第10話 デステル

「明日は何かしたいことがありますか?」

部屋に着くと花を花瓶に入れるダランにそう言われ、一瞬、答えに迷い──ふと昨夜に見た大砂時計の姿が脳裏に浮かんだ。


「……あの……精巧な砂時計があると言っていましたよね。もし見られるのなら、見てみたいです」


 ダランの瞳がわずかに揺れ、やがて柔らかく細められる。

「分かりました。案内させるように言っておきます」


「……一緒には、行ってくれないんですか?」

 思わず首を傾げると、彼は少し言いにくそうに答えた。


「明日は神官に話があるからと呼び出されていて、一緒には行けないんです。代わりに、信頼できる者に案内してもらえるように言っておくよ」


 その言葉に、残念だと思う自分がいた。

 本来はほっとするべき所だ。

 一緒にいない時間が少ない方がいいに決まってる。


 なのに、僕は自分の存在が何だったかを忘れて、浮かれていた。

 僕自身が求められてると勘違いしていたのだ。 

 

「……そう、ですか」

 俯いた声が、自分でも驚くほど小さく震えていた。


 ダランは気づいたようにこちらを見つめ、何か言いかけて……結局、灰色の瞳に優しい笑みを宿しただけだった。


 ◇◇


「高妃殿下、お待たせいたしました。砂時計をご覧になりたいと伺い、案内するようダラン様より仰せつかっております」


 茶色の外套を羽織った学者が、背筋を伸ばして一礼した。


「デステルと申します。よろしくお願いいたします」


 淡々とした口調。

 ダランのように手を差し伸べてくることも、気遣うような微笑みもない。

 髪は爆発したように乱れていて、思わず息を呑む。


(……こんな髪型、地上でも見たことがない)


 つい目が頭に向いてしまい、慌てて顔に戻す。そんなことを何度か繰り返してしまった。


 歩き出すと、デステルは抑揚のない声で、立て板に水のように説明を始める。

地の民ドルナーグの砂時計は、かつて非常に精巧なものが作られていました。ですが……壊れた部分を直せる者がおらず、そのまま動かなくなった」


「修理の仕方が分からなかったのですか?」


「いいえ。設計図も部品も残っています。理屈の上では修理可能でしょう」


「では、何故……」


「高妃殿下もお気づきでは? ここに来て時間が経つのですから。地の民は皆、目が弱い。強い光が苦手で、淡い光の中では細かい作業ができない。だから精密さを要するものはことごとく停滞し、芸術も育たなかった」


(……なるほど。だから知の国ナランサスの人が作ったものが、今も受け継がれているのか)


 デステルはさらに言葉を継ぐ。

「また、この国は常に地震の危険に晒されています。音を吸う岩は便利ですが、外からの異変を察知しにくい」


「……それは……危険では?」

思わず問い返した声が震えていた。


「ええ。いかに早く異常を察知できるか。それを早急に何とかしなければならない問題点でもあるのです」


 淡々とした声なのに、どこか切実さがにじんでいた。

 慰めではなく、甘えでもない。

 ただ真実を突きつけられたソレルの胸に、ずしりと重くのしかかる。


(……もし本当に、大きな揺れが来たら……)


 想像してはいけないと思いながらも、頭の中で景色が揺らぐ。

 暗い岩の天井。閉ざされた道。

 逃げ場のないこの国に、崩れ落ちる岩の塊が覆い被さる映像が浮かんで──思わず足を止めそうになる。


(……ドルナーグは、思っていた以上に危うい場所なのかもしれない)


 胸の奥がざわつく。

 父がカミュラ姉を嫁がせた理由が、今になってはっきりと形を取った。

 この国が産出する“鉄”──他国では得られない強靭で加工しやすい金属。

 それは今、世界を大きく変えつつある。


 争奪は避けられない。

 父はそれを見越して縁組を決めた。

 だが──この不安定な国が攻められれば、落ちるのも時間の問題かもしれない。


 ドルナーグは、地上と違ってどこにも逃げ場がない。


 その事実を思い知らされて、背筋をぞわりと冷たいものが走った。

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