第十八話 蠢く帝国
「まさか、ここを離れる日が来るとはな」
白い息を吐きながら、アレスは要塞の屋上に立っていた。
「ええ。しかし改修が完了次第、閣下が入る予定ですから……」
側に控えるヴィクターが、手のひらを包むようにして息を吹きかける。
ディーゼル逮捕とデンケンハルトの死から、すでに半年が経っていた。
帝国には冬が訪れ、肌寒い風が頬を掠めていく。
バラモンド要塞は、王国への備えとして改修が進められている。
いかに鉄壁の城といえど、老朽化は避けられない。
冬季は王国軍も動かぬゆえ、今こそが最適の時期なのだ。
ヴィクターらは一度、帝都へ帰還し、休暇という形を取ることになった。
その出発の日、アレスは長年過ごしたこの要塞の景色を、もう一度目に焼きつけようと屋上に上がっている。
「帝都に戻ったら、お前も少しは羽を伸ばせ。長い間、往復続きだったろう」
「まあ、正直なところ――帝都より、バラモンドの方が空気も眺めもいいですが」
「はっはっは、それを言うな。確かに、あちらの空はいつも淀んでいるからな」
アレスは空へ向けて笑い声を放った。
その笑みは、風に溶けて消えていく。
「……お互い、のんびり休暇を楽しめることを祈ろう」
二日後。帝都――貴族院・会議室。
帝都には参謀本部、王宮、軍務省といった要所がひしめいているが、その中でも貴族院だけは異質だった。
ここは聖域。
どれほど勲功を上げた軍人であっても、貴族の血を持たぬ者は門前払いだ。
国家の方針を決める場とされているが、平民が知るのはすべて「決定のあと」。
ゆえに人々は皮肉を込めて、こう呼ぶ。――貴族会議と。
「本日ははるばるお越しいただき、感謝申し上げます。皇太子殿下」
「なんとお美しいお顔立ち……」
「まるで天の御子のようですわ」
煌びやかな服を纏って、有力貴族たちが皇帝の血を引く若き男に群がる。
笑みは柔らかいが、目は冷たく値踏みしているようだ。
誰もが同じことを考えている――この男は、次の皇帝たり得るか。
皇帝は多くの愛妾を持ち、子を産ませる。
皇帝が隠居する時、その皇太子の中から次の皇帝が選ばれる。
これを皇位選(こういせん)と言うのだ。
だが、その行方を決めるのは血筋でも功績でもない。
――どの貴族が、どの皇子をバックアップするかがすべてだ。有力貴族の支持があれば、軍も財も動かせる。
もちろん、単なる人気投票ではない。貴族に利がなければ、その皇太子を支援せず、結果として皇帝にもなれないのだ。
縦長の円盤状に広がる机――その中央に座るのが、
第六皇子、『ウーデルバッハ・リーゲルシュタナー』である。
齢十三にして、この会議に巻き込まれていた。
青みがかった髪、整った顔立ち、透き通る水色の瞳――その美しさは目を引く。
後方にはお世話係の執事が一人、控えていた。
貴族たちがぞろぞろと集まり、最後に金髪の好青年がウーデルバッハの対面に着座する。
議会は、いよいよ始まろうとしていた。
「では、最初の議題に――」
「ちょっと待ってもらおう」
進行係が口を開く前に、金髪の男が会議を止めた。
「先に皇帝陛下から言伝を預かってきた。話してもよいか?」
皇帝陛下の名に、会場は静まり返った。
「では。まず陛下は、皇位をお譲りになることを先ほど決定された。よって皇位選を行うことが決まった。時期は次の夏場、八月十五日からを予定しているとのこと。方々、よろしいか?」
貴族たちは口を開かず、頭を下げるのみ。
ウーデルバッハも流れに沿い、静かに頭を下げた。
「よし。では会議を続けよう。腰を折ってしまい申し訳ない」
金髪の男の言葉に、会議は再び動き出した。
1時間後。
会議を終えた貴族たちは、続々と帰宅していく。
しかし、金髪の男の周りには、まだ多くの貴族が集まり話し込んでいた。
ウーデルバッハも腰を上げ、会議室から出ようとする。
「ウーデルバッハ!」
貴族たちの間を縫うようにして、金髪の男が声を掛けてきた。
「セドリー兄さん」
「すまないな。わざわざ、こんな会議に呼び寄せて。親父がうるさくてな。そろそろ、お前にも大人の勉強をさせろって」
セドリーは頭を掻きながら、謝った。
『セドリー・オライオン』は第一皇子。ウーデルバッハより十四歳年上で、すでに政に口を出せるほどの権力を持っている。次期皇帝にセドリーを推す者も少なくない。
貴族たちも、皇位選で彼が勝つだろうと予想し、今のうちに媚びを売っておこうとしているのだろう。
「皇位選の件は、気にするな。俺と他の兄弟で争うことになるだろうからな」
気にするなとはつまり、皇位選には参加するな、という意味だ。
皇位選は皇位継承権を持つ者なら誰でも立候補できる。若い者が立候補しても構わない。
ウーデルバッハは、元から参加するつもりはなかった。
「おっと、そろそろ会食がある。ではな、また話そう、ウーデルバッハ」
そう言うと、セドリーは貴族たちを連れて会議室を後にした。
残ったのは少年と、その執事だけだった。
「いくら兄君とはいえ、ウーデルバッハ様に失礼ではありませんか」
「その辺にしておけ、爺。兄も悪気はない」
執事は、主が蔑ろにされたことに我慢ならなかった。
「しかし、皇位選とは……来年の夏は荒れるぞ」
血の匂いが、風を纏って帝国に忍び寄っていた。
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