第3話 移民の子 猪八戒
猪八戒は三歳のときに、父と共に鬼の隠れ里にやってきた。
父は猪一族の男で、たくましい体躯と怪力を持っていた。鬼の言葉は片言しか話せなかったが、重い荷物を運び、力仕事をこなす姿は頼もしく、里の者たちに必要とされた。
「オマエ、コレ、モツ。ワカル?」
父の拙い言葉。猪八戒は小さく頷いた。
猪一族には独特の風習があった。男子は父親と暮らし、母親とは離れて育つ。猪八戒は母の顔を知らない。母がどこにいるのかも、生きているのかさえも、知らされていなかった。
「カアサン、ドコ?」
幼い猪八戒が尋ねたことがあった。
父は黙って首を振っただけだった。
それ以来、猪八戒は母のことを口にしなくなった。
猪一族の教育は厳しかった。厳しいというより、暴力的だった。
「ナニ、シテル!ダメ、ダメ!」
猪八戒が少しでも失敗をすると、父の拳が飛んでくる。
皿を割れば殴られ、言葉を間違えれば叩かれ、動作が遅ければ蹴られる。
「イタイ、コト、ワスレナイ。ダカラ、オボエル」
それが父の教育方針だった。子供を憎んでいるわけではない。猪一族では、痛みを通して学ぶことが当然とされていた。
猪八戒は泣かなかった。泣けば、さらに殴られるから。
ただ、じっと耐えた。
四歳のある日、猪八戒の顔に痣があるのを、里の女性が見つけた。
「これは……どうしたの?」
「……転びました」
猪八戒は嘘をついた。父を悪者にされそうだったから。
だが、女性は気づいていた。
「あの父親、また……」
里の人々は猪八戒を庇おうとした。
「子供を殴るなんて、ひどい」
「何とかできないものか」
しかし、父は言った。
「コレ、ワタシノクニ、ヤリカタ。ワルイコト、シテナイ」
他族の文化――それを盾にされると、里の者たちも強く言えなかった。近年、鬼の里は他種族の移民を受け入れはじめている。他の文化を尊重しなければ、共存は成り立たない。
里の人々はできる限り猪八戒に優しく接した。
「八戒ちゃん、お菓子あげるよ」
「怪我してる?手当てしてあげようか」
そんな温かさが、猪八戒の小さな心を支えていた。
五歳になった猪八戒は、新たな苦労を背負うことになった。
「オマエ、ワタシ、ツウヤク、スル」
父が里で仕事を増やすにつれ、言葉の壁が問題になっていた。そこで父は、猪八戒を通訳として連れ回すようになったのだ。
「お父さんは、これをどこに運べばいいか聞いています」
「お父さんは、報酬の交渉をしたいと言っています」
猪八戒は必死に言葉を覚えた。鬼の言葉、猪の言葉、そして里に住む様々な種族の言葉。間違えれば、また父に殴られる。
学校に通う時間はなかった。友達と遊ぶ時間もなかった。
朝から晩まで、父の仕事に付き添い、通訳をする。家に帰れば、食事の支度、洗濯、掃除――すべて猪八戒の仕事だった。
「オマエ、ベンキョウ、イラナイ。ワタシ、テツダウ、ダイジ」
父の言葉は絶対だった。
猪八戒は自分で本を読んで勉強した。仕事の合間に盗み見た看板の文字、市場で聞こえてくる会話、それらすべてが教材だった。
語学の才能があったのだろう。猪八戒は驚くべき速さで様々な言語を習得していった。
だが、それは生きるための手段でしかなかった。
七歳の冬、猪八戒の人生は大きく変わった。
父が、里の若い娘と駆け落ちしたのだ。
猪一族においては、七歳は一人前の男。親離れの時期であった。しかし、猪八戒は里の社会で育った。当たり前のこととしては受け止められなかった。
父が残したのは、わずかな金と、ぼろぼろの家だけだった。
「待って、お父さん……」
猪八戒は初めて泣いた。
暴力を振るう父だったが、親子の情愛はあったと思う。唯一の家族だった。母も知らず、父にも捨てられ、猪八戒は天涯孤独の身となった。
近所の人々が心配して訪ねてきた。
「八戒ちゃん、うちで暮らさないか?」
「何か困ったことがあったら言ってね」
だが、猪八戒は首を振った。
「大丈夫です。一人で暮らせます」
七歳の子供が、一人で生きていかなければならない。
猪八戒は父の仕事を引き継ぎ、力仕事をして金を稼いだ。小さな体で、大人の荷物を運ぶ。猪一族の怪力が、そこで役に立った。
夜、一人きりの家で、猪八戒は思った。
――僕は、誰からも愛されていない。
ただ、使われるだけの存在。
それでも、生きていかなければならない。
ある日、里中に知らせが届いた。
「長に娘が生まれた!」
「次期長の誕生だ!」
里は祝福ムードに包まれた。そして、驚くべき知らせが続いた。
「早くも婚約者候補を募集するそうだ」
「幼い頃から共に育て、次期長を支える者を探している」
婚約者候補――それは、次期長の夫となり、里の重要な地位につくということだ。
多くの応募者が名乗りを上げた。純血の鬼の若者たちも、我こそはと立候補した。
