それ、先輩の仕事じゃありません
lilylibrary
第1話 「臨機応変に対応します。業務範囲の中で」
朝の光は水のように薄く、花屋「ハナト風」のガラスを通り抜けて床に四角い池をつくっていた。開店前の店内は、花の匂いというより、葉の湿りや土のぬくもりが混ざった静かな温度で満ちている。花桶の氷は音もなく溶けて、ゆっくりと水面を増やしていく。
雨宮ひよりは白いエプロンの紐をきゅっと締め直すと、仕入れのミモザを梳く手を止めた。指先に当たる丸い花房は、まだ朝の冷えを少し抱いている。黄色は光の雛形だ──そんな比喩をいつものように心の片隅で転がしながら、ひよりは店先のクラフト紙を新しいロールに替え、リボンの端を揃えた。揃える、という行為は心を落ち着ける。彼女は境界線を引くのが苦手だけれど、端を揃えることだけは得意だった。
ガラス扉の外を、制服姿の後輩が横切る。氷室澪。ショーウィンドウに映った横顔は刃物のようにまっすぐで、しかし切っ先は誰にも向いていない。彼女は扉を開ける前に、袖の先で指先を一度拭ってからノブを回した。小さな所作の清潔さが、澪らしい。
「おはようございます、先輩」
「おはよう、澪ちゃん。冷えたね。ミモザ触ると手があったかくなるよ」
澪は軽く頷くと、表情を変えずに目の奥だけで笑った気配を見せる。言葉少なに作業へと入る姿は、見ているだけで安心する。二人で黙って桶から水を汲み直し、茎の切り口を揃えていく。剪定バサミが「コトン」と小さく音を立てるたび、ひよりの胸の奥の微かなざわめきが沈んでいく。
開店の札をくるりと裏返した瞬間、鈴が転げる音と同じ速さで男が入ってきた。スーツの上着はボタンが外れたまま、ネクタイは結び目がゆるい。目の下にわずかに青い影。声は大きいのに、どこか頼りない。
「お、開いてる? 助かった。今日、会社の女の子の送別会でさ。花束、予算……三千円くらい? で、派手めに。あ、ラッピングは無料で、持ちやすいようにリボン長め、それからメッセージカードに文面考えて書いといてよ。えっと、『今までありがとう! また飲みに行こう!』みたいな? 字はお姉さんの綺麗なやつで」
言葉は水道の蛇口みたいに勢いよく次々にこぼれる。ひよりは一瞬、胸の奥がひやりとする感覚を覚え、すぐに笑顔を貼りつけた。相手が困っているのが伝わるのは、彼女にとって反射神経に近い。
「三千円ですね。派手めだとガーベラやスプレーカーネーションも入れられます。ラッピングは無料の範囲でリボンをお付けできますよ。メッセージは……よろしければ文面の下書きをいただければ、カードはご用意できます」
「いやいや、時間ないから。そこはセンスでさ、パッと。あ、あと、駅まで遠い? 持ってくの面倒だから、後で会社まで届けてくんない? 徒歩五分。オレ、先行って準備あるからさ。金は後でまとめて経費で払うから、今日中に領収書だけ発行しといて」
ひよりの笑顔は、少しだけ表面張力を失いかける。胸に溜めた水に石が投げ込まれ、輪が広がる。ラッピング無料、持ちやすい、カード代筆、配送、後払い、領収書。彼の言葉は、見えない手でひよりの時間をつまみ、ちぎり、引き出していく。それがどれほど軽い仕草であっても、ひよりの体温には確かな影を落とす。
「えっと……」
ひよりは気配りのプログラムのように言葉を探し、視線が自然と澪へ滑る。澪は桶の前で茎を揃えながら、こちらを見ずに、しかし聞いている気配をまとっていた。静かな観察の気配は、朝の影のように長い。
「カードは、私が……」
そう言いかけたひよりの前へ、澪が音もなく立った。視線はやわらかいが真っ直ぐで、まるでまっすぐな糸で空気を縫うみたいに。
「ご要望を確認させてください」
澪の声は低く静かで、音量を上げるかわりに輪郭を鮮明にする。
「三千円の花束、無料ラッピング、メッセージカードの代筆、当日配達、後払い、領収書の前払い発行。今のところ、五つですね」
男は一瞬、押し返され、笑って肩を竦める。
「いや、なんか固いなあ。花屋さんってさ、そういうとこ臨機応変に……」
「臨機応変には対応します。ただし、業務範囲の中でです」
その一言が、ひよりの胸の中で小さく弾けた。業務範囲。リボンの端のように、言葉に端がある。境界線は見えないのに、今、澪は目に見える形で机の上に線を引いた気がした。
「代筆はお断りしています。お客様の言葉は、お客様にしか書けません。配達は配達料をいただいての予約制。後払いは対応していません。領収書はお会計と同時です。……それ、先輩の仕事じゃありません」
最後の一言だけ、澪はひよりの方を向かずに、けれどひよりにだけ届く角度で落とした。男の視線がちらりとひよりに流れる。ひよりは、胸の奥でふわりと結び目ができるのを感じた。結び目は、ばらばらになりそうな心をまとめる働きをする。たぶんそれは、リボンとよく似ている。
