第23話 1/3
月と星の輝く夜明け前の暗い空、薄っすらと東の水平線に光が差し込み始める早朝――大きな鳥人形の背に乗って空を翔けるソウタ達一行はリーミンから約四十時間ほどを掛け、四ヶ月ぶりにそびえ立つ天星樹をその視界に捉えていた。久しぶりに見るその大樹はまだ一時間ほど掛かる距離にありながらも植物とは到底思えない常識外れの堂々たる威容をありありと見せつけていた。
一体何年ぶりに目にしたのか、感慨深そうに天星樹を見つめているイリシオスにソウタは少し野暮かと思いつつもある疑問を投げ掛けた。
「あの、感慨に浸っている所申し訳ないんですが……この島が外から見えなくなるのも神吏者の技術なんですよね、どういう仕組みなんですか?」
ソウタの声にイリシオスはほんの少し振り返るとまた天星樹へ視線を戻し、やや間をおいていつもと変わりない淡々とした様子で答えを返した。
「……簡単に言えば……見えない壁のようなもので通過する光を選別している……厳密にはもっと複雑な話になるが……」
何ともふわっとしたイリシオスの返答になるほど……、と相槌を打ちながらもやはりソウタにはよく分からなかった。通過する光を選別する壁……つまりAの光は通すがBの光は通さないという事。もしその言葉通りなのだとしたら壁の内と外で飛び交う光量に差が生じる事になる。視覚的には外から壁の内部を見ると薄暗くなったり風景が歪んだりなど違和感が生じてもおかしくないと思うのだが、この結界はそうした違和感を一切感じさせていなかった。
自然な風景に手を加え改竄していながらもなお自然なままに見せる……光すらも複雑かつ精緻に御する神吏者の計り知れない技術力の高さにソウタは改めて畏怖の念を抱くのだった。
余りにも大きすぎて距離感がバグる天星樹を目指し飛び続ける事約一時間……ソウタ達はようやく聖域の島に近付き、島を出る時に使った洞窟は通らずにそのまま外周を取り囲む山を飛び超えて直接島内へと侵入した。生い茂る森の上からではどこに何があるのか全く分からない為、ソウタはとりあえず所在の分かるベッキーの元へ置いていった依代の位置を頼りに隊員達のいる拠点を目指す事にした。
おそらく森番の人達の警報と思しき笛の音を聞きながら森の中にポッカリと空いた小さな枝葉の隙間へと降りていく。屋根の崩れた建物の前、落ち葉をかぶったワゴン車のような大きなコンテナが鎮座する切り出された白いレンガの石畳の上にドスッと鳥人形が降り立つと、笛の音と張り詰めた森の空気に飛び起きてきた一人の隊員が建物から顔を出し大きな白い鳥の上に立つソウタと目が合った。寝ぼけているのか束の間己の目を疑い呆然と固まっている隊員にソウタが微笑みかけてみると、隊員の固まった表情はすぐさま歓喜の様相へとみるみる変化していった。
「……か……帰ってきた……帰ってきたッ! 皆起きろッ! ソウタさん達が帰ってきたぞッ!?」
まだ日の出前の静まり返った森に隊員の声が響き渡ると、眠い目を擦りながらぞろぞろと他の隊員達も姿を見せ静寂は一気に賑やかな喧騒に包まれた。旅の出発前、痩せこけ衰弱しきっていた隊員達はしばらく見ない内にガッシリとした健康的な体格を取り戻し、皆顔色も良くすっかりと体調を回復させているようだった。
元気そうな隊員達を見てソウタが安堵に胸を撫で下ろしていると、この四ヶ月間ずっとただの飾りと化していた耳飾りからも懐かしい声が聞こえてきた。
「――かえっ……帰ってきたっ? ッ――――、ソウタン! ウッシー! おかえりぃぃぃぃッ!?」
「ベッキー、すいませんお待たせして……只今戻りました」
省エネモードから再起したベッキー他隊員達の熱烈な歓迎を受けながらソウタは足元に手を付き上に乗ったまま巨大な鳥人形を袖の中へと回収していった。シュルシュルと縮んでいく人形から四人全員が地面に降り立つと早速、コンテナのカメラに覆い被さっていた葉っぱをアームで払い除けたベッキーから疑問の声が上がる。
「――……あれ……ソウタンとウッシーと……そちらの二人はどなた……てか一人足りなくね……?」
「まさか、旅の途中で何か……トラブルが……」
「バカ……ッ、そんなわけ……」
もう一人……顔を半分覆い隠した秘書、ソウタの兄ソウマの姿が見えない事に不安な表情を見せる隊員達にソウタは穏やかな笑みを浮かべながら大丈夫だと声を掛けると手短に事情を説明した。
秘書の無事を知り隊員達が安心する様子を見届けるとソウタは唐突に上を見上げ、まだ暗い樹上からこちらを見下ろしている見張りの森番に大きな声で呼び掛けた。
「朝早くにすいません、ガルドと長のお爺さんへ伝言をお願い出来ますか! ”神吏者を連れてきた”と!」
ソウタからの突然の呼び掛けを聞くと樹上の森番達はにわかにざわつき、すぐさま数人の内の一人が集落の方向へと駆けていった。まだ暗いであろう樹上を素早く軽やかに駆けてゆく人影を目で追いしばし見つめていると、そんなソウタへ隊員の一人から恐る恐る質問が飛んできた。
「か、神吏者……では……この方々が例の…………あの、その頭の上の小さい女の子は……?」
屈強な大男と車椅子の男、そしてソウタの頭の上に鎮座する風の妖精スイカを見つめゴクリと息を呑む隊員達を見てソウタは思わずふふっと口元をほころばせた。
「そっちの大きいのはミルド、ぼくの人形です。この子はスイカ、風の妖精です。神吏者は車椅子のこの人……紹介します、イリシオスです」
ソウタの紹介を受け隊員達は車椅子の男を見ておお……と慄いていた。が、それよりもどこからどう見ても人間にしか見えない大男ミルドと妖精スイカの方にばかり関心が集まっていた。当のイリシオスも隊員達には特に興味ないようで一人静かにベッキーのコンテナをじっ……と見つめている。
特に必要もなさそうなのでイリシオスへの隊員達の紹介はすっとばす事とし、ソウタはスイカと自己紹介をし合っている隊員達の中から一番身体の大きい隊員の顔を見上げ不意に声を掛けた。
「ぼくらが留守にしていた間のそちらのお話も聞かせてもらえますか?」
「あ……はい!」
集落へ伝令に言った森番が戻るまでの間、ソウタは隊員達から任せていた任務の経過報告を受けた。ガルド達森番の人達と信頼関係を築け、という任務である。
森番の長が帰還方法について何か心当たりがあり隠している事がある……とオーラを見て看破したソウタがそれを聞き出す為、彼らとの信頼関係を構築しておいて欲しいと頼んだものであったが、結論から言うと経過は順調との事だった。
始めこそ積極的に声を掛けても無視され誰にも相手にしてもらえず頭を抱えたそうだが、そんな時交流の糸口を作ってくれたのがガルドだったという。
鍛錬に付き合えという名目で強引に広場に連れて行かれ、文字通り朝から晩まで嫌がらせか憂さ晴らしかと思うほどにメタメタに叩きのめされたらしい。しかしどれだけボコボコにされても弱音も泣き言も言わず、ガルドに立ち向かっていく隊員達の事を徐々にガルド周辺の若い男連中が認めてくれるようになり、それから少しずつ話をする機会を作れるようになっていったとの事だった。現在ではガルドとの鍛錬のみならず、時々畑仕事や漁の手伝いに誘われる事もあり食材を分けてもらえるなどの嬉しいやり取りもあるのだそう。依然監視は付いているし警戒や懐疑的な考えの森番も当然多くいるのだが、敵視されていた四ヶ月前に比べれば随分と柔和な対応を期待できる程度にはなってきた……と朗らかに報告は締めくくられた。
隊員達の表情も皆それぞれ明るく前向きであり、纏うオーラも以前とは比べ物にならないくらい力強く心身共に成長している様子が窺えた。
