251026 泥棒について

who: 電車の中でだけ泣くサラリーマン

where: 各駅停車の車両の端

when: 終点のアナウンスが流れはじめた瞬間


 各駅停車の電車は、真っ暗な森を抜けて、高いマンションが織り成す夜景の中に身を躍らせた。車体は数々の光を受けて、次々に表情を変えた。

 最終電車の車両の中は、ラッシュ時のそれよりも当然閑散としているが、乗客の属性はバリエーションに富んでいた。

 酔いの極地に足を深々と踏み入れてぐったりとしている若い男、疲れ切ったスーツ姿の中年男性、斜め上を鋭く睨みつける老女、怯えたような顔つきの小さな男の子と双眸に苛立たし気な光を宿した母親、彼らはそれぞれの物語をこの電車の中に持ち込んでいる。

 その中に一人、二十代後半の男性がいる。

 彼は車両の端の座席に座り、安価なスーツを身に纏っている。髪型にも体型にも取り立てて特徴はないが、姿勢だけはどことなく異質な印象を見る人に与えた。

 背中を背もたれに預けることなく、不気味なまでにピンと立てて、膝を揃えた膝の上にビジネス鞄を置いている。両手は鞄の持ち手に丁寧に揃えられていた。

 彼の顔は注意深く測られたように前方に向けられており、瞳は何か期待すべきものを待ち受けるようにキラキラと輝いている。薄っすらと浮かんだ微笑は恍惚の一歩手前といった感じで、最終電車にそのような表情を持ち込むのは、不適切の誹りを免れない。

 もったりとした車両の中で、彼だけが出来の悪い合成写真のように浮かび上がって見え、彼の周囲にいる乗客は時折り居心地悪そうに彼へ視線を向けた。

 いかにもどこかの企業に、それもスーツの着用が半ば義務となっている職場に勤める人間に見えるが、実のところ彼の職業と現在身に着けている衣類には何の関連もない。

 彼の職業は泥棒だった。いや自認としては泥棒なのだが、その手法はどちらかと言うと詐欺師に近いかもしれない。

 まず彼は空き巣を狙わない。必ずインターフォンを押し、住人がドアを開けるのを待つことにしている。大抵は門前払いを喰らうが、中にはぼんやりした人もいて、ドアが開くや否や、さも当たり前のように上がり込んで、部屋の中を見渡し、「これとこれ、それからこれを頂戴しますね」と告げてそのまま持ち帰るのだ。住人はぽかんとしつつ「ああ、そうですか。それはどうも」と頭を下げる。「いえいえ、大したことでは」とかなんとか言いつつ彼は来た時と同じようにドアから颯爽と出て行くのだ。しばらくの間住人は居間に座り込んで、じっと床を見つめ、いったい自分の身に何が起こったのかを真剣に考えることになる。もっとも彼が持って行くものは気持ちの切り替え一つで諦めがつくものばかりだったから、そのうち考えるのも面倒になって、まあいいかと一時間もすれば彼の訪問それ自体を忘れるのだった。

 彼の生活はそのような営みによって成り立っていた。

 そのような暮らしが始まったのはまったくもって偶然の出来事だった。もとより彼は泥棒を志して幼き日々を生きて来たわけではない。特に大きな夢や野望は持ち合わせてはいなかったが、人並みの生活というものを目指してはいた。

 大学を卒業し、一般企業に就職すると、過酷な業務と底知れない残業に精神をすり減らすことになった。ポケットに空いた穴から生命力とでもいうものが、毎日着実に零れ落ちていくのが目に見えるようだった。

 だが上司や先輩は「今だけだ」とか「最初は誰だって辛かった」と口にするし、突如として激昂して叱りつけてきたかと思えば、「ここまで言うのはおまえに期待しているからなんだ」と情愛に満ちた眼差しで彼の肩に手を置いた。

 彼は何かを疑うなどという面倒な精神的作業に身を費やすのが苦手な質だったし、それに頼りにされている、期待されているのだ、という実感に慰められて鬱屈した日々を押し通してきた。

