第4話 雨の森

王都を出て、一週間以上が経過した。

乗り合い馬車を降り、俺は自分の足で辺境の地、フォルン地方へと足を踏み入れていた。

空気の質が、王都とは全く違う。

濃い緑の匂いと、湿った土の匂い。

聞こえてくるのは、鳥のさえずりと風が木々を揺らす音だけだ。


俺は地図を頼りに、この先にあるというフォルク村を目指していた。

今日の昼過ぎには到着する予定だった。

しかし、空の様子がどうも怪しい。

さっきから、厚い灰色の雲が空を覆い始め、風も強くなってきた。


「これは、一雨来そうだな…」


俺は空を見上げ、独り言を呟いた。

案の定、ぽつり、ぽつりと冷たい雫が俺の頬を濡らし始める。

それはあっという間に、バケツをひっくり返したような土砂降りへと変わった。


「うわっ、すごい降りだ」


俺は慌ててローブのフードを深く被り、近くにあった大きな木の根元に駆け込んだ。

だが、気休め程度にしかならない。

雨は容赦なく俺の体を濡らし、体温を奪っていく。

このままでは、体調を崩してしまうかもしれない。

どこか、雨をしのげる場所はないだろうか。

俺は周囲を見渡した。

森は深く、洞窟や小屋のようなものは見当たらない。

仕方ない。

少しでも早く村に着くしかない。


俺は意を決し、再び雨の中を歩き始めた。

ぬかるんだ道に足を取られながら、一歩、また一歩と前へ進む。

視界は悪く、数メートル先も見通せないほどだ。


そんな中、俺の耳が、微かな音を捉えた。

風の音や雨音に混じって、何か、人のうめき声のようなものが聞こえる。


「…ん?」


俺は足を止め、耳を澄ませた。

気のせいだろうか。

いや、確かに聞こえる。

森の、少し奥の方からだ。

こんな悪天候の中、森に人がいるのだろうか。

もしかしたら、俺と同じように道に迷った旅人かもしれない。

あるいは、怪我をして動けなくなっているのかもしれない。

放ってはおけない。


俺は街道を外れ、声が聞こえた方へと向かった。

草木をかき分け、ぬかるみに足を取られながら進んでいく。


「誰か、いるんですかー!大丈夫ですかー!」


俺は声を張り上げた。

返事はない。

だが、うめき声は、先ほどよりもはっきりと聞こえるようになってきた。

そして、数分ほど進んだだろうか。

開けた場所で、俺はそれを見つけた。

倒木に寄りかかるようにして、一人の少女が倒れていた。


その少女は、泥まみれだった。

高価そうだが、今は見る影もなく汚れてしまったドレスを身につけている。

年齢は、俺と同じくらいだろうか。

長い栗色の髪は雨に濡れて、彼女の顔に張り付いていた。


俺は急いで彼女のそばに駆け寄った。


「おい、大丈夫か!しっかりしろ!」


俺は彼女の肩を揺する。

彼女は薄く目を開けたが、その瞳には光がなく、焦点が合っていない。

意識が朦朧としているようだ。

唇は紫色で、体も氷のように冷え切っている。

このままでは、低体温症で命が危ない。


そして、俺は気づいた。

彼女の顔の左半分が、痛々しい痣のようなもので覆われていることに。

それは、まるでひどい火傷の跡のようにも見えた。

雨に濡れ、泥に汚れ、その姿はあまりにも痛々しかった。

だが、今は感傷に浸っている場合ではない。

まずは、彼女を治療しなければ。


俺は彼女の体をそっと抱き起こし、自分のローブを脱いで彼女の体にかけてやった。

そして、右手を彼女の額にかざす。


「聖なる光よ、その身を癒し、力を与えたまえ――『ヒール』」


俺の詠唱に応え、掌から温かい光が溢れ出す。

光は少女の体を優しく包み込み、冷え切った体温を少しずつ回復させていく。

彼女の荒かった呼吸が、次第に穏やかになっていくのが分かった。


しかし、治癒魔法をかけても、彼女の顔の痣だけは、何の変化も見せなかった。


「…これは、怪我じゃないのか?」


俺は眉をひそめた。

通常の怪我や病気であれば、『ヒール』で治らないはずがない。

だとすれば、これは一体何なのだろうか。

先天性のものか、あるいは…。

とにかく、今は考えている時間はない。

この雨の中では、いくら魔法をかけても根本的な解決にはならない。

一刻も早く、安全な場所へ彼女を運ばなければ。


俺は周囲を見渡した。

フォルク村までは、ここからまだ少し距離がある。

この少女を抱えたまま、ぬかるんだ森の中を歩くのは骨が折れるだろう。

だが、やるしかない。


「少し、揺れるぞ。我慢してくれ」


俺は彼女にそう声をかけると、その体を軽々と抱き上げた。

驚くほど軽かった。

ろくに食事も摂っていなかったのかもしれない。

彼女の顔が、俺の胸に寄りかかる。

苦しげだが、穏やかな寝息が聞こえてきた。

俺の魔法が効いて、少しは楽になったのだろう。


「よし、行くか」


俺は自分に気合を入れ、地図で確認した村の方向へ、力強く足を踏み出した。


雨は、一向に弱まる気配がなかった。

それどころか、風も強くなり、まるで嵐のようになってきた。

視界はさらに悪くなり、自分の足元すらおぼつかない。