すっかり大きな恩が出来てしまったなと穏やかな笑みを浮かべているとそこへ……何かが猛烈な勢いでこちらへ近付いてくる気配を感じ集落の方へ目を向けてみると、ソウタの名を呼ぶ件の恩人の大きな叫び声が森に響き渡った。
「ソウタ! 待ちわびたぞ、よく戻った!」
「ガルド、お久しぶりです」
嬉しそうに駆け寄ってきたガルドと再会の挨拶もそこそこに、二人はすぐ傍らでコンテナを見つめ佇む車椅子の男へ視線を向けた。
「神吏者と言うのは……その男か……?」
「はい……名前はイリシオス、彼が神吏者です」
隊員達にしたのと同じようにガルドにも紹介すると突然、それまで誰にも興味を示さずコンテナだけ見つめていたイリシオスは車椅子を回転させ振り返ってガルドへその虚ろな視線を向けた。何か声を掛けるわけでもなく、ただ無感情に向けられるイリシオスの瞳にガルドは静かに息を呑んだ。
「……間違いないか」
囁くような確認にソウタが頷いて答えるとガルドも頷いて返しすぐさま踵を返した。
「よし、すぐに長の元へ向かうぞ」
忙しなくすぐに来た道を戻るガルドをよそにソウタは隊員達にここで待つように告げ、次いで依代を一枚取り出しながら車椅子のイリシオスへ向き直り一体の下級人形を作り出した。
「森の中は車椅子だと足場が悪いので、人形で運びますね」
「ああ……よろしく頼む」
低い声でそう答えながらイリシオスはソウタの方には目もくれず、その虚ろな視線は真っ直ぐにガルドの背中を見つめていた。
隊員達を拠点に残し集落に向けて森の中を進む道中、歩きながらソウタはガルドに隊員達を気にかけてもらったお礼の感謝を伝えた。大した事はしていない、と口ではそっけなく返しながらもガルドは少し気恥ずかしそうにオーラを揺らしていた。クールを気取りたい恩人にソウタが生暖かい目を向けニヤニヤしていると、ガルドはそんなソウタをジロッと一瞥し至極面白くなさそうに話を逸した。
「それにしても……お前少し見ない間に様子が変わったな……強くなったか?」
「……そうですか? そういうガルドこそ」
ソウタはオーラで、ガルドは直感で、お互いの成長を感じ取り不敵な笑みを交わすとガルドは今度こそ負けん、と再戦の意気込みを口にした。
薄暗い森の中をやや早足で進み白い石の拠点から集落への道のりの半分ほどを進んだ頃、進行方向から近付いてくる樹上の人影からガルド! と若々しい女性の声が降ってきた。どうやら先程集落へ伝令に向かった人が戻ってきたようである。
ソウタ達一行が足を止めると女性は近くの太い枝の上に立ち止まり、そのまま地上には降りず樹上からガルドへ声を掛けた。
「長と村の人には伝えてきた!」
「ご苦労、お前達も集まれ!」
ガルドと短く言葉を交わすと女性は小さく頷き、また素早く軽やかに樹上を駆けてソウタ達の歩いて来た道の方へと走り去っていった。
再び歩き出し白んだ空がもう間もなくの日の出を告げようかという頃、ソウタ達はガルド達聖域の番人が暮らす集落へと辿り着いた。
かつて、初めてここを訪れた時この集落は人の気配のない酷く閑散とした寂しい場所だった。しかし四ヶ月ぶりに訪れてみると集落には無数に住人と思われる人々が立ち並び、武器を手に険しい表情でソウタ達の事を待ち構えていた。その鋭い視線とオーラには明確な敵意が見て取れる。家屋の外に出ているのは男性のみ、だがよく見ると小さな窓や戸の隙間から女性や子供がこちらを覗き込んでいる様子も窺えた。
屈強な男性達が集落の入口に立ち塞がっておりとても神吏者を歓迎しに集まった……とは思えない張り詰めた空気にソウタが懐かしさと共に緊張を走らせていると、一歩前に歩み出たガルドが強めの語気で村人達をいさめた。
「お前ら……馬鹿な真似はするなよ」
ガルドから発せられる怒気に集落の番人達は皆一様に怖れ怯み息を呑んだ。体格だけ見ればガルドより大柄な人はいくらでも見受けられるのだがやはりガルドが彼らの中で一番強いらしい。
圧倒的な威圧感を見せつけるガルドを前に、入り口に立ち塞がる男性達の内の一人が勇気を振り絞って口を開いた。
「……しかしガルド……そいつらは……」
「黙れ」
精一杯に振り絞ったなけなしの勇気はたった三文字の一言によって呆気なく切って捨てられた。ガルドの眼光が更に鋭さを増す。
「成すべき事は長が決める、それが我等の掟だ……そこを退け」
問答無用と凄みを増すガルドの鬼の形相に屈強な男達はそれ以上何も言えず……納得行かないという表情を浮かべながらも渋々集落への道を開けた。
以前はいなかった番人達の恨めしそうな表情を見渡しながらソウタはガルドの背中へ小さく声を掛ける。
「……ガルド、彼らは?」
ソウタの声にガルドは一瞬だけ視線を向けすぐに前へ戻すと険しい表情のまま答えた。
「……白団子との戦闘で怪我を負った者達だ……前回お前が来た時は女子供と一緒に別の場所へ避難させていた」
「……なるほど……」
その返答を聞いてソウタは申し訳無さそうに目を伏せた。第一次と第二次調査派遣の際、調査隊員達に付けていたソウタの人形達と聖域の番人達との間で戦闘が起こり多数の負傷者を出す結果となってしまった。隊員達を守る為に付けたものであり決して意図したものではない……が、何れにせよソウタの人形が彼らに多大な迷惑を掛けてしまった事に変わりはない。
いまだ根強い番人達の敵意の理由に納得のいったソウタは番人達の突き刺すような視線を甘んじて受け入れ、長の待つ集落の最も奥に佇む道場のような建物へとゆっくり歩を進めるのだった。
集落の一番奥、三度訪れた道場のような建物にも多くの番人達が所狭しと詰め掛けていた。以前と比べると三倍から四倍は居るだろうか……皆一様に表情は険しくソウタは初めて訪れた時の事を思い出す。長の前に空いた僅かなスペースにソウタ達が立つとまたたく間に出口を塞がれ、道場のような建物は何とも息苦しい雰囲気に包まれていた。
周囲の男達が殺気立つ一方、既に面識のある長は以前と変わらず穏やかなオーラに身を包んでいた。胸の内でホッと一息吐き静かに呼吸を整え一礼すると、ソウタは礼儀正しく長へ声を掛けた。
「ご無沙汰しております、つい先程戻りました。以前約束させて頂いた通り、神吏者をお連れしました……イリシオスです」
ソウタは視線で車椅子の男を示しながら彼を番人達へ紹介した。詳しい事情までは聞いていないが待ち望んでいた神吏者との邂逅である、一体どんな反応が見られるのかとソウタが様子を窺っていると……周囲の番人達からは意外な声が聞こえてきた。
「……嘘だ」
「ありえん……」
「居るわけがない……」
「……どうせ偽物だ」
「我等を謀る気なのだ……」
声を潜め疑念を撒き散らす番人達の不満は次々に伝播し立ちどころにどよめきへと変わっていった。やはりこいつらは敵だ、今すぐ殺すべきだと武器を掲げいきり立つ番人達を前にソウタが袖の中で静かに依代を握りしめていた……次の瞬間――
「――喧しい」
喧騒の中にあって尚はっきりと耳に届く、ズンッと腹に響くようなとても老人から出たとは思えない低く野太い鶴の一声によって番人達の紛糾は一瞬にして鎮められた。途端にシンと静まり返った議場に今度は穏やかな長の声が染みわたる。
「儂が話す……お前達は黙っておれ」
静かに憤る長の言葉を受け番人達は一人、また一人と腰を下ろしようやく落ち着いて話の出来る場が整うと、長はしばしイリシオスを見つめ傍らに立つソウタへ問い掛けた。
「……その御仁が……神吏者様か?」
神吏者の存在はおとぎ話だと言っていた通り、やはり長も姿を見ただけでは本当に神吏者なのか判別は付かないようだった。一見すれば無愛想で白髪頭のただの華奢なおじさんである……無理もない。