「え、じゃあ、どうすんの?」
男はどこか子どもが駄々をこねるような声色になりかけ、咳払いで整えた。
「時間ないんだってば。じゃ、カードは空白で。配達は……いいよ、取りに来る。で、三千円で派手め、頼む。あ、でもさ、もうちょい色多めにしてよ」
「承知しました」
澪は短く答え、手際よく花瓶から視線で色を拾っていく。黄色のガーベラが太陽のように中央に置かれ、スプレーカーネーションが泡のように周りを囲む。ミモザを少しだけ、光の粉のように散らす。濃いグリーンのユーカリが影をつくり、全体の派手さをさらりと品に変える。ひよりは梱包紙を広げ、澪の動きに合わせて紙が音を立てないように角を折る。ラッピングの褶(ひだ)は、ひよりの呼吸と同期して滑らかに生まれていく。
「リボンはこのくらいの長さで」
澪が小首を傾げて、ひよりを見た。合図だ。
「……はい」
ひよりは微笑み、リボンの端を切る。切り口は斜め。端を揃えれば、見た目が整う。境界は、目に見えると安心できる。
会計は現金で。レジの音が「チン」と鳴って、店の空気に一つの区切りが刻まれる。男は受け取った花束に満足そうに頷き、少しだけ声のトーンを和らげた。
「綺麗だね。さすがプロ。助かった」
「ありがとうございます。またのご来店をお待ちしています」
澪は丁寧に頭を下げる。ひよりも続いて頭を下げると、男はひらひら手を振って出て行った。鈴の音が再び転がり、扉が閉まる。ガラスがわずかに震え、その振動がひよりの腕まで伝わる。静けさが戻ってきたが、先ほどより澄んでいる。
数秒、言葉が見つからなかった。ひよりは指先を見た。ミモザの花粉がほんの少し黄色くついている。指をこすり合わせると、粉は丘の上の光のように薄くキラキラした。胸の中の結び目はほどけず、けれどきつくもしない。うまく結べたリボンみたいに、ちょうどいいきつさでそこにある。
「澪ちゃん……ありがとう」
「いえ」
澪は桶の前に戻りながら言った。
「今のは“要求の列挙”でした。列挙すると、どれが範囲外か見えます。見えるようにするのが先です」
「見えるように、か……」
「先輩は、見えない境界まで責任を拾いに行ってしまうから」
「うん……」
ひよりは頷いて、少し笑った。
「つい、拾っちゃう。落ちてるのを見ると、足の裏がむずむずして。拾わないと転ぶ人が出る気がして」
「でも、先輩が転んだら同じです」
澪は言い切る。声は冷たくない。冷たいのは輪郭だけで、中身は体温を持っている。
「境界線を置くのは、嫌うためではありません。守るためです」
会話はそこで一旦切れたが、沈黙に不安はなかった。沈黙は水槽のガラスみたいに透明で、お互いの輪郭を滲ませずに保ってくれた。
「さっきの、『それ、先輩の仕事じゃありません』って……胸に、すとんって落ちた」
ひよりはミモザをふわりと摘んで、茎を短く切る。切り口が白く新しい匂いを立てる。
「私、ずっと『やらなきゃ』って思ってた。頼られたら、役に立てたら、嬉しいから。でも……役に立つって、何でもやることじゃないんだね」
「はい。役に立つには、形が要ります」
「形?」
「水は器があるから水らしくいられる。器がなければ、床を濡らすだけです」
澪の視線が作業台の端、朝の光の四角い池に落ちる。窓からの光は少し角度を変え、床の池の形は細長くなっていた。
「器は境界線。誰の器か、何の器かを決めてから流す。先輩の優しさにも、器が要る」
「器……私の優しさの、器」
ひよりはゆっくり復唱した。言葉は口の中で、やわらかい飴みたいに溶ける。
「それと、もう一つ」
澪はそれ以上言わず、店の奥の棚から小さなカードを取り出してきた。クラフト紙の名刺サイズ。上端に金のクリップ。
「テンプレを作りましょう」
「テンプレ?」
「断るための、短い言葉です。長くなると、情で押し流されます」
「……うん。私、長くしがちだもんね。ええと、なんて書けばいいかな」
「まず今日の二つ」
澪はペンを取り、ひよりの手元へ滑らせるように置いた。
「『それは私たちの業務範囲外です』。
『配達は予約制です。本日は店頭受け取りのみです』」
「“のみ”って、ちょっときつくない?」
「必要なきつさです。端を斜めに切るみたいに」
ひよりは笑って、カードに清書した。文字は少し震えたけれど、読みやすい。書きながら、胸の中の結び目がまた一つ増えた。けれど苦しくはない。結び目は、彼女を縛るのではなく支えるためにある。
「もう一つ、私から」
澪はペンを取り、カードの裏側にさらりと書いた。
「『それ、先輩の仕事じゃありません』」
「ふふ。直接的」
「いい合図になります。私が言う時は、先輩が肩に背負いそうなものを下ろす合図です」
「合図……」
