251211 カシミアについて。

「見て」

 真波は幸平の耳元に口を近づけて言った。それは実に自然な動きで、何の衒いもなかったから、幸平はほとんど反応することさえできなかった。どぎまぎとする頭でもし彼女が殺し屋だったらと思った。自分は今頃心臓を刺し貫かれているだろう。

「でもゆっくりとだよ」と真波は言った。「まだ動かないでちょうだい」彼女は小さく愉快そうに笑い声を上げた。「私たちの右側、幸平から見て左側の席、ずっと奥の方、女の人がいるの。年上、年齢はね、そうだなあ四十には届いていないと思う。でも転んで手をついたらそこはもう四十かもしれないね」

 幸平は真波の声と息を耳に受けて、全身の神経がその辺りに集中するのを感じながら、正面の壁にかかっている絵を見ていた。子どもの絵だ。おそらくこのバルを経営している店長の子どもだか甥だかの絵なんだろう。正方形の紙に好き勝手色を塗りたくってある。また得体の知れない生き物が描かれている。髪の毛が異様に長い女性が描かれている。極端に記号化された木が描かれている。酩酊の後先のような色合いをしている。そのような何とも言えない絵が壁の一角に並べられ、子どもの文字で署名がされている。それぞれの絵の下には値札が貼られており、そのうちの何枚かには「Sold Out」とテープが貼られていた。酔っ払いが買ったのだろう。あるいは自分には感受することの出来ない芸術性が内包されているのかもしれない。もっともそのような感受性ならないほうがましだ。さぞかし生き難いことだろう。

「ほら、私の顔を見るようにしてさ、そのまま視線をちょっとずらすの。そうやってそこにいる女の人を見てちょうだい」

 真波が促した。

「なんでまた」

 と幸平は躊躇った。

「まずは見ること。話はそれから」

 と彼女は言った。面白がるような調子だった。

 幸平はゆっくりと不自然にならないように意識しながら——もっともどうしたって不自然になるのだが——真波の方を向いた。彼女の顔は本当に近くにあったので、彼の鼻先が彼女の毛先に触れ、頬をかすった。

 真波は幸平の背後に視線を送っていたが、その横顔は楽しそうに緩んでいた。

「一番奥の席。天井近くの棚から蔓が垂れ下がっているでしょう? その先にいる。一人席。テーブルにはオリーブのマリネがのってる。グラスの中身は白ワインかな? どちらもほとんど口をつけていない。その代わり灰皿にはもう何本も吸い殻が見える。そうでしょう? 髪の長いひと、綺麗な髪の毛だよね。私もあれくらい伸ばしてみたいな。でも似合わないのよ。それに背中に髪の毛がまとわりつくのがあんまり好きじゃなくて。手入れだってずっとたいへんなんだよ。カシミヤのコートを着てる。素敵よね、私はもう何年もスカジャンしか着ていない。幸平はああいう恰好をしている女の人は好き?」

 幸平はしかし真波の提示する人間を見つけることが出来ずにいた。と言うのも彼の視線は真波の横顔に吸いついたようで離れなかったからだ。柔らかそうな頬は少し赤らんでいた。よく見るとニキビのあとがうっすら見える。黒ずんだ毛穴がある。薄く短いまつ毛が揺れている。眉毛の一本一本も、その毛の流れも見えた。

「いや、俺はどうも気疲れする気がするな」

 と何とかそれだけ答えた。

「でもああいう女のひとに好かれるってどういう気持ちがするんだろうね? こっちはさ、御覧の通りのスカジャンで、眉毛描いて適当にリップして、でもそれでいい、そのままが好きって言うの。自分は好きで身なりに気を遣っているけど、それをあなたには求めないって。デートの行先は築四十年のワンルームでも、油と煙でギトギトの居酒屋でも構わないって言うの」