実際問題これについてはソウタも気にはなっていた。すなわち、”如何にして神吏者であると証明するのか”……である。
神吏者のものとされる落ちた星やリーミンで見たイリシオスの住まい、幅広い知識と膝掛けの下の砂のように崩れ落ちた下半身など……ソウタにしてみても状況的に彼が神吏者であると思い込まされているだけと言われれば反論は難しかった。人間とは違うという事が分かるだけでイコール神吏者、と言うのは無理があるといえばその通りである。
長からの問い掛けに頷いてはい、と答えるとソウタは程なくしてその疑問の答えを実際に目の当たりにする事となる。
「……恐れながら……貴方様が本当に神吏者様であるのか……どうか、我らにお示し頂けませんでしょうか」
「……証明か……」
多数の番人達が固唾を呑んで見守る中、長からの申し出にイリシオスは虚ろな瞳を向けるとカサついた唇を面倒くさそうにゆっくりと開いた。
「――――――」
イリシオスの口から発された”それ”を、ソウタは最初人の口から出たものだと認識できなかった。よく分からない変な音を出したイリシオスにソウタが怪訝な目を向けた直後――ザザザザ……ッとその場にいた番人達は完全に同時に、一人の例外もなくまるで土下座でもするかのように頭を垂れてひれ伏していた。全方位をグルリと取り囲む彼らのその頭はまっすぐイリシオスへと向いている。
余りに突然に、長やガルドまでもが同じように地に伏すという異様な光景にソウタは周囲を見渡しながら驚愕し言葉を失っていた。番人達も何が起こっているのか分かっていないようでそのオーラには困惑の様子がありありと浮かんでいる。
一体何が起きたのか……ソウタは隣に佇む車椅子の男へすぐさま問いただした。
「な……何を……何をしたんです? 今の音は……?」
動揺するソウタをよそにイリシオスはいつも通り何も変わらず無感情なまま、平然と正面でひれ伏している長の事を見つめながらその問いに答えた。
「……『オルコス』……彼等にだけ通じる呪文のようなものだ」
「……彼等に、だけ……?」
一体どういう事かと問い詰めるソウタにイリシオスは一切微動だにしないまま淡々と説明を続けた。
「この者達は……かつて神吏者が労働力として従えていた者達の末裔だ……まさかまだ生き残り……言い付けを守り続けているとは思わなかったが……」
神吏者がかつて労働力として従えていた……その言葉を聞くやいなやソウタはイリシオスに対し露骨に嫌悪感を露わにした。
「……神吏者の奴隷……という事ですか」
「……そう思いたければそれでもいい……人間を天星樹に関わらせる以上……何かしらの拘束は必要だった……」
そう言うとイリシオスはまた理解の出来ない音を短く発し、それと同時にひれ伏していた番人達は金縛りが解けたように揃って頭を上げた。未だ自分の身に何が起こったのか分からず困惑している番人達を見渡しガルドと顔を見合わせると、ソウタは更にイリシオスへ追求を強めた。
「……そこまでして、なぜ労働力が必要だったんですか?」
かつてこの世の全てを意のままに操ったと言い伝えられているほどの大きな力を持っていた神吏者……それ程の者達が一体何の為に労働力を必要としていたのか、ソウタの厳しい追求にイリシオスは表情はそのまま過去を思い返すような遠い目をして語り出した。
「……我々は……我々自身を何よりも警戒していた……それ故に我々は人口を必要最小限に留め……感情や本能、欲望すらも……徹底して管理下に置いた……だが……」
言葉に詰まると遠い目からやや視線を落とし、イリシオスは悩ましげに話を続けた。
「そうするとどうしても人手は不足する……それを補う為……当時の一部の人間に協力を持ち掛けたのが始まりだ……我等は知恵を……彼等には労働力を……互いの持ち得る力を取引したものであり、隷従させていたわけではない」
あくまでも奴隷とは違うと珍しく言い訳のような口ぶりで語り終えたイリシオスにソウタはまだ怪訝な目を向け続けていた。あんな些細な発音一つで屈強な男達が成すすべ無くひれ伏し、抵抗の声を上げる事も出来ない程の絶対的な強制力……支配者の側からすれば何とでも好きに言える話である。
拭いきれない嫌悪感を胸に抱えたまま、ソウタは最後にもう一つだけ尋ねた。
「……彼らへの言い付けというのは?」
「……『天星樹を守れ』、だ……これで証明は済んだか」
ソウタとのやり取りを一方的に切り上げイリシオスの方から長へと声を掛けると次の瞬間、それまで怒気と不満に満ちていたはずのその場の空気がまるで綺麗に洗い流されるかのように一瞬にして変わるのをソウタは肌で感じた。ドロドロとまとわりつくような警戒せずにはいられない居心地の悪さから一転、今度はさながら古い仏殿の中に一人立っているかのような厳かな空気がその場を満たしていく。
誰からともなく手にしていた武器を置き姿勢を正してイリシオスを見据えると、番人達は誰に命じられる事もなく揃って再び頭を垂れひれ伏してみせた。静まり返った議場に長の口上が響き渡る。
「間違いなく、御身は我等が主……長きに渡り、ご帰還を心よりお待ち申し上げておりました……」
一人の例外もなく、自らひれ伏した番人達を見てソウタは驚くと共に理解できず困惑していた。
番人達とイリシオスとはつい今しがた初めて会ったばかり、完全に初対面のよく知らない赤の他人である。姿を見ても神吏者とは分からず、おまけによく分からない力で無理やり跪かされた得体の知れないこの怪しげな人物を、彼らは一瞬にして主人だと認め自らの意思でひれ伏してみせた。彼らのオーラを見てもそこに不満や反感の色は露ほども見られず、心からイリシオスの事を認めているようだった。神吏者を主人とする心に嘘偽りはなく、彼らにとって忠誠は誇りなのだと……ソウタはガルドや眼前の光景を見てまざまざと思い知らされていた。
それはまさに『神』……もはや信仰と言っても過言ではない未知の世界を垣間見て絶句しているソウタを尻目に、イリシオスは相も変わらず淡々としたまま一人で話を進め始めた。
「早速だが……『中央部』へ向かいたい」
「はっ、直ちにご案内致します」
「(中央部……?)」
一人蚊帳の外に追いやられたソウタが初めて耳にする言葉に胸の内でハテナを浮かべていると、番人達は急に立ち上がり長を先頭にどこかへと移動を開始した。
議場を出ると建物に入り切らなかったその他の番人達も跪いてイリシオスの為の道を作っていた。家屋の中に隠れていた女性や子供達までもが外へ出て理路整然と並び主人への忠誠を示している。
長の後を着いていくイリシオスの更に後ろを歩きながらソウタはさっきまでとは別世界のような集落の光景を眺め、改めて車椅子に座る男の後ろ姿に視線を向けた。
「(洗脳でも操られているわけでもない、純然たる彼らの意思だ……神吏者……彼らにとってはこれほどの存在なのか……)」
心の中で呟きながらソウタは神吏者という存在に対する認識と向き合い方について、見直す必要があるのかも知れない……と一人小さくため息を零すのだった。
集落から出ると長は地下牢や円形広場のある方向へと進んでいった。ぞろぞろと列をなし地下牢の近くを通り過ぎるとやや左へと進路を曲げ尚も進んでいく。真っすぐ進んでいれば円形広場に辿り着いていた。カルガモの親子のようにゆっくりと、長の後に続く一団は徐々に天星樹から離れていった。
そろそろ日の出を迎えようかという空を見上げソウタが明け方の少しひんやりとした爽やかな森の空気を肺いっぱいに満たして気持ちよく深呼吸していると、やがて森が開け白い大きな正方形の石畳の敷かれた空き地へと辿り着いた。石畳の向こう側には同じく白い石の墓石のような背の低い石柱が一本、寂しく佇んでいる。振り返ってみると石柱、石畳、天星樹がまっすぐ直線状に並んでいるようだった。
