第9話

蒼と、付き合うことになった。


世界は、180度変わった。

私は、全てのパパとの関係を、切った。

スマホの連絡先を消して、裏アカウントも削除した。

部屋にあったブランド品は、ほとんど売った。


当然、収入はゼロになった。

タワーマンションは引き払って、蒼が紹介してくれた、日当たりのいい小さなアパートに引っ越した。

学校の近くのカフェで、アルバイトも始めた。


生活は、前よりずっと大変になったけど。

でも、不思議なくらい、心は穏やかだった。


蒼は、毎日のように私のアパートに来てくれた。

二人でスーパーの特売品を漁って、一緒にご飯を作る。

テレビを見ながら、どうでもいいことで笑い合う。

眠る時は、必ず手を繋いで。


手首の傷は、もう増えなかった。

私の心は、蒼の愛で、少しずつ満たされていった。


「莉愛は、笑うと可愛いね」

「……うるさい」

「照れてる」

「照れてない!」


そんな、ありふれた幸せが、永遠に続くと、信じてた。


あの日までは。


その日、私は蒼の部屋に、忘れ物を届けに行った。

彼は大学のゼミで、帰りは遅いと聞いていた。

合鍵で、部屋に入る。


シンと静まり返った部屋。

彼の匂いがして、少しだけ安心する。


机の上に、彼がいつも使っているノートパソコンが開いたままになっているのが目に入った。

(消し忘れかな)

そう思って、画面を覗き込んだ、瞬間。


私の身体は、凍りついた。


開かれていたのは、一通のメール。

送信相手は『お父様』。


件名は、『例の件について』。


本文に書かれていた言葉に、目が滑る。


『……縁談の件、謹んでお受けいたします』


『……彼女とは、お約束通り、今月中に別れます』


『……ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした』


……え?

縁談?

別れる?


誰が?

誰と?


頭が、理解を拒む。

指が、震える。

マウスを動かして、他のメールも見てしまった。


そこには。

蒼の父親と、彼との、おびただしい数のやり取りが残っていた。


『あの女と本気だと言うのか!』

『目を覚ませ! お前は将来、病院を継ぐ身だぞ!』

『いつまでそんな底辺の女と付き合うつもりだ!』

『言うことを聞かないなら、学費も仕送りも、全て止める。勘当だ』


そして、蒼からの、返信。


『莉愛を、傷つけないでください』

『彼女は、僕が守ります』


父親からの、最後通告のようなメール。


『選択肢は二つだ。あの女と別れて、縁談相手と結婚するか。全てを失って、二人で底辺でのたれ死ぬか。……よく考えろ』


そのメールの日付は、一週間前。


私が、一番幸せだった、あの日。


サーッと、血の気が引いていく。

足が、ガクガクと震える。


だから、か。

だから最近、蒼は時々、悲しい顔をしていたんだ。

私に隠れて、一人で、こんなものと戦っていたんだ。


どうしよう。

私のせいで。

私が、蒼の人生を、めちゃくちゃにしてる。


彼から、未来も、家族も、全部奪おうとしてる。


そんなの、ダメだ。

絶対に、ダメだ。


私は、蒼のパソコンを、そっと閉じた。

そして、来た時よりも静かに、彼の部屋を後にした。


涙は、一滴も出なかった。

ただ、心の奥で、何かがプツンと、切れる音がした。

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