第二幕「白き夜にて」
火の匂いが漂っていた。焼け落ちた村の向こうに、夜霧がたちこめている。焦げた木の匂いと湿った土の匂いが混ざり合い、空気は重く、息をするたびに胸がざわつく。霧雨雫は、刀の切っ先を地に突き立てたまま、しばらく動かなかった。刀の鋼の冷たさが手のひらに伝わる。風が、焼け焦げた家屋の残骸の間を抜け、髪をかすかに揺らした。
戦は終わった。勝者も敗者も、もはや意味を失っている。煙と炎が夜空に滲み、星の光さえも霧に霞む。誰もが名誉を語り、忠義を誇る時代に、雫はただ、自分であるために剣を取った。刀を握る手に力が残るのは、己の意志の証だけだった。
男たちは言った。
「女が剣を持つなど、恥だ」
「帰る場所を守れ。それが女の務めだ」
言葉は鋭い刃のように、雫の耳をかすめる。けれど、彼女の瞳には怒りも恐れもなかった。ただ静かに、深い夜霧のような孤高さが漂う。
けれど、雫に“帰る場所”など初めからなかった。家族は疫病で死に、仕える主も戦に消えた。夜ごとの空虚と孤独は、彼女にとって自然の一部のように感じられた。だからこそ、彼女は自分を誰のものにもせず、風のように生きようとした。
夜の森を抜ける足音、川のせせらぎ、焚き火の残り香。すべてが彼女の道標となり、決して後ろを振り返らずに歩き続ける理由となった。
ある夜、幼なじみの兵が問いかけた。
「なぜ、そこまで孤独を選ぶ?」
雫は答えた。
「孤独は、誰かに決められない自分の形です。帰る場所を持たぬ者だけが、自由を知るのです」
その言葉には、静かだが確かな強さが宿っていた。夜霧に溶け込む彼女の影は、小さくとも揺るがぬ存在感を放つ。
その翌朝、雫は姿を消した。
霧の向こうへ、足跡ひとつ残さずに。
鳥の鳴き声が遠くで響き、川の水面に朝日が淡く反射するだけ。世界は何事もなかったかのように静かだ。
戦火の残り香だけが、彼女の存在を告げていた。煙と灰の匂いに混じって、誰も捕らえることのできない自由の匂いが漂う。
人々は後に語った。
霧雨雫は戦で死んだのではない。
帰らなかったのだ、と。
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