そのまま墓石のような石柱の側まで来ると長はおもむろに振り返り石柱を示しながらイリシオスへ頭を垂れた。ソウタ含め大勢の番人達が見守る中イリシオスがその石柱に躊躇なく左手を乗せると次の瞬間、ただの石柱の表面に光の筋のような模様が浮かび上がりそれと同時に地面が小刻みに揺れだした。突然の地震に慣れていないのであろう番人達がざわざわとどよめいていると突然、石畳だと思っていたものがゴゴゴゴ……と音を立ててせり上がり始めた。
何十秒か掛けてせり上がりやがて石畳の動きが止まると石柱の側に立つソウタ達の目の前には巨大な壁……ではなく大きな穴が空いていた。ポッカリと口を開けたその穴の中には地下へと続く階段が見える。
「隠し階段……」
超自然主義的なこの森の中でこんな仕掛けを目にする事になるとは思っていなかったソウタが慄く一方、その傍らでは長がガルドに声を掛けていた。
「ガルド、お前も来なさい……他の者はここで待っておれ」
驚きの余り開いた口が塞がらないと言った様子でせり上がった石畳を見上げていたガルドは長の言葉にもまた驚き呆然とした表情を向けた。
「……俺も行って良いのか?」
「……次の長にはお前を指名しようと思うておる、良い機会じゃ……お前も見ておきなさい」
長からの思い掛けない言葉に周囲の番人達からおお……! と歓声が上がると、ガルドは緩んだ気を引き締め直し階段の奥に佇む暗闇を鋭く見据えた。
ここからはイリシオスを先頭に地下十メートル程まで階段で降りていくと、その先は天星樹の方に向かって一直線の通路が伸びていた。切り出された白い石で出来た通路は薄暗くも壁に光の筋が走り最低限の明かりを提供してくれている。
何もない通路をゆっくりと歩きながらソウタはふと長へ声を掛けある事を尋ねた。
「あなたが隠していた心当たりというのは、この隠し通路の事ですか?」
四ヶ月前、初めて対面した際にソウタがオーラを見て看破した長の嘘、帰還方法に関する心当たり……尋ねられた長はちらりとソウタを一瞥すると小さくため息を零しつつも潔く認めた。
「……いかにも……とはいえ、代々長となる者が”こういうものがある”と口伝で継承してきただけのもので、儂も実際に目にするのは初めてじゃが……」
「そうでしたか……(なるほど……関係値を築いた所で聞き出せるものではなかったな……)」
相槌を打ちつつこの地へ残していった隊員達に課した任務が結果として地球への帰還には繋がらないものだったと判明したものの、ごく一部でも聖域の番人達との良好な関係を築けた事はきっと無駄ではないとソウタは前向きに捉え隣を歩くガルドに笑顔を見せた。
「……何だ急に」
「いえ、何でも」
「……やはり少し変になったな、お前……」
ガルドに呆れた目を向けられながら、着々と歩を進めるソウタ達はやがて通路の終わりをその視界に捉えていた。
辿り着いた長い通路の先には円柱形の丸い部屋があるだけで行き止まりとなっていた。直径にして約五十メートル程の、白い石畳がバームクーヘンのように敷き詰められたまっ平らな部屋を見てソウタは既視感を覚える。
「ここ……地上の広場みたいですね」
中央に向かって歩きつつソウタが見覚えを口にするとガルドが来た道を振り返りおもむろに天井を見上げた。
「方向と距離を見るにおそらく地上の広場の真下だろう、まさか地下にこんな部屋があったとは……」
これと言って何もない、何の変哲もない薄暗いだけの丸い部屋の中央で足を止めるとそれまで静かだったイリシオスが突然口を開いた。
「少々眩しいかも知れないが……そのままじっとしていろ」
「……眩しい?」
唐突なイリシオスの言葉にソウタが疑問の声を上げたのも束の間、イリシオスの足元から白い石の表面を伝って光の筋が周囲に広がっていくと瞬く間に部屋は光に包み込まれソウタ達は余りの眩しさに目を閉じた。
眩しさにぼやけた視界がゆっくりと鮮明さを取り戻した時、ソウタ達はみな揃って言葉を失った。再び開いた瞳が映していたのは白い石で造られた何もない円柱形の部屋ではなく、果てしなく広大な見も知らない謎の空間だった。
落ちた星内部と同じ継ぎ目の見えない鏡のような金属質の床が延々とどこまでも続き、正面には見上げるほど高い天井まで届きそうな塔のようなトロフィーのような奇怪なオブジェがそそり立っている。天井は一面仄かに光を帯びたウネウネとした触手のようなものがびっしりと覆っており、奇怪なオブジェの天辺に据えられた巨大な赤い玉を包み込むように絡みついていた。
赤い玉を見て即座に身を隠すスイカにも気付かぬままソウタ達一同が愕然としているとただ一人、普段と何も変わらない車椅子の男が平然と呟いた。
「……存外変わりないな……」
しれっと、或いはある意味感慨深そうに正面を見つめるイリシオスにソウタは天井を見上げながら問い掛けた。
「……ここ……もしかして、天星樹の真下ですか……?」
「そうだ……ここが『中央部』……天星樹に干渉する為の……システムの中枢だ」
イリシオスの説明を聞きながら天井の触手のような根っこを見上げていたソウタは不意にハッと何かに気付き瞬時に背後を振り返った。その視線の先には壁がありソウタ達が歩いてきた通路はどこにも見当たらず、ふと足元に視線を落とすと金属質の床には何やら直径五十メートル程の円形の幾何学文様が薄っすらと刻まれていた。
先程イリシオスの足元から広がっていった光の筋に酷似した文様を目でなぞりながらソウタは信じられないものを見るような顔をイリシオスへ向けた。
「これ……今我々が使ったのって……まさか、瞬間移動ですか……?」
動揺を隠しきれないソウタの問い掛けにイリシオスは首だけ動かして肩越しにソウタを一瞥すると事もなげに淡々と答えを返した。
「……瞬間移動……と言えばそうだな……原理は回廊に近い……張り巡らされた天星樹の根を介し、精霊で隔離した空間を予め決められた……特定の座標まで移動させている」
チラリと床の文様に視線を落としたイリシオスの回答をゆっくり時間を掛けて飲み込むとソウタは胸に手を添え、動揺を鎮めながら改めて背後を振り返り斜め上の天井、その向こう側にあるコンテナに置いてきた人形の反応へと目を向けた。
今ソウタが居る所からコンテナまで、どれだけ軽く見積もっても五百キロは離れていた。五百キロもの距離を実に僅か数秒の間に移動した……これは日本で例えるなら東京からスタートして四国の右端辺りまで辿り着ける距離である。体感五秒程度だとすると秒速約百キロメートル、時速にして実に約三十六万キロメートルという規格外の速さとなる。余談だが地球の衛星軌道上を周回している国際宇宙ステーションが時速約二万八千キロメートル程度の速さらしいので文字通り桁違いの速さである。
天星樹の根を介しての移動という事はこの星の上であれば地上のどこにでも瞬時に移動するなんて事も可能なのではないか……とソウタは一人夢物語のような想像を膨らませ子供のようにドキドキと胸を高鳴らせるのだった。
その後輪郭がぼやけて見える程遠くにそびえ立つ巨大で奇怪なオブジェに向かって歩き出すとソウタはこの途方もなく広大な空間に目を向けた。昔テレビで見た某アニメの精神と時の部屋のようにどこまでもまっさらな床が続いている。周囲を取り囲む壁が見えるお陰でおそらく円形の空間であるという事は分かるが、人間のスケール感に照らし合わせて言えばバカみたいに広い事に変わりはない。
上空からこの世界の様々な都市を見てきたソウタの感覚で計測した結果、おそらくこの世界最大の都市であるエステリアの倍はあろうかという広さの中を徒歩で移動するという暴挙にソウタは堪らず先頭を進むイリシオスに声を掛けた。
「あの……正面に見える塔のような場所を目指しているんですよね」
「……ああ」
「全く近付いている気がしないんですけど……」
「……見ての通り広いからな」
「……神吏者もここを徒歩で移動していたんですか?」
「いや……みな個々で何かしらに乗っていた」
「……はぁ……運びます……飛んでいきましょう……」
車椅子に座っているだけのイリシオスに呆れ果てた視線を送り盛大なため息を吐いたソウタは大きな鳥人形に皆を乗せ遠くそびえ立つオブジェを目指して翼を羽ばたかせた。
十分弱程度掛けて十キロ近く飛んだソウタ達は何とも形容し難い塔のような建物の中へと侵入していた。
大きさはエステリアの天樹より一回りも二回りも太く大きく、全体的に円錐形のシルエットをしているが太い柱とアーチのみで構成されており一切の壁がなかった。
また塔の内部には白い額縁のような、扉のない巨大な門のような構造物が十二個、綺麗に円を描くように立ち並んでおりその中心部には半透明の壁に囲まれた天井のない丸い制御室のような場所があった。
真上を見上げてみると塔は天辺まで吹き抜けになっており、天星樹の根に絡め取られた巨大な赤い玉が良く見えた。
塔の中心部、制御室のような場所の側に降り立つとイリシオスは一人そそくさとその中へ入っていった。門のようなオブジェを気に掛けつつソウタもイリシオスの後を追って制御室へ入ると、中は半透明な壁に沿ってイリシオスの部屋で見たボタンのない机のような白い端末が輪を描くように配置されていた。半透明の壁がそのまま情報を映すディスプレイになるようである。
入り口から見て左側の端末の前に陣取り早速ボタンのない端末を忙しなく操作しながら浮かび上がる情報を確認していたイリシオスはふと、手を止めると正面を見据えたまま僅かに目を細めた。その視線の先には中央に浮かんだ文字が明滅する簡素な画面が映し出されている。
「……やはり……システムに不具合が出ている……修復と回廊の再起動には少々時間が掛かりそうだ……」
そう告げながら再び手を動かし始めたイリシオスに歩み寄り矢継ぎ早に切り替わるよく分からない画面を見上げていたソウタがどのくらい掛かるのか、と尋ねるとイリシオスは手を動かし続けながら二十から三十くらいか……と独り言のように呟いて答えた。
「二十から三十……まぁ、一日二日程度なら大した事は……」
「違う」
ソウタの言葉を遮るように否定の声を上げた瞬間、イリシオスは動かしていた手をピタッと止めゆっくりとソウタの方を振り向いた。つられるようにソウタもイリシオスへ目を向けると二人は顔を見合わせる。
「二十から三十”日”だ」
「……そんなに掛かるんですか……」
唖然とするソウタをよそにイリシオスはすぐに正面へ視線を戻すと表示された無数の画面を見つめながら小さくため息を零した。
「……やはりフィを連れてくるべきだったか」
緑髪の少女フィ、車椅子での生活を余儀なくされているイリシオスの介助を担っていた彼女はもう必要ないとの判断でイリシオスがリーミンの住処に置いてきてしまっていた。
相変わらずの無表情ながら珍しく後悔を口にするイリシオスへ、必要なら今からでも迎えに行こうかとソウタから提案するとイリシオスはこれにいや……と即座に答えを返した。
「既に収容器の中だろう……取り出すには私も行かねばならん……二度手間だ」
そう言うとイリシオスは気を取り直したように再び手を動かし始めた。
特にこれと言った詳しい説明もなく、ここまで同行してきた一同を放置して一人黙々と作業を始めているイリシオスの背後で何とも言えない微妙な空気が流れると、周囲からの視線の圧に押され横からソウタが声を掛けた。
「……では……他に何かお手伝いできそうな事は……?」
「ない」
ソウタの申し出はピシャッと、歯牙にも掛けられず断られた。もとより神吏者の技術には当然明るくないので出来る事など何もないだろうと言うのは予想していたソウタだが、手も止めず顔すら向けずにこうまできっぱりと軽くあしらわれると存外イラッとする。
ソウタが不満げに目を細め横目にジトッとした視線をイリシオスへ向けていると、視界の端で見えていたのかイリシオスは作業の手も止めずそのままの姿勢でボヤくように呟いた。
「心配しなくとも回廊はちゃんと繋いでやる……それまで大人しく待っていろ」
まるで聞き分けのない子供をたしなめるような大人な対応を取られソウタは釈然としないモヤモヤとした気持ちを小さなため息に乗せて吐き出した。
改めて気を取り直し、ソウタはこの場に一人残るつもりなのであろうイリシオスへ今の内に聞いておきたい事をまとめて尋ねる事にした。
「少し気が早いかも知れませんが、いくつか確認しても?」
「……なんだ」
「回廊を繋ぎ直した後は帰るだけでなく、もう一度こちらへ来る事も可能ですか?」
「当然……回廊が開いている限り行き来は可能だ……その為に造られた物だからな」
イリシオスの回答を胸に留め置くように小さく頷くとソウタは更に質問を重ねる。
「ではもし、回廊が閉じてしまったとして……改めて向こう側から回廊を開く事は?」
ソウタからのこの問い掛けにイリシオスはピタッ……と作業の手を止めた。虚ろな瞳がゆっくりとソウタを映す。
「……それは……神吏者の手を借りずにお前達の力で……と言う意味か?」
質問に質問で返してきたイリシオスにソウタが黙って頷いて答えると、イリシオスは自身の手元に視線を落としながらしばし考え込んだ。数秒して伏せていた視線が上がると同時にその乾いた口が開かれる。
「……お前達の世界にも小さいとはいえ天星樹があるのなら……理論上は可能だろう……だが……そう安々と出来るものではない」
「その技術を教えて頂く事は?」
「……約束は出来ん」
そう言って再び作業を再開したイリシオスを見つめながらソウタは否定はしないんだ……とその意味深な返答に心の内で首を傾げていた。
これまでの話を聞く限り神吏者は人間の持つ欲望の力を最大限警戒していたと言う、この星を維持していく為なら自分達すら不要なものとして何処かへ去るという判断を下すほどに。
にも関わらず、イリシオスの言動からはソウタ達や地球側への警戒が余りにも薄いように感じられる。この星と天星樹の事を第一に考えるのであればソウタ達を一刻も早く元の星へ追い返し、回廊もすぐに閉じてしまうのが最善であろう。
回廊を繋ぐ事が自身の目的でもあると語っていたイリシオスの真意は一体どこにあるのか……狙いの読めない神吏者へソウタが訝しげな目を向けているとそこへ、長のお爺さんが恐る恐ると言った様子で我が主……と声を上げた。
「恐れながら失礼致します……我等は……我等はこの先一体どうすれば……」
それはさながら迷える子羊が神の啓示を求めるかのような懇願する表情であった。長い間主人を欠いたまま、ただ大昔の言い付けを頑なに守るだけだった彼ら番人達にとって、イリシオスは言ってみればようやく現れた救いそのもののように感じられているのだろう。
ソウタには中々理解の難しい心境であろう彼らは念願の主人に対して何を望み何を願うのか、そして主と認められたイリシオスは彼らの求めにどのように応えるのか……迂闊に口を挟まぬようソウタも少し緊張した面持ちで成り行きを見守っていると、イリシオスはおもむろに作業の手を止めたかと思うと意外にも車椅子をクルリと回転させ長の方へと向き直った。自分への対応との余りの温度差にソウタはまた少しイラッとする。
「……言い付けを解く事も出来るが……お前達はどうしたい」
