第13話 再会

パソコンのモニターの光が、夜更けのオフィスに淡く反射していた。

 深夜零時をまわっても、メールの受信音が途切れる気配はない。

 私は、机に散らばる資料を一枚ずつ揃えながら、深く息を吐いた。


 広告代理店のチーフプランナーとして働くようになって八年。

 いつの間にか、若手の提案をまとめ、後輩に助言を与える立場になった。

 夢だった“ものづくりの現場”に立っていることは、誇らしい。

 だけど、時々、心のどこかが静かに冷えているのを感じる。

 何かを失くしたまま、仕事だけを積み重ねてきた十年。


 ふと、スケジュール表に視線を落とす。

 翌日の欄に記された文字を見て、指先が止まった。


 ――「東邦トレーディング プレゼンテーション」。


 その一行が、胸の奥で音を立てた。

 懐かしい名前が担当者名にあった。

 何度も見直しても、そこには確かに“担当相沢翔真”の文字があった。


 まさか、とは思った。

 けれど、この業界は広い。大手商社の担当者に、偶然同じ名前の人がいてもおかしくはない。

 ……そう自分に言い聞かせたけれど、心臓の鼓動は正直だった。


 “もし、本当に彼だったら?”


 その想像だけで、十年前の冬の風景が一瞬で蘇った。

 冷たい校舎裏、白い息、指先の震え。

 そして――あの、悲しい表情。

 私の全てを信じてくれていた人が、何も言わずに背を向けた日のことを、

 まだ、昨日のように思い出せる。


 十年という時間は、私を大人にした。

 でも、あの瞬間の痛みだけは、まるで時間に取り残されたように、

 心の奥で凍ったままだった。



 高校三年の冬、受験を控えて部活動も引退した時期だった。

 私は吹奏楽部のクラリネットパートリーダーで、

 卒業式で演奏する曲の練習のために、放課後も校舎に残る日々が続いていた。


 その日も、部室で楽譜を整理していると、後輩の篠原くんが声をかけてきた。


 「早瀬先輩、少しお話、いいですか?」


 いつになく真剣な表情だった。

 彼は一つ下の後輩で、真面目で優しい子だったけれど、

 部活の中ではあまり目立たないタイプだった。


 私は、特に警戒もせず、

 「うん、どうしたの?」と軽い気持ちで答えた。


 放課後のグラウンドを抜けて、裏庭の桜の木の下まで来た時、

 彼は立ち止まり、深く息を吸い込んだ。


 「卒業する前に、どうしても伝えたいことがあって……」


 胸の奥が、嫌な予感でざわついた。

 “伝えたいこと”――それが何か、経験が少なくても分かった。


 私は彼の言葉を遮るように、少し早口で言った。


 「篠原くん、ごめんね。気持ちは嬉しいけど、私には――」


 その瞬間、彼が一歩、前に出た。

 そして、突然、腕を掴まれた。


 驚いて声も出なかった。

 彼の腕の中で、私はただ混乱していた。


 「お願いです、少しだけ……!」


 そう言いながら、彼は私を強く抱きしめた。

 抵抗する間もなく、背中に腕が回される。

 怖くて、苦しくて、私はただ「やめて」と叫んだ。


 次の瞬間だった。


 視線の先に、翔真が立っていた。


 夕陽が差し込む校舎の角。

 信じられない、という表情。

 唇が何かを言おうとして、けれど声にならない。


 私は咄嗟に篠原を突き放し、

 「違うの、翔真、これは――!」と叫んだ。


 でも、彼は一歩も近づかなかった。

 ただ、痛みを噛み殺すように顔を歪め、

 そして、背を向けた。


 その背中が夕陽に溶けていくのを、

 私はただ見つめることしかできなかった。


 走って追いかけたけれど、もう遅かった。

 あの時、何を言っても届かないと分かっていた。

 彼の中で、何かが完全に壊れてしまったのが、分かった。