合図がある関係は、心地いい。約束のように安心する。ひよりはカードを胸ポケットに入れ、手のひらで軽く押さえる。紙の硬さが心臓の鼓動に合わせて微かに動く。自分のなかに、目に見える“端”が一つ入ったような感覚。
ひよりは店先に目をやった。ガラスの向こう、商店街のアーケードに朝が少しずつ満ちていく。開店直後の空気はまだ冷たく、けれど遠くのパン屋から焼きたての香りが運ばれてきて、鼻腔の奥がくすぐったい。通りを渡る親子が手をつなぎ、子どもの手が親の手に“結び目”をつくっているのが見えた。
「澪ちゃん」
「はい」
「今の、臨機応変の話、もう一回……教えて」
「臨機応変は、境界線を持っている人にしかできません」
澪は、桶の際にこぼれた水を布で拭き取りながら言う。布が水を吸う音は小さく、しかし耳に気持ちよく届く。
「境界がない人が“臨機応変”をやると、ただ流されるだけです」
「……そっか」
「それに、境界線は見せると、相手も楽になります。どこまで頼んでいいかが見えるから」
「私、見せてこなかったんだね」
「見せないやさしさもあります。でも、今日のは見せるやさしさです」
やさしさには形がある。器がある。端がある。ひよりは胸の中で何度も反芻した。言葉を飲み込むと、体の中心が少しだけ温かくなる。ストーブをつけたみたいじゃない。陽だまりが胸の内側に生まれたみたい。ミモザの黄色が、誰も触れないところでふわりと光る。
「ねえ、澪ちゃん。朝、ミモザ触ると指があったかいって、さっき言ったでしょ?」
「はい」
「なんか、あれに似てる。今」
「それは、よかった」
澪はほんの少し目を細めた。感情の起伏を大きく見せない子だけれど、目の温度は確かに変わる。その変化に気づけるのは、たぶん世界でひよりだけだと、ひよりは密かに思った。
「ありがとう。澪ちゃんがいてくれて、助かった」
「助けるのは、交代でいいんです。先輩が助ける日も、私が助ける日も」
「うん」
扉の鈴がふたたび転がる。常連の老婦人がゆっくり入ってきて、ミモザを見て目を細めた。
「まあ、春だわねえ」
「おはようございます」
ひよりは自然と声の高さを一段上げた。春、という言葉はそれだけで体温を上げる効果がある。老婦人の声の皺さえ、陽だまりのシワみたいに見えた。
澪が老婦人の相手をするあいだ、ひよりはレジ脇の小さな器にミモザを一本、短く切って挿した。店の、見落とされがちな角。そこにも黄色い光の雛形が生まれる。光の雛形は、日が差さない時間にも、ここに光が入ることを約束してくれる。約束。合図。境界。言葉が静かに彼女の中で並び、息を合わせる。
作業台の端に置いたカードが、少し傾いていたので直した。端を揃える。今までは端を揃えても、心の中はぐしゃぐしゃのままだった。今日は違う。端を揃えると、心も少し揃う。
外の光はもう四角ではなく、長方形に伸びている。時間が進むにつれて池の形が変わるように、ひよりの「やさしさ」の形もまた、少しずつ変わっていくのだろう。器があれば、こぼれずにいられる。こぼれずにいられたら、誰かに温かさを渡せる。
老婦人が会計を済ませ、ミモザの小束を抱えて帰っていく。扉が閉まる瞬間、外からふっと風が入り、店の空気が一度だけ揺れた。風はミモザの粒を微かに鳴らし、ガラス瓶に映る光を一度だけ跳ねさせる。跳ねた光は、澪の横顔の輪郭をなぞって消えた。
「先輩」
「うん?」
「今日のテンプレ、持って帰ってください。次、必要な時に“探す”時間も資源です」
「はーい。……こういうの、すぐどこかに置いちゃうから、気をつける」
「置き場所も決めましょう。右胸ポケット。端をそろえて」
「右胸ポケット、端をそろえて。了解」
二人の会話は、三つ四つと小石を渡るように軽く続いた。仕事の手は止まらない。澪が茎を揃える音、ひよりが紙を折る音、氷が溶ける音、外でシャッターが上がる音──世界は音符のように並び、店はその楽譜の上で呼吸している。
ひよりは胸ポケットをそっと撫でた。カードの角が、心臓の鼓動と同じリズムで、確かにそこにある。境界線の角。角があるものは、形を保つ。形を保つものは、誰かの手に渡したとき、崩れずに役立つ。
ガラスの向こうに朝日が満ちる。四角い池は、もう床に収まらない。光は境界を越えて、店全体に霧のように拡がっていく。境界を持つことと、光が拡がることは矛盾しない。器があってはじめて、注げるのだ。ひよりはそのことを、体で理解し始めていた。
胸の内の陽だまりが、少しだけ広がる。ミモザの黄色が、指先にまだ残っている。今日は、いい日になる。きっと。
店の奥の屋根裏へ上がる梯子の影が、床に細く伸びている。いつか、あの上で朝日を背にして、もっとはっきりと何かを言えるだろう。その予感だけがあれば、今は十分だ。
⸻
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます