第8話 デート

 婚礼の儀が終わると、僕たちは人々の待つ広場へと案内された。

 声は聞こえない。けれど、無数の白い手がこちらに向かって大きく振られている。


「手を振り返してやってください」

 ダランに囁かれて振ると、さらにたくさんの手が花のように揺れた。

 音のない祝福。けれど、笑顔と白い指先のきらめきが、胸に響いてくる。


「これでも歓迎しているんです」

 申し訳なさそうに言うダランに、僕は首を振った。

「とても……嬉しいです」


 その時、前へ進み出た女性たちが、興奮したように両手を素早く動かしていた。

「……ダラン、あの人たちは?」

「あなたのドレスを仕立てた者たちです。とても綺麗、自分たちの誇りだと」


 胸が熱くなり、僕は慌てて両手を胸の前で合わせた。伝わるか分からなくても──ありがとうを伝えたくて。

 けれど同時に、小さな悔しさが芽生える。

(僕自身で、この人たちの言葉を理解できたらいいのに……)


 ダランの通訳に頼るだけじゃなく、自分もまた伝えたい。

 初めて、そう強く思った。


 ◇◇


 その後、薄暗い廊下を抜け、ダランと二人きりで過ごす部屋へ案内された。


「食事にしよう」

 てっきり王や妃と大広間での宴を想像していた僕は驚いた。

 ドルナーグでは婚姻のその日から、夫婦は家族と離れ、二人だけで暮らし始めるのだという。

 城に住まうダランでさえ、王や妃と遠く隔てられた区画で暮らすのが伝統らしい。


 卓には見慣れぬ料理が並んでいた。

 赤紫の根菜を煮込んだ温かなスープ。淡く光を放つ茸が皿の縁で瞬き、琥珀色の酒が宝石のように揺れる。


「……口に合えばいいのだが」

 婚礼で堂々と誓いを告げた男が、今は落ち着かずに僕を窺っている。


 スープをひと口。優しい甘みが舌に広がり、冷えた体を芯から温めた。

「とても美味しいです!」

 声が弾むと、ダランの肩から力が抜け、安堵の笑みがこぼれた。


「……それなら良かった」


 灰色の瞳が柔らかに細められる。その笑顔は、煌めく鉱石よりも温かかった。


 差し出されたパンを受け取る。ぎこちない仕草なのに、真摯な気遣いが胸に迫る。

(……駄目だ。これは僕じゃなく、カミュラ姉様が受け取るはずの優しさなのに)


 分かっているのに、欲しくて仕方がない。灰色の瞳も、大きな手も──全部、僕だけのものにしたくなる。


 琥珀色の酒を口に含む。けれど苦みでは、この罪悪感を薄められなかった。


 ◇◇


 晩餐を終えると、ダランが立ち上がった。

「……見せたいものがあるんだ」

 差し出された手を取り、導かれたのは城奥の庭園だった。


 鉱石の光に照らされ、闇の中でひっそりと広がる庭。

「もうすぐ……ほら」


 目の前で、小さな蕾が震え、ゆるやかに青い花弁が開いた。

 星が地の底に舞い降りたように、淡い光を帯びて咲き誇る。


「……綺麗……」

「《リスティアの花》です。この花が咲く日に婚礼を挙げた夫婦は幸せになる──そう伝えられています」


 青光に照らされたダランの瞳が、優しく僕を映す。

(……本当は姉様が見るはずだったのに。僕が見ている)


 心臓が早鐘を打つ。嬉しくて、苦しくて。偽りの花嫁には眩しすぎる光景だった。


 ◇◇


 部屋に戻ると、ダランが静かに言った。

「今日は疲れただろう。無理はしないで休もう」


 案内されたのは、広いベッドがひとつの寝室。

「……ベッドは一つなんですね」

 思わず漏らすと、ダランが小さく笑った。


「夫婦ですから。ただ──安心してほしい。今夜は眠るだけだ」


 真っ直ぐな瞳に告げられ、胸がどくんと鳴る。拒まれたわけでもないのに、ほんの少し切なくて、それでも安堵が勝った。


 風呂を終え、与えられた寝間着に着替えてベッドへ潜り込む。隣にダランの気配。けれど間には小さな空白がある。


(……近づきたい。いや、近づいちゃいけない……)


 矛盾する思いだけが、夜を満たしていた。

 偽りの花嫁である僕は、その揺れる心を抱えたまま──けれど確かに彼と同じ夢を見て、眠りについた。

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