おうちに帰った子
@karatachi23
第1話
昔々まだ子どもが一人きりで外を歩いてもよかったころ、家までの帰り道がわからなくなった五歳くらいの子に出会った。
ちょうど私は迫る締切りからの現実逃避で三週間ぶりに外出していた。誰かと一緒に過ごすのも幼い子も苦手だが、周囲に交番もないのに「おうちにかえれない」と泣く迷子を放っておくわけにはいかない。しかたなく一緒に家を探して回った。
運動不足の脚が痛くなり始めた時、ようやくその子が白い壁に赤い屋根の小さくてかわいらしい家の前で立ち止まった。
「ここでいいのかい?」
私が尋ねると子どもはうなずいた。誰か家の者がご飯を作って待っているのだろう。あけ放たれた窓からおいしそうな匂いも漂ってくる。やれやれ。これでようやく一人になれる。
家の誰かと鉢合わせる前に私は足早に去ろうとしたが、その子はまだ家に入ろうとしない。
「どうした?家に入らないの?」
「だってほんとのおうちじゃないもん」
「ええ?さっきうん、って言ったじゃないか」
私の声に苛立ちがにじむ。一人きりの時間を削ったことによる精神的負担が疲れに拍車をかけていた。家で机に向かっていた時と打って変わって早く帰って仕事に戻りたい。
「そうだよ」
子どもは空を指さした。雲一つない青空の東には、太陽の眩さに萎縮して存在感を失った青白い上弦の月が浮かんでいた。
「ほんとのおうちはあっち。でも帰れなくなっちゃった」
そんなおとぎ話みたいなことある訳ないだろう、と言おうとしたがやめた。あまりにも恋しそうに月を見上げていたからだ。その子の両目は遠く離れた故郷をなつかしむ移民のように望郷の念に溢れている。
私は気を利かせた言葉をかける性分ではなく、代わりにこう説明した。
「月まで行くには宇宙船に乗らないと無理だよ。宇宙船に乗るには宇宙飛行士にならないと。それで宇宙飛行士になるためには大____」
家の者が出てきて私の話は遮られた。大人同士で礼儀正しく穏やかなやり取りを交わした後、昼食の誘いを締切りが近い仕事があるからと断ってその子と保護者と別れた。二人は一日にでくわすには十分すぎる人数だった。
それ以来あの子と会うことはなかったが、優秀な成績で航空宇宙工学に強い大学へ進んだと耳にした。
さらに年月が経ったある夜、私は仕事の手を止めて何とはなしにテレビを付けた。ちょうど午後9時のニュースの時間だったが、どうも見る気になれずそのまま放っておいてベランダの外に出た。
今夜は満月だ。何一つ遮るもののない夜空に堂々と君臨し燦然と輝いている。月の表面の影は人の形みたいだ。下にいる人々に手を振っているみたいに見える。
とりとめない空想にふけっている私を、つけっぱなしにしていたテレビに入った速報が現実に引き戻した。
三日前に打ち上げられた宇宙船が忽然と姿を消したのだ。行方がわからなくなった宇宙飛行士の顔には見覚えがある。
ようやくあの子はおうちに帰れたのだ。
おうちに帰った子 @karatachi23
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