少女を抱えながら、ぬかるんだ道を進むのは、想像以上に体力を消耗した。

だが、俺は歩みを止めなかった。

腕の中の小さな命を守らなければならない。

その一心だった。


俺は、自分自身の身体に強化魔法『ストレングス』と、持久力を上げる『エンデュランス』をかけた。

これで、少しは楽になるはずだ。

ガーランド家では、白魔法を戦闘に使うなど言語道断とされていた。

だが、今この状況では、そんなことを言っていられない。

魔法は、使い方次第だ。

人を守るためなら、どんな魔法だって、尊い力になる。


しばらく歩き続けると、前方に、微かな灯りが見えた。


「…あれは!」


村の灯りに違いない。

希望の光が見え、俺の足取りに力がこもる。

あと少しだ。

あと少しで、この子を助けられる。


俺は最後の力を振り絞り、灯りに向かって突き進んだ。

やがて、森を抜け、小さな村の入り口が見えてきた。

木で作られた粗末な門と、いくつかの家々。

間違いない、フォルク村だ。


俺は村の中へと駆け込んだ。

突然現れたずぶ濡れの男と、その腕に抱かれた少女の姿に、家の中から顔を覗かせた村人たちが、驚いたようにこちらを見ている。

無理もない。

怪しい旅人にしか見えないだろう。


俺は、一番近くにいた初老の男性に声をかけた。


「すみません!村長さんはどちらにいらっしゃいますか!この子がひどい状態で、助けてほしいんです!」


俺の必死の形相に、男性は一瞬たじろいだが、すぐに状況を察してくれたようだった。


「わ、わしが村長のアルベルトだ。…その子は一体どうしたんだね?」


「森で倒れていたんです!このままでは命が危ない!どうか、雨風をしのげる場所を貸してください!」


俺は懇願するように言った。

村長アルベルトは、俺の腕の中でぐったりとしている少女の顔を見て、息を呑んだ。


「…ひどい痣だ。分かった。こっちへ来なさい。うちの隣に、今使っていない空き家がある。そこを使いなさい」


アルベルトはそう言うと、俺を先導して歩き始めた。

俺は、心の中で安堵のため息をついた。

よかった。

これで、この子を助けられる。


アルベルトに案内されたのは、村の端にある小さな家だった。

長い間、誰も住んでいなかったのだろう。

少し古びてはいたが、雨風をしのぐには十分すぎるほど立派な家だった。


家の中には、簡素なベッドとテーブル、そして暖炉があった。

アルベルトは、すぐに暖炉に火を入れてくれた。

パチパチと燃える炎が、冷え切った部屋を、そして俺たちの体を温めてくれる。


「さあ、その子をベッドに寝かせなさい」


俺はアルベルトの言葉に従い、少女をそっとベッドに横たえた。

彼女の濡れた服をどうするべきか迷っていると、アルベルトの奥さんらしき女性が、乾いた布と着替えを持ってきてくれた。


「あとは、私たちがやりますから。あんたも、まずは体を温めなさい」


女性はそう言うと、手際よく少女の体を拭き、服を着替えさせてくれた。

その優しさが、心に染みた。


俺は、暖炉の前で濡れた服を乾かしながら、改めてアルベルトに礼を言った。


「本当に、ありがとうございます。助かりました」


「いいんじゃよ。困った時はお互い様だ。それより、あんたは一体何者なんだね?旅の者かい?」


アルベルトは、警戒しながらも、穏やかな口調で尋ねた。


「はい。ペレウスと申します。王都の方から来ました。この辺境の地で、新しい生活を始めたいと思っています」


俺は、自分の素性を隠し、そう答えた。

ガーランドの名を出すわけにはいかない。


「ほう、王都から。こんな何もない村に、わざわざ好き好んで来る者も珍しい」


アルベルトは、少し驚いたようだった。


「俺は、白魔法が少し使えます。治癒魔法が得意です。この村で、医者のようなことができればと思っています」


俺がそう言うと、アルベルトの目が、わずかに見開かれた。


「魔法使い様だったのか…!それは、ありがたい。この村には、医者も薬師もいない。あんたのような人が来てくれれば、村人たちも助かるだろう」


どうやら、俺のことは受け入れてもらえそうだ。

俺はほっと胸をなでおろした。


少女は、ベッドの上で静かに眠っている。

顔色はまだ悪いが、呼吸は安定している。


「この子の名前は分かるのかね?」


アルベルトが尋ねた。


「いえ、まだ何も聞いていません」


「そうか…。とにかく、今夜はゆっくり休みなさい。何か必要なものがあれば、遠慮なく言いなさい」


アルベルト夫妻はそう言い残し、家を出て行った。

残されたのは、眠る少女と、俺だけ。

暖炉の炎が、静かに部屋を照らしている。


俺はベッドのそばに椅子を持っていき、そこに腰を下ろした。

彼女が目を覚ますまで、そばにいてやろう。

一体、彼女に何があったのだろうか。

なぜ、あんな森の中で、一人で倒れていたのだろうか。

そして、あの顔の痣は、一体…。

多くの疑問が、俺の頭をよぎる。


だが、今はただ、彼女が無事に回復することだけを祈ろう。

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