251126 長電話について。
「だからね、私、ミカにこう言ったのよ。悪いことは言わない、その男だけはやめとけって。だってそうでしょ? そいつの言動からは胸糞悪いエゴの臭気がプンプンかおるもの。何を言ってもそこには別の意味があるの。君のことが好きだよって言うとするでしょ? それを彼の本来の言葉に翻訳するとね、僕のような人間に好きと言われてさぞかし嬉しいだろう? 末代まで誇りにするがよろしい! ってことなのよ。もうね、ああいう人間を見るとホントにムカついちゃうんだな。殴りつけて、ケタンケタンにしてやりたいわ。あいつが泣いて謝ってきたらさぞかしいい気持ちになるでしょうね! でもミカの手前、さすがに控えたわ。それには途方もない、ブラックホールの引力に抵抗するような努力を要したけれど、でも怒鳴りつけるわけにはいかないじゃない? だってあの子はほんとにとろけるような目であいつのことをじっと見つめているんだもの。ほんと、可愛くて仕方がなかったわ。泣きたいような気持ちだった。きらきらして、熟練の職人が一つひとつ心をこめて大切につくったお菓子みたいで。でもね、そのこと自体が本当に悔しくてたまらないのよ、私としては」
サトルは電話の声に耳を傾けて、うんうん、そうだね、ハハハなどと適度に相槌を打っていた。打ち方や場所を間違えないように慎重に。大工の見習いにでもなった気分だった。
彼はワンルームの自宅にいて、キッチンの換気扇の前にパイプ椅子に座り、何本目か分からない煙草に火を点けたところだった。だが何度か口をつけたあとで、心が定まらないような目つきで灰皿に揉み消し、しばらくして別の煙草に火を点けていた。
愛煙家から見れば、およそ常軌を逸した行為である。このようにして味わい尽くされることなく無碍に葬られた煙草が灰皿には山を成している。まさに冒涜に等しい所業と言えた。
しかしサトルだって何も煙草の尊厳を踏み躙るためにそのような所業に手を染めているわけではなかった。普段の彼は根元まできっちりと煙を吸いつくして初めて「一服」という表現を行為に与えるような人間だった。だが今の彼はそうではない。彼には忙しくなく煙草に火を点けて消しているという自覚がほとんどなかったし、そのことに気を止めるだけの精神的余裕がなかったのだった。
サトルの心中は猜疑と不安、それから恐怖といった三種類の煙が、互いに交わり、その配合によって色彩を変じながら濛々と淀んでいたのである。
それはなぜか、もちろん彼が耳に押し当てているスマートフォンの向こうでお喋りを続ける電話の主によってもたらされているものだった。
彼女の名前はトキネという。彼女とサトルは恋人の関係にあった。彼が住んでいるのは札幌市豊平区で、彼女も同じ豊平区に住んでいる。二人とも同い年で、二十一歳だった。サトルは大学へ進学せずに建設会社に勤めていたが、彼女は大学生である。
二人の出会いは合コンだった。主催したのがサトルの高校時代の友人だ。友人は大学生だが、サトルとは仲が良く、卒業後も何度も顔を合わせていた。それだから大学生ばかりの合コンにサトルが一席を占めるのも珍しいことではなかった。サトルとしても、普段男だらけの現場で忙しく働いているので女性との出会いが乏しい。だから友人に誘われるのは願ったり叶ったりだった。
そこにいたのがトキネだった。彼女はあまり合コンには乗り気ではないようだった。いかにも友人の押しに負けたという調子だ。もちろん、そのような顔でいて実際は誰よりも乗り気なのではないかという邪推は成立するが、彼女に対しては的外れだった。もちろんその心中は彼女のみぞ知るところであるが、少なくともサトルにはそう見えた。そしてそここそがサトルの気を引いたところだったように思う。
女性と出会うことが目的なのだが、どうも彼には合コンに出会いを求めるということに後ろめたさというか、どこかで抵抗するような矛盾した気持ちがあったのである。それがためにこれまで機会があっても関係が近づくことがなかった。彼は自分自身が自認するよりもずっとロマンティストであり、夢見心地の人間だった。
サトルはトキネに猛烈なアプローチを仕掛けた。とは言え、彼にとっての猛烈なアプローチなどというものは、トキネが口を開く際には率先してリアクションをとり、自分が話す際には話題を彼女の方へ差し向けるという程度のものだ。しかし周囲の人間には彼が彼女に気を惹かれているということは火を見るよりも明らかだった。その歯痒いアプローチに痺れを切らしたのがサトルの友人で、彼はまるで魔法のような手腕を発揮して二人に連絡先を交換させることに成功させたのである。
有頂天になったサトルだったが、トキネの方は合コンが終わるとさっそく彼の存在を忘れてしまった。そんな二人が恋人関係に至るには、ある一つの冒険があるのだが、それに触れるのは長編小説を一冊書くほどの紙面を要するので今回は割愛することにする。