あの冬の日から、時間だけが淡々と過ぎていった。

 卒業式の日、私は翔真に声をかけることができなかった。

 彼は、まるで私という存在が初めからなかったかのように、

 遠くから友人たちに笑顔を向けていた。

 その笑顔があまりにも優しくて、余計に苦しかった。


 大学に進学してからも、私は吹奏楽を続けた。

 それは音楽が好きだからというよりも、

 “彼と過ごした時間”を手放せなかったからだ。

 クラリネットを吹くたびに、彼の顔が浮かんだ。

 部活の休憩時間、廊下の隅で笑い合った声。

 練習後に二人で食べたコンビニの肉まんの温かさ。

 どれもが、もう二度と戻らない音だった。


 大学二年の春、偶然、街中のイベント会場で篠原の姿を見つけた。

 地方の音楽フェスで、吹奏楽部のOBバンドが演奏をしていた。

 ステージを降りた篠原は、私を見つけると明らかに動揺し、

 その場で立ち尽くした。


 「早瀬先輩……」


 名前を呼ばれただけで、胸の奥が重くなった。

 けれど、彼の表情を見た瞬間、

 “ああ、この人もあの日から止まっていたんだ”と分かった。


 「少し、話ができますか?」

 私がそう言うと、篠原はすぐに頷いた。


 カフェの隅の席で、しばらく沈黙が続いた。

 やがて彼が、搾り出すように言葉を吐いた。


 「……あの時のこと、謝らなきゃって、ずっと思ってました。」


 私は何も言わず、ただ彼の言葉を待った。


 「俺、あの日、先輩に気持ちを伝えたくて……でも、怖くなって。

  “抱きしめたら、何か伝わるかもしれない”って、勝手に思ったんです。

  本当に、最低なことをしました。」


 彼の目が潤んでいた。

 あの時の光景が蘇る。

 冷たい風、強い腕、そして翔真の視線。


 「翔真が、見てたの。」

 私は小さく呟いた。

 篠原は唇を噛み締め、顔を歪めた。


 「……知ってます。すぐに追いかけていったの、見ました。

  俺、あの後、怖くて逃げたんです。」


 テーブルの上に、涙が一滴落ちた。

 それが私のものか彼のものか、分からなかった。


 あの日、翔真に「違う」と言う時間さえあれば、

 何かが変わっていたのかもしれない。

 でも、現実はいつも一瞬の沈黙で壊れてしまう。


 その日から、私はもう一度だけ手紙を書いた。

 長い、長い手紙だった。

 謝罪でも、弁解でもない。

 ただ、彼に“信じてもらいたかった自分”の気持ちを、

 どうしても言葉にしたかった。


 けれど、封筒の宛先を書くことができなかった。

 翔真の新しい住所も、大学も知らない。

 だから、手紙は出せないまま、机の引き出しにしまった。

 今でも、実家のどこかに残っている。



 東邦トレーディングとの打ち合わせ当日。

 私は朝から落ち着かなかった。

 鏡の前で髪を整えても、どこかぎこちない。

 メイクの手が震えるのを、自分でも笑ってしまう。


 十年前の彼が、どんな風に大人になっているのか。

 もう結婚しているかもしれない。

 私のことなど、とうに忘れているかもしれない。

 それでも、会いたいと思ってしまう。

 どうしても、一度だけでも「ごめんなさい」と言いたかった。


 会議室のドアが開いた瞬間、世界が一瞬止まった。


 そこに立っていたのは、

 記憶の中の少年ではなく、

 大人の男になった相沢翔真だった。


 スーツに身を包み、穏やかな笑みを浮かべながら、

 他のメンバーに丁寧に挨拶をしていた。

 その所作ひとつひとつが、彼らしかった。

 私は、声を出すこともできず、ただ見つめていた。


 「本日はお時間いただきありがとうございます。

  東邦トレーディングの相沢です。」


 あの声だった。

