闇鍋出張所
#zen(悠木全)
声
俺はしがない小説家志望の学生だ。大学に通いながら、執筆している。だが、両親は金にならないものをよしとしないので、あまり良い顔はしなかった。できれば安全な道を進ませたいのだろう。両親は俺をやたら公務員にしたがっていた。まあ、作家になったところで、食える人間は限られているというし、それになれるという保証もない。なので、両親を説得するだけの言葉が見つからなかった。
本当は俺自身、フリーターでも良かったのだ。さまざまな仕事で経験を積めば、それが執筆の糧になるだろう。俺の本当の願いは、何者にも染まらない俺になることだった。
そして今日も、俺はパソコンで筆を走らせる。フリーのワープロソフトは、主義主張をまともに表に出せない俺の、唯一の掃き溜めだった。小説の中でなら、俺はどんな人間にだってなれるんだ。こんな楽しいことはないだろう。
俺の手は今日もノリに乗っていた。ヒューマンドラマを書くのがとくに好きなのだが、恋愛を書く時もある。ファンタジーはやや苦手だ。ミステリーは高尚すぎて、手を出しづらい。俺の書く話はごく狭い世界だろう。それでも楽しいには違いなかった。
そんなある日のことだった。
いつものように自分の原稿をチェックしていたら、覚えのない文章があった。自分の原稿を完璧に覚えているわけではないが、全く身に覚えのない文章というのも珍しいだろう。
俺は不思議な気持ちでその文章を口にする。
「私には何もないが、きっと明るい未来がある。そして私はいつか自由になるんだ。誰のためでもなく、自分のために……か」
一見、普通の文章だが、なんとなく諭されているような気がして、苦笑する。まあ、ありきたりな文章といえば、そうなのだが。
その時の俺は、それ以上気にすることもなく、パソコンを閉じたのだが。
その後も記憶にない文章は出現した。
しかもおかしなことに、記憶にない文章は増えていった。一行二行、だった言葉が、未知のウイルスのように俺の文章を侵食し、全てを飲み込むように作品の色を塗り替えていった。しかも皮肉なことに、その俺じゃない誰かが書いた文章は、少しずつ認められるようになり、ろくに一次も通過できなかった俺が、三次まで残るようになっていた。
「おかしい。俺が書いた文章が見当たらない。全部、俺の知らない言葉ばかりだ。どうしてこんなことに……」
物語はそのままで、文章だけが書き換えられるという現象に、毎回困惑するが、それでも文章の特徴は自分と一致しているので、自分が書いたものだと思い込むようにしていた。
自分の文章が自分のものではなくなっていても、気のせいだと思うことにした。それとも、自分の脳がおかしくなったのかもしれない。本当は家族に相談したかったが、まともにとりあってもらえるとも思えず。自分じゃない誰かが自分の作品を染めていく感覚はその後も続いた。
そしてそんなある時。作品がまるで俺に問いかけるような言葉を綴った。俺が書いた直後の文章があきらかに変化して、まるで俺を否定するかのように俺の視界を汚して、そして俺に見せつけた。
「お前は確かに、良い人間でいようとしている。だが、両親に都合の良い人間でしかない。幸せになるのは両親であって、お前ではないのだ。生きるのは、お前自身のためでなくてはならない。お前の幸せはお前しか決められないのだから」
心を激しく揺さぶるような文章ではない。ただ淡々と事実をつきつけられているだけ。それでもガラスの破片が刺さったように、繊細で鋭い痛みが胸に走る。
両親にとって都合の良い人間であることは自覚していた。だが、平穏に暮らすためには、俺が自分を殺すしかなかった。俺自身の思いや夢なんか、どうだっていい。そんな自分を窘められているようで、苦しかった。自分には自分を導いてくれる人がいなかったから。その言葉が、嬉しくもあった。誰かが見ていてくれる。それが、どれほど嬉しいことか。きっとこれは天啓なのだと思った。俺を見てくれている誰かがいるのだと。
そして俺は、解放されることにした。両親に思いの全てをぶちまけて、公務員ではなく、自分のやりたいようにやるのだと、言い張った。最初は気でも狂ったかと言われたが、繰り返し俺が自分の気持ちを告げるうち、とうとう両親は諦めた。そして、俺の文章が諭してくれた通り、俺の幸せは俺が決めることになった。
こうして未来を踏み出した俺だが、その後も俺ではない俺の文章が綴られるのは変わらず。俺は俺の知らない誰かと作家としての道を生きることになった。
そして月日は経ち、いつしか歳をとった俺に、俺の文章は告げた。
「お前は幸せだった。当然だ。俺がついていたのだから」
その言葉に、俺は震えた。ようやく俺の知らない俺の師が、接触を試みてきたのだ。
きっと俺を支えてくれた誰かは、神か天使か。それとも悪魔か。何かを犠牲にしなければいけないとしても、俺を幸福にしてくれたことを嬉しく思う。だが、事実は意外と簡単なものだった。
「俺は俺を幸せにできたことを、誇りに思う」
そう、つまり俺の文章は、別の俺が書いていたということだ。
本当は気づいていたのだ。俺の文章が俺自身の叫びで出来ていたことに。それは夢でも魔法でもない、俺の心の声が書いたものだった。
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