第5話 父と子と謎

 心に波紋を残したまま家に辿り着けば、普段は多忙な父親が珍しく先に帰って来ていた。


 真人の父、橘玄慧たちばなのくろえは現在、太政官で大納言を務めている。大臣と共に天皇を支える重要かつ大きな権力を合わせ持った官職。位階は正三位。


 三十六歳という若さでこの栄誉を得ているのは、ひとえに父親で左大臣の橘史麻呂たちばなのふみまろの七光のお陰。

 世間ではそう思われているため、実際には玄慧自身が相当な切れ者であることは見逃されがちだった。


「夕餉の後部屋に来るように」


 との言伝ことづてに、まさか今日の市でのことが耳に入ったのかと戦々恐々として向かったが、ゆったりと書に向き合う父親の姿に、怒りの兆候は見えなかった。


「真人でございます」


 許しを得て経机きょうづくえの前に腰を下ろす。

 静かに顔を上げた玄慧の目元が微かに和らいだ。


「大学寮はどうだ?」

「はい、楽しゅうございます」

「そうか。大伴中務卿なかつかさきょうの子息も入寮しているはずだが」

「はい。一颯殿とは共に課題をこなすことになりました」

「切磋琢磨できる相手がいることは、良きことだ。特に学生の間は」


 平素は厳格な表情を崩さない玄慧がほんの一瞬、懐かしむように笑みを見せた。


「知恵と人脈を得る良い機会でもある。これからも精進するように……田邉氏との攻防が佳境に入っている。は中務卿を大いに頼りにしている」

「……はい」

「それから……学友との他愛のない話でも、この父にとっては大事な事柄となるやもしれぬ。些細なことでも気になることがあれば教えて欲しい」

「心得ております」


 礼儀正しく頭を下げた真人だったが、「実は」と言って続けた。


「右大臣と聖樂博士の推挙で、小野悠月という学生が入寮しています。父親は大学寮の算道博士だったとか。もう亡くなられているようですが」


 そこまで話したところで、玄慧の様子がおかしいことに気づいた。

 目が大きく見開かれ呼吸が浅くなり、顔色がどんどん白くなっていく。


「……小野」

「ち、父上! お顔の色が優れぬようですが、お加減が悪いのでは」

「……大丈夫だ。続けてくれ」

「でも……」

「大丈夫だ」


 そう言い切った玄慧の呼吸は大分落ち着いてきていた。額の脂汗はそのままに先を促されて、真人は混乱したまま話を続ける。


「位階の低い出自の者が、特例で入寮したことに驚きましたので、ご報告をと思いました」

「小野悠月とやら、どのような男だ?」


 どのような……


 悠月を思い浮かべた途端に、とくりと胸が高鳴るのを覚えた。


 温かな笑顔に心が解け、秘めた熱意に己の浅ましさを突きつけられる。


 悠月という男は真人にとって、諸刃の刃となる危うい存在だった。


「物言いは柔らかですが、勉強熱心で芯のある男のように見受けられました」

「……そうか」


 頷いた玄慧は、既にいつもの父親の姿に戻っていた。

 冷静怜悧な眼差しに、先ほどのような感情は一切読み取れなかった。代わりに、思案の色が濃くなった。


「一颯殿と悠月殿は親密な様子か?」

「はい。恐らく、かなり親密な間柄かと」

「右大臣と聖樂博士の推挙と言っていたな」

「はい」

「悠月殿はどこから通っているかわかるか?」

「しかとはわかりかねますが、一颯殿と共に通ってきているようです」


 何か不味いことを申し上げてしまったのだろうか?


 これまでと違う父親の様子をいくつも見せられて、真人は驚き焦っていた。

 初めは、激務で急に体調を崩したのかと思った。だが、父親の変化を誘発したのは『小野悠月』という名前だったと思い至る。


 その後も悠月のことを尋ね、思案していると言うことは、玄慧と悠月の間に浅からぬ因縁があるのではないかと気づいた。


「父上?」

「ああ、すまぬ。能力と熱意ある若者に特例を設けて入寮を許すと言う大伴右大臣の試みは、意義深いことだと思ってな。これからは広く人材を集めることが必要になるだろう」


 何か隠していらっしゃる……


 直感的にそう思ったが、深く追求することは憚られた。真人は素直に頭を下げた。


「悠月殿のことは、時折教えて欲しい。有望な人材は大いに楽しみだ」

「はい、かしこまりました」

「真人、そなたもだぞ」

「は?」

「そなたのことも、この父は大いに期待しているし……誇らしく思っている」


 見上げた父の目が、いつになく温かく―――優しかった。


 

 

 次の日の夕刻、橘玄慧は左大臣、橘史麻呂の屋敷を訪ねた。表向きは珍しい形の青磁の壺を届けるため。


 だが実際には、人払いした部屋での密談のためだった。


「小野の子か。右大臣はどこまで知っているのか」

「わかりません。大伴中務卿が小野の母子を気にかけていたことはわかっていましたが、わざわざ表舞台に引っ張り出してくるとは思ってもみませんでした。私の油断が招いた事態です。ご心痛をおかけして、申し訳ございません」


「小野の小倅はそんなに優秀なのか」

「真人の話では見込みのある男のようです」

「ならば杞憂か……それともに気づいて揺さぶりにきたか」


 苛つきも隠さずに空へ問いかける史麻呂を見ながら、玄慧は忌まわしい過去を思い出していた。



『父上! 何故、広成ひろなりを殺めたのですか!』


 泣きながら責めた玄慧に、史麻呂は冷徹な声で言い放った。


小野広成おののひろなりは知ってはならぬことを知ってしまったからだ。天下を揺るがしかねない秘密をな』



 今では、その秘密を知る者は史麻呂と玄慧、二人だけのはず。墓まで抱えていくつもりだった。


 だがもし、小野の息子が秘密を知っていたら?

 それに大伴中務卿が気づいたら?

 右大臣に告げていたら?


 宮中は大荒れになってしまうだろう。

 

 それだけは絶対に避けなければならない。 

 だが、玄慧はどうしても、史麻呂のように非情にはなりきれなかった。


「広成が息子にを伝える時間は無かったと思います。何より、当時息子の悠月はまだ幼な過ぎた」

「だが、万が一」

「父上!」


 辺りの空気が一気に冷えたように感じた。

 己の腹から出た恐ろしいほど硬質な声に驚きつつも、玄慧は史麻呂を制した。


「今、小野の息子が消えたら事態は悪化するでしょう。先ずは全容を調べますので、しばし猶予を頂けたらと思います」

「……わかった。あまり時間を掛けぬように」

「はい。お任せください」


 玄慧は深々と頭を下げると、早々に屋敷を後にした。



 

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