【DB哲・べジータ】過去の悪行は、その後の善行によって消えるのか?
晋子(しんこ)@思想家・哲学者
許される悪と、忘れられる悪について
人は、過去を忘れて生きることができる。しかし、過去が消えることはない。ドラゴンボールという物語の中で、この問題を最も象徴的に体現しているのがベジータという存在である。ナメック星での彼はまさに「悪」であった。ドラゴンボールを奪うためにナメック星人の村を襲い、抵抗したナメック星の戦士を前に冷たく笑って放った言葉――「じゃあ、死ね!」。その一言に迷いも痛みもなく、ただ自分の欲望と野心のために命を奪った。あの瞬間、彼の心には正義も哀れみも存在しなかった。だがその同じ男が、後に「地球のために戦う戦士」として描かれる。かつて殺戮を繰り返した者が、悟空や仲間たちと共に様々な敵と戦い、地球を守る立場になる。少年漫画の文脈では、これは“成長”として肯定される。しかし、倫理という視点から見ると、そこには大きな齟齬がある。
ドラゴンボールの世界では、善と悪の判断は「今の行動」で決まる。過去の罪よりも現在の行為。ベジータがどれだけ人を殺してきても、いま敵を倒しているのなら“味方”であり、“良い人”として扱われる。悟空が彼を許すのも、仲間たちが次第に彼を受け入れるのも、そこに「今の姿しか見ない」物語構造があるからだ。これは、少年漫画の王道であり、読者に希望を与える構図でもある。悪人でも、努力と意志で変われる――その夢のような理想。しかし現実の倫理では、過去の行いは消えない。いくら未来で善行を積もうとも、殺された命は戻らない。ナメック星人たちがそうであったように。ポルンガの願いで「フリーザたちに殺された者」が蘇っても、ベジータが殺したナメック星人たちは二度と帰ってこなかった。願いの範囲外だったからではなく、物語がそれを見ていないからだ。
つまり、彼らの死は「物語上の必要」として消費され、倫理的な記憶としては存在しないまま放置された。
ベジータが地球で家族を持ち、ブルマやトランクスと共に暮らす姿は、確かに感動的だ。悪人が家庭を持つことは、変化の象徴でもある。しかし、倫理的にはそれは「贖罪」ではない。ベジータはナメック星人たちのために祈ったことも、謝罪したこともない。彼が変わったのは、心の構造の変化というより、目的の変化にすぎない。かつてはフリーザを超えるために戦い、今は悟空と並び立つために戦う。動機は常に「己の誇り」だ。つまり、彼の善は「他者のための善」ではなく「自分の理想のための善」である。そこにあるのは利他的な善ではなく、美学としての善だ。ゆえに、ベジータは倫理的には依然として“悪人”でありながら、物語的には“英雄”として描かれる。この二重構造こそがドラゴンボールの持つ独特な魅力であり、同時に最も大きな倫理的盲点でもある。
もし現実の社会で、ベジータのような存在がいたならどうだろうか。自らの意思で無辜の人々を殺し、のちに「良いことをしたから」と許されることがあるだろうか。倫理的には、それは許されない。
悪を行ったことと、善を行うことは、互いに打ち消し合うものではない。
善は悪を消すために存在するのではなく、悪を抱えながらも、それを越えて生きようとする意志に意味がある。もしベジータが本当に“善”に到達するなら、それはナメック星での罪を自らの中に刻み込み、その記憶と痛みを持ちながら、それでもなお戦う姿であるべきだった。だが、物語はその「記憶」を描かない。ドラゴンボールの世界において、悪は赦されるのではなく、忘れられる。
これは少年漫画が持つ宿命的な倫理の限界でもある。忘却は、希望を描くための条件であり、物語はその明るさを優先する。だからこそ、ベジータは“許された悪”として存在し続けることができたのだ。
倫理学で言えば、ベジータの改心は「カント的な善」ではなく「功利的な善」である。つまり、結果によって善悪を判断する立場だ。悪行を重ねていても、今良い結果をもたらしているなら善とみなす。それは社会全体の幸福を考えれば一理あるかもしれない。しかし、個の倫理として見れば、それは非常に危うい。なぜならその思想は、
「善行を積めば罪が消える」という計算を許してしまうからだ。
倫理とは取引ではない。善を積んだからといって、過去の罪が帳消しになることはない。むしろ、真の善とは、過去の悪を自覚し、消すことができないその重みを背負ってなお、善を選び続けることにある。もしベジータがその痛みを知り、己の手で殺したナメック星人たちのために涙を流す場面があったなら、彼は本当の意味で「善人」になれただろう。
だがドラゴンボールは、そういう物語ではない。そこにあるのは「赦し」ではなく「再出発」であり、「倫理」ではなく「希望」だ。悪人が改心し、強くなり、仲間になる――それは現実ではありえない奇跡だが、だからこそ少年たちは夢を見ることができる。倫理的には矛盾していても、感情的には納得できる。人は変われる。どんな過去を持っていても、もう一度立ち上がれる。その希望を描くために、物語は過去を赦し、悪を善に変える。だから、ベジータの矛盾は、物語の欠陥ではなく、「希望という幻想」を描くための装置なのだ。
この文章はドラゴンボールの原作のみについて書いています。原作者の描いた物語のみを語っています。
とはいってもドラゴンボールは面白いから倫理とかの細かいところは別にどうでもいいとは思います。
【DB哲・べジータ】過去の悪行は、その後の善行によって消えるのか? 晋子(しんこ)@思想家・哲学者 @shinko
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