251203 ひざ掛けについて。
「もうすっかり外は寒いんだから」
とカナが言った。仕事終わりに食料品の買い出しから帰ってきたところだった。トモキは居間から床を這って玄関まで移動して出迎えた。
「おかえり」
とトモキは言う。
「ただいま」
とカナは言って、ドアを閉め、鍵をかける。鍵のかかる音がトモキを微かに安堵させた。冷たい外の空気が、ほんの少し部屋の中に入ってきていた。暖房をつけていなかったが、やはり部屋の内外ではそれなりに気温差がある。カナはトモキの横をさっと通り抜けた。タイトスカートの下にたくましい足が見えた。汗ばんだ足の匂いが一寸鼻孔に触れた。
「てか、寒いじゃん。トモくん、暖房つけなかったの?」
カナは食料品を入れたエコバッグを冷蔵庫の前の床に置きながら言った。
「いやね、つけようと思ったんだけど、どうも難しくてさ。カナが帰ってくるまでには部屋をあたためておきたいなって思ったんだけどね。つけようつけようと思っているうちにカナが帰ってきた。悪かったね、力至らず」
トモキは辿り着いた時と同じように這いながら居間に戻った。しかし這い進むのにもすっかり習熟していた。
「その気持ちだけで心があたたまるってものよ」
と冗談めかしてカナは言った。
「しかし気持ちだけではどうにもならないこともあるからなあ」
とトモキは言いながら、居間のちゃぶ台の下に入り込む。そこが彼の定位置だった。ヤドカリが自分にぴったりあった貝殻を見つけるように、彼にはその場所がとてもしっくりきたのだ。その位置からはキッチンで料理をするカナの姿が見えたし、テレビも見えた。窓も見えた。
「でも行為があっても気持ちがなかったら、それはそれで寂しいじゃん」
とカナが言った。
「とは言え、気持ちって奴は表面からは判断するのが難しいだろう? その行為に気持ちがあるのかないのかはどうやって判断するんだい?」
カナは食料品を冷蔵庫にしまい終えて、エコバックを手早く、しかし丁寧に畳んだ。それからその場でスーツを脱いで下着姿になると部屋着に着替え始める。トモキはちらりとカーテンが閉まっているかどうかを確認した。
「実績?」
とカナは言ってクスリと笑った。それからご飯作る前にシャワー浴びてきていいかと言った。トモキはもちろんと頷いた。今日はねー、色々と取引先を回らなくちゃならなかったのーと言いながら、彼女はバタバタと風呂場の方へ行った。ぱたんと扉が閉まる音が聞こえ、水の音が扉を隔てて聞こえてくる。トモキはちゃぶ台の下で、ぼんやりとしながらその音に耳を澄ませた。
今日は玄関の横の棚に小さなクリスマスツリーを飾った。カナはそれに気づかなかったなとトモキは思った。そのクリスマスツリーは二人がこの部屋に同棲を初めて、最初のクリスマスに雑貨屋で買ったものだった。這ったまま、それをクローゼットの置くから引っ張り出して棚に飾るのに一日かかってしまった。
棚の上にクリスマスツリーが飾られるのは二年ぶりということになる。去年、トモキは寝室から出てくることが出来なかったし、一昨年は仕事があんまり忙しいので飾り付けている余裕なんてなかったのだ。
二年ぶりに出現したクリスマスツリーを見て、トモキは誇らしいような、寂しいような複雑な気持ちだった。以前、立ったまま見ていたツリーは小さくて可愛らしかったけれど、床に近い場所から見上げるツリーは遠く見えた。
「おまたせ」
とカナが居間に戻ってくる。
「今ご飯作るからねー」
「ドライヤーかけてからでいいよ」
とトモキは言った。
「だって帰ってからまだ一度も座っていないでしょ」
「そうなんだけどねー」と言いながら「じゃあお言葉に甘えるとしましょうか」とカナはドライヤーを持ってきて、ちゃぶ台のそばに座った。ゴーっという風の音が聞こえる。この音を聞くことにも以前ほど緊張はなくなっていた。
カナの髪の毛は長い。黒くて艶がある。とても綺麗な髪だとトモキは思う。うん、と自分の中で一つ頷いてからトモキはカナの方へ這って行き、手を伸ばして髪の毛を乾かす手伝いをした。カナはびっくりしたようだった。彼女の小さな身体が少し緊張するのが伝わってきた。だけど、彼女はわざわざ振り返ったりはしなかった。
「正直言って、少し邪魔なんだよなあ」とカナは笑いながら言った。「気持ちは有難く受け取るけれど」
「あれま」
とトモキは手をひっこめた。
「あ、やめなくたっていいのにー」
とカナは言った。
「もう手が限界」
「早ーっ」
髪を乾かし終えると、彼女はキッチンに立って夕食の準備を始めた。トモキはちゃぶ台の下に戻って、彼女の後ろ姿をぼんやりと見つめていた。こうして毎日背中ばかりを見ていたからわかるが、背中には表情がある。顔と同じくらい明瞭に、いや顔以上に雄弁に。今日の彼女の背中は明るい表情をしていた。
二人はテレビを見ながら夕食を食べた。カナはちゃぶ台の前にキチンと座って、トモキはちゃぶ台の下で。食後にカナはビールを飲んだ。トモキは飲まなかった。カナの丸い膝を眺めていた。膝を見ているうちに寝てしまった。そのせいか、彼は膝の夢を見た。膝農家の夢だ。彼は十ヘクタールの広大な農地を経営しており、そこでせっせと膝を育て収穫していた。大部分は売りに出すけれど、個人的に幾つかとっておく。それはとびきり上等な膝で、彼は農地が雪に埋まった冬の間、暖かい暖炉の前で膝を眺めて過ごすのだ。
目を覚ますと、カナも寝ているようだった。ちゃぶ台から這い出ると、とても気持ちよさそうな寝息が聞こえた。起こすのも忍びないなあと彼は思った。そこで部屋の隅からひざ掛けをとってきた。それを彼女の背中にかけようとして、彼女のスマホが床に落ちているのに気づいた。彼女の手から滑り落ちたようだった。意図せず、トモキはカナと誰かとのやり取りを見た。それからそっとスマホの画面を消して、裏向きにして伏せた。そしてカナの背中にひざ掛けをかけた。
トモキはちゃぶ台の下に戻って行った。
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