 その結果突き付けられたのは解雇通知書であり、彼の頭の中で何かがポンと弾けるような感覚があった。

 ちょうどそれくらいの時期に、当時交際していた恋人が、彼の貯金を全額引き出したまま姿を消したという事情も手伝って、その瞬間から彼の成り立ちはまるっきり変わってしまったのだった。

 それまでの彼はどちらかと言うと冴えない、引きこもりがちの性格だった。それが妙に活き活きとし始め、歪な、突き抜けたような爽やかさを発散するようになった。淀んでいた瞳は光を集約するようにキラキラとし、唇には常に微笑が浮かんでいた。

 彼は解雇通知書を受け取った帰り道に、ふと目に着いた家のインターフォンを押した。

「どちら様でしょう?」

 と顔を出した中年男性に、

「泥棒です」

 とにっこりとして答えたのが、今に続く生活の始まりだった。

 そのようにして幾年か月日が流れ、彼はすっかり泥棒としての自分自身を肉体の隅々にまで定着させてしまった。もはや生活のために泥棒をしているのか、泥棒のために生活をしているのか判断することが難しかった。

 稼ぎはそれほど多くないから、毎日泥棒に出かける必要があるのは確かだった。しかしお金のために泥棒をしているという意識は彼にはなかった。結果的に生活の役に立っているというだけの話だったのだ。

 見知らぬ人の家に上がり込んで、世間話をしながら、見知らぬ人の生活が醸し出す空気を吸い込み、彼や彼女らの言葉に頷き、微笑みかけ、そして記念にとばかりに彼らの生活から少しは金目になりそうなものを貰い受けて帰るというその一連の流れの中に、彼はある種の親密さのようなものを感じた。その感覚がために泥棒を続けているような気がした。

 つい先だって彼はとある瀟洒な一軒家のインターフォンを押した。落ち着いた雰囲気の住宅街に調和する、いかにもゆとりのある佇まいの二階建ての住宅だった。

 住人は宅配の配達でも依頼していたのかもしれない。インターフォン越しに言葉を交わすこともなく、「はーい」と声が聞こえたかと思えば、慌ただしく扉が開いた。

 平素のように「私、泥棒をしている者でして」と切り出しかけて、彼はふと固まった。

 鼻を付き合わせるような距離にいた相手の女性も、凍りついたように動きを止めた。

 彼女は彼の貯金を端数に至るまで折り目正しく持ち去った元恋人だった。泥棒稼業を始めて以来、彼の顔から微笑が消えたのはこれが最初だった。

「……ユウくん」

 と彼女は言った。

 彼はしばらく放心したように彼女の顔をじっと見つめていた。そのままナマケモノでさえ痺れを切らして踊り出すような時間が流れた。

 やがて家の中から子どもが母親を呼ぶ声が聞こえた。

 その声が二人を取り囲み、世界から封じていた殻に亀裂を入れ、風が吹き込んで来た。

「今行くわ」

 と彼女は家の中に向けて叫んだ。

 彼の顔にも微笑が戻っていた。

 彼はいつものように家の中に上がり込んで、彼女と談笑をした。彼女の子どもを抱え上げて遊んであげもした。彼女も彼の不思議な力に糸を引かれるようにして、三人はごく自然に親し気な時間を過ごした。

 そして彼は彼女の財布の中に入っていたお札を数枚と、彼女の旦那の腕時計を一つ、それから写真立てを鞄に納めた。写真立てには幸せそうな家族写真が納められていた。

「それじゃあお幸せに」

 と彼は手を振り、家をあとにした。

 ゴトゴトで電車が揺れていた。彼の異様なまでに整然とした姿勢も、車両が揺れるごとに影響を受けている。

 やがて車掌がアナウンスを告げた。


「間もなく終点、札幌駅です。電車からお降りの際は忘れ物にご注意下さい」

 

 その瞬間、彼の瞳から涙が溢れ出した。

 彼は微笑を浮かべたまま、姿勢を変えることなく、電車が駅に着くまでの間、涙を流し続けていた。

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