なんやかんやで二人で恋人になり、そして一年が経過し、その間に二人は会うたびごとに絆を深め、会わない時間は絆をより太くしっかりとしたものへと成熟させていた。
そんな彼女からの電話である。
ここで一つの疑問が生じるのは当然のことと言えよう。つまりなぜそんな彼女からの電話にサトルは猜疑心を肥大させ、不安をかき立てられ、そして恐怖に駆られているのだろう。
その点について説明する。
電話がかかってきたのは二時間ほど前だった。サトルが仕事先から帰り、シャワーを浴び、洗濯を済ませてから、コンビニ弁当を食べつつビールを飲んでいた頃合いだ。ちなみにいうとこの時間にトキネから電話がかかってくることは珍しいことではない。彼女が何らかの事情(アルバイトや息抜き)で電話が出来る状態にない場合を除いて、二人にとって暗黙の了解とも言うべき習慣だった。話す内容は他愛もないことだ。次の休みの予定や日々のあれこれ、愚痴等々。互いにこれと言って話すことがなくすぐに電話は終了するときもあるが、今日のように二時間を超える長丁場となることもある。
本日の話題はトキネの古くからの友人であるミカとその彼氏についてである。トキネはミカにほとんど偏愛とも言うべき愛情を注いでおり、何を隠そうトキネを合コンに連れ出してきたのがこのミカだった。したがってサトルにとってミカは恩人でもあるわけだ。彼は件の合コンも含めて何度かミカにあったことがあるが、この二人ほど正反対な印象を与える組み合わせはないのではないかと思っていた。どこがどのように、というのは冒頭のトキネの話からおおよそのところは推察され得るだろうから詳細は語らない。トキネにとってミカは親友であり、妹であり、子どもであり、恋人のようだった。ミカにとってのトキネも同じようなものだろう。ありとあらゆる関係性を一人の人間に紐づけているのだ。
またミカさんについての話が始まったぞ――とサトルは苦笑交じりにトキネの話を聞いていた。彼はトキネのミカに対する思い入れの強さに嫉妬のようなものを感じていた。だが近頃ではどうあがいても二人の間に割り込むことはできないのだし、それはそれこれはこれとして自分たちの間にある糸も確かなものだと、自分を納得させることに成功していた。だから安らかな気持ちで、また愉快な気持ちでトキネの話に耳を傾けていたのである。
ところがじわじわと不安がにじり寄ってくる。
おかしいなとという違和感が鏡のような湖面にぽつりぽつりと浮かぶ泡のように生じてくる。
それらが蓄積した時、捉えどころのない恐怖が形成されていた。
なぜそのように思ったのか、なぜそのような状態に陥ったのか、サトル自身にもわけが分からなかった。
ここまで自制を失くすほど、不可解な言葉をトキネは口にしなかった。どちらかと言うとそれは普段と変わりないものだった。確かにミカへの偏愛のあまりいささか語調は荒くなっていたにせよ。
いずれにせよ、サトルが次のように思うのは、まったくもって不自然なことだったのだ。
こいつは誰だ?
もちろん、電話から聞こえてくる声はトキネのもので間違いはないし、使う言葉も言い回しも彼女のものに違いない。それでも、いや、こう言っては筋が通らないかもしれないが、それだからこそ、電話の向こうにいる人間がトキネであるとは思えないのだった。
「ちょっと聞いてるの?」
というトキネの声にサトルはハッとして我に返った。灰皿からは煙草が雪崩落ちていた。
「もちろん、聞いているよ」
とサトルは慌てて答えた。
「本当にね、私、自分がどうしていいか分からないのよね。気持ちの上では答えは決まっているのよ。今晩ミカが泊っているあいつの家の前までいって、メガホンで思い切りあいつがこれまでしてきた不貞の数々と告発してやるのよ。きっと泡を吹いて出てくるでしょうね。そこを、こう、バチンと! ね、でもね、私がそうした時ミカがどんな顔をするかと思うと、とてもじゃないけどそんなことはできないでしょう?」
「そうだね」
と言いながら、サトルは更に強烈な違和感を抱いた。なんだ? どうしてだ? 混乱する頭で必死に考えるけれども、答えは見つからなかった。
トキネはさらに言葉を続ける。
サトルは相槌を打ちながら、必死に違和感の正体を探る。
そして、ぞわりと背筋に厭な感触を感じて、彼はスマートフォンを耳から引き剥がした。だが、トキネの声は聞こえていた。
どこから?
アパートの共有通路に通じるドアの向こうからである。
サトルはスマートフォンをそっと、音を立てないようにシンクの上に置き、ゆっくりとドアの方へ近づいた。それから息を殺してドアスコープを覗き込む。
ドアの前にはトキネが立っていた。スマートフォンを耳に押し当て、話し続けている。だがサトルは確信した。こいつはトキネではないと。
その時、ドアスコープを通してトキネの姿形をした何者かとサトルの目が合った。それはにんまりと笑った。
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