴィクターはアナスタシアを伴って、南方の海岸地帯まで来ていた。
長い休暇といえど、労うためのものでなく、先の戦で起こした命令違反の事実上処罰待ちと言ったところだ。
海岸にはハンニバルの部下たちが女と共にはしゃいでいる。
ハンニバルの元に残っているのは戦好きの、荒くれ者ばかりだ。
海上にある木造の建築物まで、橋を渡っていくが。
「誰だ?あの軍人」
「とうとう、うちの隊長も終わりか?」
「うひょー!後ろにいる銀髪のねぇちゃんイカしてるじゃん!」
バカにするような目つきで、二人のことを見ている。どうやら、ヴィクターたちを帝都から派遣された役人だと思っているらしい。
彼らが遊んでいる様子を見て、アナスタシアが。
「私も遊びたい、ヴィクター」
「あとでな。こっちの用事を済ませてからだ」
アナスタシアの腕を引っ張って、歩いていく。
ラブ・リゾートと書かれた看板の中に足を踏み入れると、大きな男の背に三名の女がマッサージをしていた。
男のサイズは大きく、2メートルはある巨大だった。
「それで、テメェらは何者だよ」
「気付いていたのですね」
「当然だ。お前たちが南方の地を踏んだ時から知ってたぜ。何者だ?」
ヴィクターの方には顔を向けず、ただマッサージを受け続ける。
ヴィクターはその場に座り、何も言わない。
「あ?なんのつもりだ?てめぇ?」
「ふぅー、そっちこそ、その態度で話を聞くつもりでしょうか?俺はアレス中将の代理で此処に来ている。その態度を改められよ」
ここはあえて挑発し、相手の出方を観察する。
その挑発に乗るように、ハンニバルは身体を持ち上げ、女どもを下ろした。
そして、対面に座るようにベッドに腰を下ろす。
「それで、何の用だよ、将校風情が」
短髪で、目元にかけての切り傷が目立つ。
灰色みがかった髪色に、筋骨隆々と言ったところか。おそらくデンケンハルトよりも、大きい。
「俺はアレス中将配下のヴィクター・アドラー大尉。本日はハンニバル准将に、お願いに参りました」
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