5話 大いなる遺産
十二月末。
都心の大学病院研究棟・最上階。
如月教授の研究室には、暖房の低い唸りだけが静かに響いていた。
机の中央には、ひとつの深い緑──
コロンビア産ムゾー鉱山のエメラルド。
そして背後の壁には、アギトが手土産に置いていった
ロシア正教会の古いアイコン画が掛かっている。
市場に出せば一枚でポルシェが買える品。
だがアギトはそれを特別と思っていない。
「ロシアの家には、よくこんなのが飾ってあったからな」
──その“よく飾ってあった家”が、
どれほどの階級の邸宅だったかも知らぬまま。
蜜はエメラルドを指先で軽く回し、薄く微笑む。
「……やれやれ。“ロシアの手当て”って、そういう意味だったのね。」
味沢やパイカルの言葉が蘇る。
──ロシアは最高でしたよ。手当てもついたし。
アギト氏の話、色々と愉快で。
愉快。
その軽い表現の裏に潜んでいた現実に、蜜は苦笑した。
一般の駐在員の「手当て」で
宝石を“山ほど”日本へ送れるはずがない。
蜜は書類をめくる。
アギトがモスクワから送った荷物の記録──
キャビア。
毛皮。
年代物のワイン。
宝石類に古美術品。
正規の給料で手に入るはずもない。
「……地下闘技か。懐かしい響きね。」
外交官特権による税関フリー。
南米組織を経由した宝石ルート。
ロシア富裕層へ毛皮とキャビアの販売。
その裏で、アギトは──
覆面格闘家としてスペツナズ相手に“無双”を続けていた。
ロシアの地下闘技場でスペツナズが出てくるのは、
本来それ自体が“外道レベルのシグナル”なのに、
アギトのリングネームが「仮面ライダー」だなんて。
蜜はため息をつく。「やれやれだわ。」
まるで誰かのセリフだったが、本人は気づいていない。
「海上保安庁のエリートが、モスクワでマフィアみたいな真似をして……
それを呑気に“手当て”と言う辺り、本当に規格外ね。」
流れ込んだ金と物資の窓口こそ、
ラピスとラズリが属していた南米組織。
アギトは、国際犯罪の渦中に立ちながら
本人だけが完全に無自覚。
そこがまた、彼の危険で愛らしい部分だった。
蜜はエメラルドに視線を落とす。
美しい緑。
だが光の角度を変えると──
内部に“焼けた跡”が浮かび上がる。
武漢の生体エネルギー兵器が吹き飛んだ瞬間に刻まれた
“超高熱の痕跡”。
「……やっぱり、ただの宝石じゃない。」
アギトは気づかない。
パイカルも、蘭でさえも。
如月教授だけが、三人の“点”が
ひとつの軸に収束し始めていることを理解していた。
蜜は教授の椅子へ視線を向けた。
「さて……お父様。
この愉快な若者たちを、そろそろ一つに束ねる頃合いかしら。」
研究室に冬の白い光が静かに満ちていく。
⸻
◆ 同じ頃──横浜・横須賀の境界線
トレーラーハウスの畳ベッド。
アギトはラズリの髪を静かに梳いていた。
昨夜──
ラズリはアギトの上で兄ラピスの名を叫びながら
涙と共に果てた。
アギトは立ち上がると、
猫とお揃いで作ったエメラルドの付いたチョーカーを首に巻くと
素肌にブルックスブラザーズのボタンダウン、
リーバイス501を穿いた。
この土地を買ったのは海保時代のこと。
機密廃棄文書の中で“旧海軍地下施設”の存在を偶然見つけ、
その座標が──
まさにこの地だった。
それが破格値で出ていたのだ。“コスパ最高ォ”でこれほど面白いアトラクションも早々ないだろう。
興味本位の衝動買い。
電磁場測定器をマムートのバックパックへ入れ、
バラクーダのオレンジのジャンパー、
スピングルムーブのスニーカー、
ニットキャップ、防塵ゴーグル。
そして腰にはセラミック製のカランビットナイフ。
一見“アンバランスな探検スタイル”。に見えるが実用的で隙が無い。
床下の蓋へ手を伸ばした瞬間、
足元でグレーの猫が鳴いた。
ラピス。
ラズリがふと、猫の首元へ目を落とす。
黒い細紐。
そこに──小さなエメラルドが無造作にぶら下がっていた。
光が走り、石の内部に“焼けた筋”が浮かぶ。
ラズリの呼吸が止まった。
「……そんな……」
声にならない声。
アギトは気づかず、蓋を開けながら言う。
「ちょっと出掛けて来る。ラピス、頼んだ。」
「それからこれ。」
ワルサーP99を渡す。
「備え有れば憂い無しってね。笑
だが撃つ時は迷うな。」
猫は喉を鳴らした。
ラズリの瞳は静かに濡れ、
世界から音が消えた。
彼女が猫を抱き上げるのを確かめて、
アギトは床下へ潜る。
シートをめくると現れる巨大な蓋。
百キロを超える重量を、無造作に持ち上げる。
金属音が地下へ吸い込まれた。
梯子を降りる。
七十年を経ているはずの地下施設。
それなのに──空気は澄み、金属は酸化していない。
「これが……楢崎流風水か。
“暗殺風水”って噂はデマだったようだ。」
淡く呟き、
旧海軍の闇へと歩みを進める。
刑場の噂も、産廃処理場の噂も。
すべて、この施設を隠すための煙幕。
アギトは理解していない。
ただ、
“面白い場所を手に入れた”
程度の認識しかない。
それこそが──
彼の恐ろしさだった。
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