猪八戒も、応募した。
生きるためだった。婚約者候補に選ばれれば、住む場所と食事が保証される。それに、幼い次期長の世話や教育を担うなら、猪八戒の語学力も役に立つだろう。
ただの就職活動。それ以上でも、それ以下でもないと思っていた。
選考の日、多くの候補者が集まった。
純血の鬼の若者たちは、皆立派な角を持ち、堂々としていた。その中で、猪八戒は異質だった。他族の血を引く孤児。
だが、試験が始まると、状況は変わった。
「では、この文章を三つの言語で読んでください」
試験官の問いに、多くの候補者が苦戦する中、猪八戒は流暢に答えた。
身体能力の測定では、猪八戒の怪力と俊敏さが、評価された。
また、猪八戒の容姿は審査官の目をひいた。
「……なんと美しい」
猪八戒は、父の暴力によって体は傷跡だらけだったが、顔立ちは驚くほど整っていた。長い睫毛、澄んだ瞳、整った鼻筋――まるで絵画から抜け出したような美貌。
そして、結果が告げられた。
「猪八戒、あなたを婚約者候補の一人とします」
婚約者候補に選ばれた猪八戒は、長の屋敷で暮らすことになった。
他にも何人か候補者がいたが、猪八戒は教育係を兼任し、次期長の側近として仕えることになった。
「こちらが
長が抱いているのは、まだ赤ん坊の女の子。額に小さな角を生やし、大きな瞳でこちらを見ている。
「……よろしくお願いします」
猪八戒は丁寧に頭を下げた。
最初は、ただの仕事だった。安仁の世話をし、言葉を教え、礼儀作法を教える。
だが、安仁が成長するにつれ、猪八戒の気持ちに変化が現れた。
安仁は、猪八戒が想像していたよりもずっと活発で、いたずら好きだった。
「八戒、これ見て!」
三歳になった安仁が、得意げに何かを見せてくる。見れば、猪八戒の大事な本に落書きがしてある。
「安仁様!これは……」
猪八戒は怒ろうとした。だが、安仁のきらきらした瞳を見た瞬間、言葉が止まった。
「……可愛い絵ですね」
つい、そう言ってしまう。
安仁は嬉しそうに笑った。
「じゃろ?八戒、好きだと思ったのじゃ!」
その笑顔に、猪八戒の心は温かくなった。
四歳になった安仁は、さらにわんぱくになった。
「八戒、勉強は嫌じゃ!遊ぶぞ!」
「安仁様、今日はお勉強の時間です」
「嫌じゃ嫌じゃ!」
安仁が駄々をこねる。猪八戒は困ったように眉をひそめるが、その仕草すら愛おしく思えてしまう。
「……では、少しだけですよ」
「やった!」
安仁が飛びついてくる。その柔らかな感触に、猪八戒は胸が締め付けられた。
――ああ、この子を守りたい。
いつの間にか、そう思うようになっていた。
五歳になった安仁は、猪八戒にべったりだった。
「八戒、これ読んで」
「八戒、遊ぼう」
「八戒、一緒に寝てほしいのじゃ」
甘えてくる安仁。猪八戒は、その度に心が満たされていくのを感じた。
父から受けた暴力の記憶が、少しずつ薄れていく。
誰からも愛されないと思っていた自分が、この子に必要とされている。
「八戒は、儂のこと、好きか?」
ある日、安仁が尋ねた。
猪八戒は優しく微笑んだ。
「はい。大好きですよ、安仁様」
「儂もじゃ!八戒、大好きじゃ!」
安仁が抱きついてくる。
猪八戒は、その小さな体を優しく抱きしめた。
――幸せだ。
初めて、心からそう思った。
ある日、長が猪八戒を呼んだ。
「猪八戒、お主は本当によくやってくれておる」
「恐れ多いです」
「安仁は、お主が大好きじゃ。そして、儂もお主を信頼しておる」
長は優しく微笑んだ。
「この分だと、お主が安仁の夫になるかもしれぬな」
夫――その言葉に、猪八戒の心が高鳴った。
最初は生きるための就職活動だった。
だが、今は違う。
本当に、安仁と共に生きたいと思っている。
この子を守り、支え、幸せにしたい。
そして、自分も幸せになりたい。
「精一杯、努めさせていただきます」
猪八戒は深く頭を下げた。
その夜、安仁が眠る姿を見つめながら、猪八戒は思った。
父に捨てられ、一人ぼっちだった自分。
だが、この子に出会えた。
暴力しか知らなかった自分が、愛することを学んだ。
「安仁様、僕が必ずあなたを幸せにします」
小さな寝息を立てる安仁の頭を、猪八戒は優しく撫でた。
――これからは、この子のために生きよう。
猪八戒は、新しい未来を見つけた。
暗い過去は消えない。傷は残っている。
だが、それでも前を向いて歩ける。
なぜなら、大切な人ができたから。
守りたい人ができたから。
そして、自分を必要としてくれる人がいるから。
月明かりが、二人を優しく照らしていた。
猪八戒の新しい人生は、今、始まったばかりだった。
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