世界で一番おいしいパンの作り方

多田羅 和成

運命のあんぱん

第1話

 おいしいパンとはなんだろう。


 酸味の効いた素朴な黒パン。バターの香るクロワッサン。ふわふわの食パンに、スパイシーで辛口のカレーパン——人間の数だけおいしいパンは存在する。


 では、世界で一番おいしいパンとはなんだろう。


 誰もが一度は探しても見つからなかった答え。それはまるで子ども時代に探しに走った虹の端のようにないのかもしれない。


 けれど、彼女は知っている。世界で一番おいしいパンの作り方を。


 湯気と匂いに包まれる朝の食卓——そこから今日も一日が始まる。


「大変! 遅刻だー!」


 階段から聞こえてくる音は、一番忙しい朝の時間を知らせている。制服姿の少女は慌てて降りていく。


「もう何度も起こしたでしょ! こむぎ、早く朝ごはんを食べちゃいなさいよ」


「だって眠たかったんだもん……」


 しゃもじを片手に母が声を張り上げる。母の言葉に言い返せず、こむぎは縮こまって椅子に座った。


「おはようこむぎ。今日もどんぶりご飯か?」


「おはよう! だってお父さんとお母さんの作る米は世界で一番おいしいだもん!」


 優しげな目尻をした父から挨拶をされて、先ほどの落ち込みはどこへやら。こむぎが元気よくいう言葉に、父は照れくさそうにしながらも口元は緩んでいた。


「本当こむぎはお米が大好きね。小さな頃からどんぶりご飯だもの」


 母が置いた年季の入った茶碗は、こむぎくらいの年齢にはちょっと多すぎる気がした


「こんなおいしいご飯を沢山食べないなんて勿体なさすぎ。人生損してるって断言できるね。いっただきまーす!」


 そんな山盛りに添えられた白米に目をキラキラと輝かせると、手を合わせて一口ぱくり。


 噛むたびに、朝の光まで甘く感じられた。モチっとした粒が、胸の奥まで幸せを押し広げていく。


 ほんの少しのおかずを前にしても、減っていくのはご飯の方。夢中に食べていけば、10分もしない内に食べ終えたこむぎは手を合わせる。


「ごちそうさまでした! やっぱり日本人なら米よね!」


「ははっ、こむぎがお米好きで父さん達も作り甲斐があるってもんだ」


 こむぎの豪快な食べっぷりに父はまた笑った。お米の余韻に浸ろうとしていると、再び母の声が響き渡る。


「のんびりしない! 学校に遅刻しちゃうでしょ! 高校生になったばかりなのに遅刻をしたら恥ずかしいわよ」


「あっ! そうだった!」


 こむぎは慌てて買ったばかりの学生鞄を掴み、バタバタと音を立てて玄関へ向かう。しかし外に出る前に、ひょっこりと顔を覗かせた。


「いってきます!」


「いってらっしゃい」


 大事な挨拶を済ませた後、漸く高校へと行ったこむぎに母は軽く呆れながらも見送った。


 空になった食器を片付けようとしたとき、ラップに包まれた大きなおにぎりがひとつ。ぽつんと残されていた。


「あら、やだ。あの子ったらオヤツ代わりのおにぎりを忘れちゃっているわ」


 置かれたおにぎりが、まるで『忘れないで』と言っているかのように寂しげに見えた。

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