第二十八話 信じがたき現実
あの男との邂逅から眠れない日々が続いていた。
ヴィクター・アドラー・・・平民出身の将校。それまで名前すら聞いたことが無かったが、アレス中将の右腕として頭角を現してからよく名前を聞くようになった。
実際のところはバルトランドを介してだが。
どうもアレス中将の側近の裏切りを暴いたとか。
確かに、あの男の気配は他の軍人とは違った。いつもなら頭を下げたり、こちらが心地の良い言葉を吐くのが常だ。
それなのに、奴は『クソ』だと言った。皇族の目の前で。
あの行いを咎めるものが多かったのは事実だ。軍人を辞するべきや、首をはねるべきとの声も上がっていた。
セドリー兄さんの一声でどうにか茶会の騒動は収まったが、兄も思うところがあったはずだ。
ウーデルバッハはベッドで横になりながら、天井の暗い電球を見つめている。
ヴィクターが放った言葉。
壊す覚悟――か。
彼は綺麗言だと言い放った。甘いとも。
だが、父も変わろうとしている。それを信じることは出来ないものだろうか。
平民と貴族の溝は深くなるばかりだ。
早朝――。
いつもならバルトランドが起こしに来て、起きるはずだったがウーデルバッハはゆっくりと起き上がった。
二度寝でもしてバルトランドの到着を待とうとしたが、体の異変に気付く。
「汗・・・?」
ウーデルバッハは自分でも驚くほど汗をかいていた。
夢を見た覚えはない、しかし、この尋常ない汗は。
テーブルに置いてある水差しを手に取ろうと、ベッドから降りると。廊下からドタドタと足早に寝室に向かってくる音が。
そのものはノックもせず、勢いよく扉を開ける。
「騒がしいぞ。バルトランド」
老執事のバルトランドだった。ただいつもように落ち着いた風貌では無く、血相を欠いた様子。
執事は言葉を詰まらせながら正確に伝えることを言った。
「ウーデルバッハ様。お、落ち着いて、聞いてくだされ。陛下が・・・皇帝陛下・・・ライゼンベルフ様が――!」
その後の言葉を聞いた瞬間、思わず寝間着姿で飛び出した。
素足で冷たい石階段を上っていく。
――そんなはずはない!そんなはずはない!
その言葉が脳内で何度も繰り返される。涙を堪え、階段を上っていく。
いつもはこれほど遠くないはずなのに、今日はやけに遠くに感じる。
大丈夫なんだ!大丈夫、大丈夫――。
ウーデルバッハが足を踏み入れたのは玉座の間であった。そこにはすでに皇族の面々が集まってきており、玉座へ続く絨毯の中央へ集まっていた。
アイゼルも、デルボルフも。
側近の貴族らも集まっているため、それを押しのけて視線が集中している中心へ向かっていく。
皆、悲壮な表情を浮かべ、涙を流していた。
そんなはず、はなかった。
いや、あるわけなかったのだ。
「父上ぇぇぇーーー!一体何故!どうしてこのようなことに!」
セドリーがその場に倒れている人物の手を握って泣き叫んでいる。
倒れている男から血が、大量の血が流れていた。
肩から腰に掛けての切り傷で、傷は相当深い。
これは夢だろうと、必死に思うが。絨毯の毛糸の感触が素足に伝わってくる。リアルな夢、そう思いたいのに。
いつものように笑ってくれると思っていたのに。
バルトランドの言葉だけでは信用できなかったが、今改めて理解した。
先代皇帝、ライゼンベルフ・フォン・ハイリンツィは死んだのだ。
「セドリー殿下、こんな冷たい場所に置いては可哀想です。一回離れてくだされ」
アイゼル皇女の側近、ライゼンベルフの兄弟のライゼンバッハが涙を殺しながらセドリーを遺体から引き剥がそうとする。
「やめろ!俺は父上の側に居るのだ!父上の――!誰がこんなことを!まさか、貴様らか!アイゼル!デルボルフ!」
引き剥がされたセドリーは他の候補者の二人に疑いの視線を向けた。
彼は、明らかに動揺して、周りが見えなくなっている。
「父を殺して皇位を簒奪しようと企んだか!」
玉座の間に響くほどの声量で怒声を浴びせた。しかし、二人には勿論身に覚えがなく、反論する。
「はぁ?何言っているの!そんなことあり得るはずないでしょ!父上を殺しても皇位は貰えないのに!」
当然正論だった。
皇位は皇位選のみで選出される。皇帝を殺せば貰えるなど誰も思っていない。
それにアイゼルはすでに涙で目元が腫れていた。
殺すようには見えなかった。
しかし――。
「あわよくば貰えると思ったのではないか?そこのライゼンバッハと共謀し!父を殺して、皇位を奪おうとしたのではないか!?」
「本当に意味がわからない!あなた自分で何言っているのかわかっているのかしら!」
彼女の言葉通り、セドリ-は支離滅裂の言葉を吐き、アイゼル皇女が企んだものだと言い張っている。
「もう、いい加減してよ!今はこんなことしてる場合じゃないでしょ!早く、父上を綺麗な場所に移してあげたいの!あんたも黙ってないで何か言ってよ!デルボルフ!」
「・・・・・」
デルボルフはセドリーに怯えて、何も言えなかった。
アイゼルは髪を掻いて苛立ちを表に出した。着飾ってきた彼女だったがセドリーのことで怒りが頂点に達したようだ。
ウーデルバッハもその様子を見ていたが、日差しの光が差し込んでちょうど、セドリーの指に掛かったとき。
ピカッと光ったのだ。
「・・・・・っ!」
ウーデルバッハは言葉で言う前にセドリーを殴っていた。
兄弟喧嘩などしたことが無かった二人。ウーデルバッハも人を殴ったことが無かった。それなのに、少年の拳がセドリーの頬を直撃していた。
「ウーデルバッハ様!」
執事のバルトランドが驚いて、止めに入ろうとする。
「どういうことだ!セドリー兄さん!なんで!なんで!なんで!どうして兄さんが、『
兄の右手の薬指にはめられていたのは父がつけていた
一度見たから覚えている。黄金に輝く指輪だ。
見間違えるはずはなかった。
「答えろ!セドリー!」
次に左拳で彼の頬を殴った。一三歳であるが力は備わっており、かなり痛いだろう。
セドリーは驚きと動揺で言葉を発せずにいる。
「貴様がぁ!父上を――!」
「ウーデルバッハ様!おやめを!」
バルトランドが羽交い締めにし、セドリーから引き剥がす。未だ暴れるウーデルバッハを執事は自室へと連れて行った。
セドリーの鋭い視線がその背を見つめている。
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