希望を問われた長は少し驚くと不安そうに俯き考え込んでいた。一族の長としての重責故か、揺らめくオーラが迷いを如実に表している。
やがてしっかりと熟考を重ね覚悟を決めた長は俯いたまま、眉間にシワを寄せながら静かに口を開いた。
「……幾百年もの間、我等は先祖代々の言葉だけを一族の支えとしてこの地を守って参りました……もはや、我等に他の生き方は出来ませぬ……お許しを頂けるのであればこのまま、この先もこの地を守って参りたいと……」
長から出た返答はやはりソウタには理解しがたいものであった。新たな道を見出だせる絶好の機会を目の前にしながら、長はこれまでと同じ道を歩み続ける事を選んだ。その選択に確かな覚悟の見える長のオーラには微かに恐れが滲み、イリシオスの反応に戦々恐々としているようにも見て取れた。
頭を垂れ主人の返答を震えながら待つ長を静かに、何かを見定めるような目で見つめていたイリシオスは数秒嫌な間をおくと誰にも聞こえないくらい小さくふむ……と呟いた。
「……いいだろう……ならば引き続き、この天星樹を守れ」
「はっ、ありがとうございます……」
深く感謝を述べる長を見つめつつ、主従の間で交わされる理解のし難いやり取りに本当にこれでいいのだろうか……とモヤモヤとした疑問を抱きながら、ソウタは施設にいた頃聞かされた園長先生の話を思い出していた。
人の生き方とは他人から教わるものではなく、誰にも分からないもの。正解のないものだからこそ色んな物事に興味を持ち、見て、聞いて、触れて、経験を積み重ねながら自分の生き方を自分の手で探していく。己の興味が何に向かうのか、また己の得手不得手とは何か、様々な外の世界に触れながら少しずつ自分自身を知る事でやりたい事、出来る事の両面から自分の生き方を考える。どんな素敵な夢を抱いても決して思い通りには行かず、つらい事苦しい事も多々降り掛かってくる……何度も挫けそうになってしまうけれどそれでも、止まる事なく歩み続けたその足跡に、堂々と胸を張れるような生き方を皆にはして欲しい――……この話を生前園長先生は新しい子が施設に入ってくる度に優しく言い聞かせていた。ソウタも五、六回は聞いた覚えがある。幼くして親を失くしたという大きなハンデを抱えているからと言って我慢したり、遠慮したりして欲しくないのだと、自由に夢を持って欲しいのだと園長先生は別け隔てなく包み隠さず子供達に伝えていた。
生きている限り生き方などいくらでも探しようはあるはずで、他の生き方が出来ないなんて事は絶対にない……というのがソウタの考えであった。
とは言うものの……不満など微塵もない安堵に満ちたオーラを見せられると流石に横から口を挟むのは憚られる。もとよりソウタ達には関係のない話であり当人達が納得しているのならそれ以上の答えはなくこれで正解なのか? とソウタが一人悶々と自問自答していた、その時だった。
安堵の表情を見せる長をじっと見つめていたイリシオスが突然それと……、と口を開き話を続ける構えを見せた。その瞬間長のオーラはドキッと言う衝撃と共に再び恐れの色を滲ませる。ゴクリ……と誰かの喉が鳴るとイリシオスは微塵も変わらぬ無表情のまま意外な事を言いだした。
「主を欠いて尚……言い付けを守り続けたその忠節と献身……称賛に値する……我がイリシオスの名において、称えよう」
それはまさかの祝福の言葉であった。全く感情の見えない虚ろな瞳で、微動だにしない無表情なまま、濁った低い声で紡がれる実に似つかわしくない労いと賛辞の言葉を吐いたイリシオスを前に、しばし呆然と主人を仰ぎ見ていた長の瞳からは自然と一粒の雫が頬を伝い零れ落ちていた。
「……なんっ……なんとっ……勿体なきお言葉……っ」
感極まり崩れ落ちるようにひれ伏す長の隣でガルドも感銘を受けたように跪いてみせる一方、ソウタは驚愕し思考停止したような表情で車椅子の男を見ていた。まさかそんな言葉がこの男から出てくるとは思っておらず、ソウタはますますイリシオスという人物像が分からなくなった。
唖然とするソウタをよそに当のイリシオスは用件が終わったとみなすとすぐにまた車椅子をクルリと回し、まるで何事もなかったかのように淡々と作業を再開した。人の心が有るのか無いのか判断の難しいイリシオスの横顔を見つめる一方、背を向けた主人にいつまでも忠誠を示し続ける長とガルドに視線を向けたソウタはやはり自分が口を挟むべき問題ではないんだろうと静かに口をつぐみ、モヤモヤとした気持ちを胸の内に留め小さなため息を吐いた。
その後作業が終わり次第連絡するというイリシオスを一人その場に残し、ソウタ達は再び例の瞬間移動装置を使って中央部から地上へと帰還していた。地上に出るともうすっかりと日の出を迎え山の向こうには爽やかな青空も見えた。
外で待機していた集落の人々に長が向こうでの出来事を話して聞かせている間、ソウタ達は少し離れた場所で話が終わるのを待っていた。特に長達と話す事があるわけではないが多くの番人達に依然敵視されている現状聖域とされる森を勝手に歩き回るわけには行かないとの判断である。
話が終わるまでの間ソウタとウシオは今後の予定について話し合っていた。イリシオスの作業が完了するまでおよそひと月、その間何が出来るかを考えているとそこへ話を終えた長の声がソウタの肩を叩いた。
「ソウタ殿」
ゆっくりとした足取りで近付いてくる長の傍らにはガルドの姿もあり、少し離れた背後に控えるその他の番人達からは妙な緊張感が漂っていた。
一体何が始まるのだろうかとソウタも緊張した面持ちで長の言葉を待っていると、長はゆっくりとソウタ達に頭を下げた。
「まずは感謝を」
長からの思い掛けない言葉にソウタは驚いてポカンとしていた。そんなソウタの様子に気付かないまま、長はしみじみと語り始めた。
「長年……我等は主の姿も声も知らず、ただ先祖代々受け継がれるままにこの地を守ってきた。何の為に、一体何から守ればよいのか……その意味も価値もよく分からないまま、只々無心に継承し続けてきた我等一族の使命……それが今日、間違いでなかったと……決して無駄ではなかったのだと……ようやく……認めて頂けた」
一体どれほどの思いをその胸に抱え生きてきたのか、とても感慨深そうに穏やかに語った長はゆっくりとソウタの顔を見上げると改めて感謝を述べた。
「此度の事、末永く後世まで語り継ぎましょう……一族を代表して、お礼を言わせて下さい。本当に、ありがとうございました」
そう言って長がもう一度頭を下げるとそれに合わせ、その場にいた全ての番人達がソウタ達に向かって揃って頭を下げた。視線を上げると樹上の監視達も見える所で同様に頭を下げている。
突然の対応の変化にギョッとしつつ、周囲に合わせて大人しく頭を下げながらもまだ釈然としていない一部の番人達の揺らめくオーラに人間らしさを感じ仄かに口元をほころばせたソウタは長と顔を見合わせ微笑んで感謝を返した。
「こちらこそ……きちんとお約束を果たす事が出来て本当によかったです。残していった隊員達とも良くして頂いたようで、ありがとうございました」
ソウタから贈られた感謝の言葉に長は穏やかに頷いて応えた。まだ彼らとの確執、全てのわだかまりが解けたわけではないが少なくとも一定の信頼関係は築けたのではないかとソウタは確かな手応えを感じていた。
長とのやり取りが終わると今度は傍らに立つガルドからこれからどうするのか、と問われソウタは先程ウシオと話していた事をそのまま伝えた。
「連絡用の人形は置いてきたし、とりあえず皆の所へ戻って現状を報告してこようと思う。それが済んだら兄を迎えに行って、これまでの旅でお世話になった人達に挨拶回りでもしてこようかな」