「それはちょっとこっちに都合が良すぎないか?」

 と幸平は言った。真波のおでこは広かった。そこにさらりと前髪がのっている。身なりにそれほど気を遣っていないと自称しているが、それでもこの前髪を召喚するにはそれなりの努力を要することを彼は知っていた。彼女の髪の色は少し暗めの茶色だった。

「毎年誕生には」と真波は彼の言葉を無視して続けた。「向こうがエスコートしてくれるのよ。私と違ってお金を持っているの。親の遺産かもしれない。あるいは死んだ旦那が残したものかも。それとも自分で会社を経営しているとか。彼女に連れられて服を買いに行くのよ。きちんと寸法を測って、オーダーメイドで。服は少し近所でお酒を飲んでいる間に、あっという間に出来上がる。それをその場で着て、そしたらまるで生まれ変わったような気持ちになるんだ。仕立て屋の渋いお爺さんが入口のところで行ってらっしゃいませなんて言うわけ。店の前には黒光りする車が停まっていて、彼女がドアを開けるの、お先にどうぞって具合にね。そして二人で丘の上のレストランに行く。街の夜景が見渡せるところ。彼女はね、だけどずっと落ち着かない様子なのよ。彼女がしていることは彼女にとっては特別なんかじゃないわけ。むしろこういう方法しか彼女は知らないのよ。だからそれが私の気に入るか不安で仕方ない。私は焦らすわね。出来るだけ感想を言うのを引き延ばすの。それでいよいよって言う時そっと彼女が欲しかった言葉を告げるわけ」

「君は冴えない男の妄想みたいなことを言うんだね」

 と幸平は言った。

「冴えた男の妄想なんてツマラナイでしょ?」

「冴えた男なんて存在しない」

「幸平は?」

 と真波は言って、それまで幸平の背後にじっと注がれていた目をすっと彼に注いだ。結果として彼は間近に彼女の瞳の色を見ることになった。白目の部分は強膜と結膜で出来ている。それは誰でも同じだ。だが彼女の虹彩や瞳孔はどこまでも深い黒色で、星屑の一つもなかった。幸平は唾を呑んだ。こんな時、何を答えても負けだった。もとより勝算のない関係ではある。視線を逸らしたところで、再三に渡って真波が語る女性が目に入った。その姿は彼が想像していたよりずっとくたびれて見えた。

「あの女の人が気になるの?」

 と幸平は言った。

「気になる」

 と言った真波はいまだに目を逸らさない。視界の端にじりじりと焼けるような圧を幸平は感じていた。

「なんでまた気になるんだろう? あのコートだって別にカシミアじゃないし、テーブルの上にのってるのはポテトとビール。煙草は可燃式のを吸っている。取り立てて気になる要素は俺には感じられないけど」

「ようやく見つけたんだ」

 と真波は笑った。

 それからまた幸平の耳元に口を近づけた。

「あのね、あの人、私たちのことつけているの」

 と彼女は言った。

「まさか」

 と幸平は小さく笑った。

「だって前の店にも、その前の店にもいたのよ? その前にスケートしたじゃない。その時にだっていた。リンクの上にはいなかったけど、ほら、上に食堂があってその窓からスケートリンクが見下ろせるじゃない。そこにあの人、いたのよ。おまけにこちらをちらちら見ているし」

 それから真波はポケットから写真を取り出した。一枚一枚テーブルの上に並べていく。彼女が小型のポラロイドカメラで撮影したものだった。被写体は基本的に幸平だった。彼は少し気恥ずかしく思いながら、写真を眺め、そして気づいた。写真の中の幸平の背後には件の女性の姿が映っていたからだ。

「ずっとつけられていたってこと?」

 と幸平は言った。

「よく気づかないでいられたよね」

 と真波は笑った。なぜ気づかなかったのか、その理由を幸平は知っていたし、だからこそ少なからず傷もついた。

「これからどうする?」 

 と幸平は訊ねた。

「デート」

 と言って真波はにっこりと笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る