第四幕「霧の向こうの手紙」

 次の日、僕は彼女の所属する研究室に来ていた。廊下を抜けると、雲の隙間から僅かに夕暮れの柔らかい光が窓から差し込み、埃混じりの空気が黄金色に染まっていた。机の上には資料やノートが散らばり、古い書棚の木の香りがほのかに漂う。外の冷たい風とは対照的に、室内は静かで穏やかだった。


 夕暮れの研究室に、爽葉の声が響いた。


「見てください、これ……たぶん、彼女の直筆です」


 差し出されたのは、古びた和紙に書かれた短い文だった。墨は褪せ、ところどころ判読できないが、確かに手の震えた筆跡が残っていた。


 その紙の手触りは、長い年月を経た紙特有の硬さと柔らかさを併せ持ち、触れるだけで何か遠い時間の空気を感じさせた。


『我は帰らぬ。帰るは誰かの道なり。我が道は霧の中にあり。』


 それだけの文章だった。しかし、その一文が、僕の胸を深く貫いた。文字の間に漂う沈黙や余白が、言葉以上に重く、胸の奥に静かに落ちていく。


「……“帰るは誰かの道なり”か」


 思わず呟く。


 爽葉が静かに頷く。


「たぶん、雫は“帰る”という言葉を、他者に縛られることと捉えていたんです。

だから、“帰らなかった”のは、孤独のためじゃなく、自由のため。」


 長い時間、意識を雫の言葉に引き付けられていた気がする。


 僕は窓の外を見る。霧雨がまたゆっくりと降り始め、校舎の輪郭がぼやけ、街の灯りが水の粒のように滲む。雨の匂いが風に混じり、湿った空気が肺の奥まで届く。世界は静かに揺れているのに、どこか心地よく、時間が止まったような錯覚に陥る。


 晴樹はその光景を眺めながら、ぽつりと言った。


「……自分の道を歩くって、怖いですね」


「ええ。でも、誰かの道を歩くよりは、きっと楽なんですよ」


 爽葉の声は、霧雨に似て優しかった。柔らかく、静かに胸に触れる。


 沈黙が二人を包む。窓の外の霧が揺れるたびに、微かに灯りが揺らぎ、二人の影を長く床に落とす。


 その沈黙の中で、僕は思った。


 雫は“自由”を恐れなかった。自分の存在を、誰かに決められることを拒んだ。


 その生き方を知ったとき、胸の奥の痛みが、なぜか少し和らいだ。


「……霧雨雫は、帰らなかった」


 僕はもう一度その言葉を口にした。それは伝説ではなく、彼女自身の祈りのように聞こえた。耳の奥で、雨音や霧の匂いが静かに重なり合い、雫の存在を心の中に残す。


 爽葉が微笑む。


「でも、彼女の言葉はこうして残りました。帰らなくても、誰かの心に帰ることはできる。そう思いませんか?」


 僕は頷いた。外の霧の中に、確かに雫の影が立っている気がした。

孤独の果てに、誰よりも自由な姿で。そしてその影は、僕自身の心の奥にも、そっと寄り添っていた。

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