「兄?」
兄という言葉に疑問を呈すガルドに顔を半分隠した連れの事だと説明するとガルドは兄弟だったのか、と少し驚いていた。その反応に頷いて返すとソウタはガルド見ながら不意に不敵な笑みを浮かべ小首を傾げてこう尋ねた。
「ガルドとの再戦はその後でもいいかな?」
唐突にまるで挑発するかのような言動を取るソウタの瞳にはガルドの今すぐにでも戦いたいという強い思いがダダ漏れのオーラがはっきり見えていた。実質のお預け宣言という事になるがこれにガルドは同じく不敵な笑みをし返し勝利への自信を滲ませた。
「フッ……いいだろう、逃げるなよ」
力強くオーラを滾らせるガルドと不敵な笑みを交わし合ったソウタは長に残り三十日程度、引き続きお世話になりますという挨拶ともう一度外へ出る旨を伝えるとその場で別れを告げ、樹上の監視者達に先導されながら隊員達の待つ拠点へと戻っていった。
拠点に着くとソウタはソワソワした様子で待っていた隊員達へ事の経緯をカクカクシカジカと手短に掻い摘んで話して聞かせた。イリシオスによる復旧作業があと二十日から三十日ほど掛かると聞くやいなや、隊員達は飛び上がって静かな朝の森に歓声を轟かせた。
「あ、あとたったひと月で……いよいよ……!」
「帰れるっ……私達、本当に帰れるのね……っ」
第一次及び第二次調査派遣隊員達……ナニカに突入した直後から地獄のような経験をし、一時は生死を彷徨った彼ら彼女らの感極まった情動は察するに余りあった。第一次の生き残りである二人はこの世界に来てから実に二百日近くが経過している、一ヶ月差の第二次の四人にしても半年近くが経っており、何の希望も見えなかった当初を振り返ると隊員達は苦楽を共にしてきた仲間と抱き合い共に大粒の涙を流した。
そんな中、ソウタは一人妙なオーラを漂わせている隊員に気が付き目を向けていた。仲間達と喜びを分かち合いながらもどこか上の空で、迷いの見えるその隊員はふと上を見上げたかと思うと徐々にそのオーラに覚悟の色を滲ませた。
「あ……あの……ッ」
唐突に弾けるような声を上げたその隊員に皆の注目が集まった。急に大きな声を出してどうしたのかと仲間達から心配そうな視線を向けられると、その隊員は覚悟を揺らし再びの迷いを見せた。しかし今一度心を震わせ覚悟を決め直すと突然、その隊員はソウタの前に膝を付き頭を下げて土下座のような姿勢を取ってみせた。突然の出来事に騒然とする仲間達をよそに、その隊員は額を地面に擦り付けたままソウタへ思わぬ申し出を口にした。
「す、すいません……ッ! 身の程も弁えず、こんな事を言うのは間違っていると分かっています……ですが……ですがどうか! じ、自分だけでも……こちらに、残らせては貰えないでしょうか……お願いします……ッ!?」
一体何を言い出すのかと、何馬鹿な事を言ってるんだとその男を問い詰めようとする頭に血が上った隊員達をソウタは即座に静止した。迷いと覚悟の混在した男のオーラを目に映しながらソウタは膝を付くと眼前に跪く男へ穏やかに声を掛けた。
「どういう事か、聞かせて貰えますか?」
ソウタの優しい声にゆっくりと顔を上げた男は酷く緊張した様子で震えながらおずおずと口を開いた。
「そ、その……実は――」
「――それはそれは……」
樹上の番人達の耳に届かぬよう声を潜め、神妙な面持ちで語られた男の話を聞くとソウタは驚きと同時に感心するような表情を見せた。やや張り詰めていた雰囲気も穏やかな風に吹かれ隊員達は朗らかで温かい空気に包まれる。
彼の語った事情とはズバリ……”恋”であった。留守を任せていた四ヶ月の間に彼は隊員達をずっと見張っていた樹上の監視者の一人と交流を深め、他の隊員達にも内緒で密かに親密な関係を築き上げていた。お相手の女性も彼の誠実な思いを受け止めたいとは考えてくれているようだが、集落の仲間達や長にはまだこの話を伝えられておらず……この恋が成就するかどうかは彼とその女性、そしてソウタ達の今後の動向に左右される事となる。
まだまだ多くの障害がある事はともかくとして、いつの間にか抜け駆けして恋人を作っていた仲間を隊員達は口々にからかいながらもまるで我が事のように喜び祝福の言葉を贈った。
地球への帰還と仲間の恋、一度に舞い込んできた二つの朗報に喜び勇む隊員達の幸せに包まれたオーラを穏やかに眺めながら……ソウタは一人ひっそりと小さくため息を零した。
「まさか……そこまで親密な関係を作れるとは正直思っていませんでした。素直におめでとうございます、と……言いたい所なんですが……」
言葉尻を濁すとソウタはやや目を伏せて頭を悩ませた。今ソウタが就いている任務の目的をおさらいしておくと、『地球への帰還、もしくは連絡方法の確立』、『第一次及び第二次調査隊員達の保護、または回収』、そして『環境や生態といった現地調査』の三つである。
もし保護した隊員をこちらへ残していくとなれば二つ目の目的に反する事となる。ばれないように隠し通さなければならない事も考えると職務規定違反に報告内容の捏造、更には隠蔽工作と言った複数の罪を重ねる必要がある。統括理事会直属の部隊の日本代表という責任ある立場にいるソウタにとって、万が一この不正行為が白日の下に晒されれば下される処罰は自分のみに留まらず、直属の上司である理事代表ホサキの立場さえ悪くしてしまう事になる……それだけはあってはならない、到底看過できない問題である。
それは出来ない、とキッパリ断るのが最善であると頭では分かっていながらも……ソウタの取り戻した人としての心と生来の優しさがこの判断を殊更難しいものにしていた。
どうしたものかと考えながらソウタはフゥとため息を零すと更なる判断材料を求めて男に一つ質問をした。
「あちらにあなたの帰りを待っているご家族とかご友人は?」
「あ、えっと……友人は少しいましたが家族はいません……皆フラッシュフォールの時に……」
そう答えると男は少し物悲しい表情を見せた。フラッシュフォールでは世界の人口の約半数がほんの数ヶ月という短期間の間に失われ、ソウタ達や彼のように辛く苦しい経験をした人達は数え切れないほどいる。
そんなにがい思い出を持つ彼が、生まれ故郷である地球を捨てる程の覚悟を持って今新たな幸せに手を伸ばそうとしている……同じ苦しみを経験した者としてこれは是非とも応援してあげたいと同じく覚悟を決めたソウタは彼の申し出を認める事にした。
「わかりました、向こうに未練がないと仰るならぼくは良いと思います。ただその場合死亡扱いになると思いますので、口裏を合わせる必要……は、ありませんね」
周りの隊員達の言われるまでもない、とでも言うような笑顔を見回しながらソウタはふふっと笑みを浮かべた。
隊員達から秘密が漏れる心配は一先ずなさそうである、となればあと一人……この秘密とホサキの立場を守る為、ソウタはこの場に居合わせる最後の不安要素へゆっくりと視線を向け声を掛けた。
「ベッキーはどうでしょう……ぼく達に協力してくれますか?」
ソウタの視線の先、佇むコンテナに搭載された電子機器に直結しているレベッカは自身の精神を電子空間へと入り込ませる事が出来る能力者である。入り込んだ電子空間では人間が手足を自在に動かせるように直感的に様々な電子操作が可能であり、彼女はその能力を買われアークエイド本部の置かれている人工島のありとあらゆる電子制御の管理統括を任されている。異世界まで着いてきたこのレベッカは分体であり本体は地球側に居るのだが、アークエイドの誇る最新鋭システムの全権を担う彼女の協力なくして不正行為などまかり通るはずもない。