 低く落ち着いた、でもどこか懐かしい声。

 胸の奥で、十年前に止まった音がまた鳴り出す。


 「こちらこそ、早瀬です。よろしくお願いします。」

 精一杯、平静を装って返した。

 でも、彼の視線が一瞬、私の名札に止まったのが分かった。

 ほんのわずかに、眉が動いた。


 それだけで、心臓が跳ねた。


 打ち合わせは淡々と進んだ。

 彼は仕事の話以外、一切私に言葉を向けなかった。

 完璧な距離感。

 まるで、過去が存在しなかったかのように。


 だけど、その沈黙の奥に、

 私と同じ痛みが眠っているような気がしてならなかった。


 会議が終わり、皆が資料を片づけて退出していく。

 最後に残ったのは、私と翔真だけ。

 気まずい沈黙。


 彼が何か言いかけて、

 しかし、わずかに首を振って口を閉ざした。


 「お疲れさまでした。」

 それだけ言って、部屋を出ていった。




打ち合わせを終え、会議室を出るとき、私は意を決して翔真の背中に声をかけた。


 「翔真さん……少し、よろしいですか?」


 彼は振り返り、微かに驚いた表情を見せた。

 けれど、すぐに落ち着いた顔に戻り、静かに頷く。


 私たちは、会場となったホテルのラウンジへ向かった。

 午後の光が柔らかく差し込み、カウンター越しのピアノの音がかすかに流れる。

 周囲の喧騒は遠く、二人きりの時間が静かに包み込んでいた。


 席に着き、深く息を吸う。

 「……十年前のこと、話してもいいですか」

 小さな声で問いかける。


 彼は黙ってうなずく。

 それだけで、胸の奥の緊張が少し和らいだ。


 「高校の時……私は、部の後輩に告白されました。

  でも、断ろうとしたのに、無理やり抱きしめられてしまって……

  その一瞬を、翔真さんが見てしまったんです」


 私の声は震え、視線をテーブルに落とす。

 あの時、声も出せずに背を向けた自分の無力さが、今も胸に残っていた。


 彼は静かに聞いていた。

 「……そうだったんだ」

 その一言で、十年分の誤解が少しずつほどけていく気がした。


 「だから、誤解させてしまったまま卒業してしまったのです」

 涙が頬を伝う。

 私は、言えなかった言葉をやっと紡いだ。


 翔真は、そっとグラスに手を添えたまま、私の目を見つめる。

 「俺も……あの日のこと、ずっと引きずっていた」

 穏やかな声に、怒りも悲しみもなく、ただ静かな後悔だけが漂っていた。


 私は少し笑い、嗚咽を押し殺す。

 「……ごめんなさい、ちゃんと説明できなくて」

 「うん、ありがとう、話してくれて」

 彼の言葉は、私の心をそっと包むように優しかった。


 沈黙が流れ、二人で過去をそっと拾い上げる。

 言葉にならなかった想い、互いの誤解、そしてやっと訪れた理解。

 私たちは言葉少なに、しかし確かに互いの気持ちを確かめ合った。



 ラウンジを後にする。

 翔真は軽く頭を下げ、微笑んで去っていった。

 私はその後ろ姿を見送りながら、胸に小さな安堵を感じる。

 もう、十年前の誤解は、私たちの間に重く残ってはいない。


 外に出ると、冬の風が頬を撫でる。

 街灯の光が淡く揺れる中、私はそっとクラリネットのケースを手にした。

 息を吹き込む。


 柔らかな音がラウンジの静けさを越えて、夜の街に溶けていく。

 それは、止まっていた十年前の音。

 そして、再び動き出す、私の新しい時間の音。


 翔真の存在は、私にとってもう触れられない過去のままだ。

 けれど、この静かな赦しによって、私は前に進める。

 心の奥で、音が再び流れ始めた。

 十年越しに、私の心は解放されたのだ。

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