周囲の隊員達も固唾を呑んで見守る中、フォーカスを合わせるカメラの駆動音が小さく響くとコンテナ……からではなく、耳元からややテンションの高い声が聞こえてきた。
「――……モチのロンよ、そもそも黙ってただけで気付いてたし。こんな熱々の胸キュンハッピーに野暮な事しないって。セキュリティの堅さに定評のあるレベッカさんをあんまり舐めないでよねー」
耳飾りから聞こえてくるレベッカの弾んだ声に一同はホッと安堵するとすぐさまワイワイと再びの賑わいを見せた。隊員達の満面の笑顔を見つめ、ソウタはコンテナのカメラに向けて感謝を述べた。
「ありがとうございます、ベッキー」
「――フフン、どういたしまして。あたしも皆がハッピーな方が嬉しいからね」
レベッカの言葉を受けソウタは改めて隊員達へ目を向けた。大の大人が年甲斐もなく楽しそうにはしゃぐ様子を見つめながらソウタは穏やかに口元をほころばせるとしみじみと呟いた。
「……ええ、本当に」
地下牢で彼らと初めて会った時、満足に喋る事すらままならないほど衰弱しきった身体で這いずりながら咽び泣いていた隊員達の暗い面影はもうどこにもなく、死を覚悟するほどの地獄のような経験を経て尚仲間と共に幸せを噛み締め笑い合える……そんな隊員達の優しさと平穏に満ちた心温まる光景を、ソウタはしばしの間時を忘れて眺めるのだった。
「――では、ぼく達はまた少し出てきますので、留守をお願いします」
聖域の島でやるべき事を全て終え、イリシオスが作業を終えるまでの最大三十日間をこれまでお世話になった人々への挨拶回りに当てようと考えたソウタは、まず秘書であり兄であるソウマが書庫整理を継続中の王都に向かうべく隊員達へ出発の挨拶を告げていた。お任せ下さい! との力強い返事を貰い微笑み頷いたソウタはおもむろに背後に立つ大男の方へ振り返ると、そのお腹の辺りへそっと手を添え強面の顔を見上げながら労いと感謝の言葉を送った。
「お前もこれでお役御免だ。色んな所で何度も助けられた……四ヶ月間ありがとう、ご苦労さま」
ソウタの優しい眼差しと声に大男は寡黙に頷いて応えた。
精巧なヒト型中級人形、ミルド……中間、ミドルを咄嗟にもじっただけの安直な名前を付けたこの人形は当初、ソウタ達だけでは魔獣蔓延るこの世界の旅人として説得力がない、という事情から急遽作られる事となった。普段使われる白い依代ではなく、様々な有機素材から作られた特殊な黒い依代と人間由来の素材を組み合わせて依代とする事でまるで本物の人間と見紛うほどのリアルな人形を作り出す事が出来る。今回はガルド達がゴミとして放置していた誰かの遺体の骨を依代に利用した。
珍しい格好のソウタ達に集まる人々の注目を引きつける囮役として、また人前で非常識な強さを見せるわけには行かないソウタ達に代わって荒事を引き受ける戦闘要員として、四ヶ月に渡る長旅の間ミルドは幾度となくソウタ達の為にその力を遺憾無く発揮してきた。
ただの人形としてではなく、困難な旅の道のりを共にした仲間の一人ミルドとして……ソウタは心からの感謝を伝え最後までミルドの顔を見つめながらそっと、人形化の力を解除した。
大男の身体がフッと音もなく瞬時に姿を消すと身に付けていた衣服や装備が白い石畳を叩き大きな胸当てがガランガランと金属音を響かせた。ヒラリと舞い落ちる黒い依代を手のひらでそっと受け止め、ソウタはおやすみ……と声を掛けながら優しく握りしめた。
背後から隊員達のおぉ……という感嘆の声が聞かれる中、ソウタが依代を懐にしまっているとウシオは上品に膝を折り鞘に収まった小剣を拾い上げながら小首を傾げ尋ねた。
「残った装備はどうしますか?」
「服とか防具は置いていく、剣は……持っていこう」
そう言ってソウタはウシオの持つ剣を見ながら何かを思いついたように楽しげな笑みを浮かべた。
ミルドの巨体からすると小剣だが小柄なソウタからすると普通のサイズの剣をウシオから受け取り、ベルトの輪っかに手を通して左肩に担いだソウタはもう一つ、ミルドの依代に使用していた誰かの骨を拾い上げた。どこの誰かも、いつどのようにして亡くなったのかも分からない何者かの骨だが、勝手に利用させてもらった以上しっかりと弔ってあげなければ罰が当たるというものである。
剣と骨を携えたソウタは大きな鳥人形を作ると振り返り、では行ってきます、と今一度隊員達へ出発の挨拶を告げた。
ウシオと一緒に鳥人形の背中に飛び乗り手を振る隊員達に見送られながら再び空へと飛び立つと、ソウタはすぐさま周囲を取り囲む山を飛び越え内と外を繋ぐ洞窟の出口へと向かった。洞窟の出口から入ってすぐの場所にあるいらない廃材置き場を再び訪れるとソウタは未だ放置されっぱなしの遺体の骨を一つ残らず拾い集め、ミルドの依代として利用した骨も一緒にまとめて海へと還した。ゆっくりと青に沈んでいく白い誰かの骨を見つめながら、ソウタとウシオは感謝と弔いの念を込めて静かに手を合わせた。
打ち寄せるさざ波の音、そよぐ潮の香り、上ったばかりの陽の温もりと共に祈りを捧げるとソウタはスッと立ち上がり爽やかな朝の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。たっぷりと含んだ少し冷たい空気をゆっくりと吐き出していくと今度は眼前に広がる雄大な景色をその瞳に映す。
青い海、青い空、白い雲、四ヶ月前と同じ景色を眺めながらソウタは自身の心境の変化を改めて実感していた。
かつて感じていた未知の異世界への不安はもう微塵もない。何もわからない状態で、どんなものかもわからない探しものを見つけ出さなければならないという重圧……そんな無理難題を見事に成し遂げ改めて見るこの場所からの景色は、晴れ晴れとした気持ちも相まって格別の絶景であった。地球でも見られるなんて事のないありふれた自然の景色……しかし少し視線を上げるとそこには青空を塗りつぶす綺麗な夜空がいつでも瞬く星々をキラキラと湛えており、ここが異世界である事をはっきりと物語っている。
地球に甚大な被害をもたらした光の柱、大災害フラッシュフォール……その大元の原因と考えられる天星樹の星空を見上げながらソウタはふと思案する。今、自分はこの世界に何を思うのか……と。
大切な人達や帰る場所、果ては自分自身すらも悪意の炎に焼かれソウタは九年もの間意識を失っていた。また、その間双子の兄ソウマが味わった絶望の日々を思えば天星樹やその力に制限を施した神吏者に対して怒りや恨みを覚えても仕方のない事である。
しかしどういうわけか、ソウタの胸にそういった感情はほとんど湧いてこなかった。決して薄情というわけではない。家族を失くした悲しみも、兄の味わった苦しみも、ソウタの胸を痛いほど締め付けている。しかしそれでも、この世界を心から憎み切れないそのわけを……ソウタはもう一度旅の軌跡をなぞる事で理解できるんじゃないか、とそんな気がしていた。
空を見上げたままぼーっと固まっていると、心配したウシオとスイカが顔を覗き込みながらソウタの名前を呼んだ。ハッと我に返ったソウタはウシオと顔を見合わせると微笑んで返す。
「ごめん、なんでもない。行こうか」
「はい」
「しゅっぱーつ!」
風の妖精の高らかな号令を合図にソウタ達は再び白い翼の上に乗り青い空へと舞い上がる。まず最初に目指すのは旅の始まり、風の妖精スイカと出会った深い森とその先にある農村バードルフである。
背中を押す潮風に新たな気付きへの仄かな期待を膨らませて、ソウタ達は二度目の旅路へと空を駆けていくのであった。
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