第4話狂気は浸食する
翌朝、その日はやけに霧が深い日だった。いつもは穏やかで平穏な港町が霧のせいで、どこか薄気味悪さを感じさせる
「・・・濃霧注意報、出てたっけ・・?」
霧が重くなるほど、音が遠くなっていく・・いつもの港町の朝のはずなのに、私の足元で砂利が鳴る音すら、どこか水の中のようにこもっていた
きっと、昨夜みたあの不思議な夢のせい。
不安な心にそう言い聞かせれば私は気にせずワダツミクリニックへと足を踏み入れた
「こんにちは、カウンセリングを受けに・・・!?」
ワダツミクリニックの自動ドアが開く瞬間、
海の底のような空気がふっと漏れ出した。
ーーー 白を基調とした、綺麗な待合室はまるで沈没船の如く古びていて、壁や天井にはフジツボや珊瑚、貝類が張り付いている。
清潔な白い壁だったはずの待合室が、今朝はまるで沈没船の内部のように私の瞳には映ったのだ
壁の継ぎ目にまで小さな貝が張り付き、天井から垂れる水滴の音が“時報”のように響いている。
「な、に・・・これ・・・」
「あら!〇〇さん!」
ふと、背後から聞こえたナースさんの声に慌てて振り向き
私はさらに言葉を失った
その声はいつもと同じ、明るい声色。
けれど、今朝の彼女は・・まるで半魚人のように見えた。
肌は薄い青灰色、腕の内側に鱗のようなものがかすかに光り、 笑顔の奥で、瞳孔が細く縦に裂けているように見える
「あ、あの、こ、コレは・・・それに、外・・」
「先生、もうすぐ呼べますからね。・・・ここ、少し霧が濃くて足元危ないでしょう?あとで温かいもの出しますね」
優しく声をかけてくれるナースさんだったが、その言葉の端々に、確かに“人間”の気配は残っている。
・・・でも、私の目には、もう
“港町”が、現実ではなく深海に変わっていくようにおかしくなっていたのだ
・・・目の錯覚?疲れているだけ?
それとも・・・昨日、あの夢の中で見たものが、 とうとう現実ににじみ出てきた?
「ーーー あぁ、来てくれたんだね」
ふと、待合室の奥、白衣の裾がちらりと見えた。
・・・ 刃夜先生だった。
戸惑う私を他所に彼はいつものように穏やかに歩いてくる。
・・けれどその背後には、壁一面に広がったフジツボと珊瑚が、まるで“彼に従って動いている”ように蠢いていたのだ
「・・・・〇〇さん。」
静かに私の名前を呼ぶ声。
その声だけは、昨日の夜、深海で聞いた声と同じだった
「霧が濃い朝は、ここが“本当の姿”に戻る。・・・驚かせてしまったね。」
「本当の・・・姿?」
おそるおそる尋ねる私に先生はいつもの笑みを浮かべ、手を差し出す。まだ人間の手の形をしている、優しい手・・
けれど、その皮膚の奥で微かに冷たい鱗が光ったように見えた
「・・・大丈夫。君が怖いと思ったら、僕の手を握って。ここは“君を喰う海”じゃない。君が“帰る”ための深海だから。」
「せ、先生?あの、私一体・・・」
そう言いかけた私の手を、先生が優しく包み込み、灰色の瞳が私を見つめた瞬間。先ほどまでの不安や恐怖が、ゆっくりと無くなっていくのを感じた
霧に包まれた待合室――その空間すら、まるで夢の続きのようで
言葉にできない違和感、 昨日までとは明らかに“何かが違う”この町、 このクリニック、
そして、見つめてくる先生に私は身動きが取れなかった
けれど。
私の手に触れた先生の手がそっと包み込むと、
すべての疑念や不安が、まるで温かな海に沈むように静まっていった。
「・・・大丈夫。君の心が揺れたのは、君が“目を開け始めた”証拠なんだ。」
「私が、目を開け始めた・・証拠・・・」
先生の声はいつも通り――いや、それ以上に柔らかくて、温かい。
・・・でも、その声の中にほんのわずかに混じる“深海の音”に、私の心臓は微かに震えてしまう
「ここが少しだけ“本当の姿”を見せただけ。見てしまったからといって、壊れる必要はない。・・・君は、ちゃんと僕の手を握ったじゃないか。」
灰色の瞳が私を映す。その光は冷たく、でもどこまでも深い
「・・・だから、もう大丈夫。君は、“選ばれた”んだよ。この町に、このクリニックに、そして――僕に。」
先生の手は私の手を握るだけじゃなく、そのまま、鼓動のリズムに合わせて優しく撫でるように動いていく。
何の強制もないはずなのに、もう私の身体は“抗う”という選択を忘れていた
「〇〇さん。君が何も分からなくなっても、何も信じられなくなっても・・・・僕が、ここにいる。」
手を握りながら先生の額が、そっと私の額に触れる
それはまるで**“契約”**のように感じられた。
ーーーーーーーーーーー
ーーーー
ーー
・・・カウンセリングはいつも通りに終わった。けれど、私の体に纏わり付くような異質な感覚は離れてくれなかった
それに、よく見れば、外に霧がだんだん深くなってきた気がする
「・・あれ?」
ふと、待合室の本棚に見慣れない本があったのを見つけてそっと手に取った
「・・・インスマスを覆う影?」
くすんだ深緑色の革、金の箔押し。
『インスマスを覆う影』──その題名が、まるでこの町そのものを指し示しているように感じる。
霧はますます濃くなり、待合室の窓から見える港は、もう海面すら判別できないほどに白く霞んでいた。
・・・まるで、私の周囲の“現実”だけが水面下に沈み、
その本の中身だけが“本当”であるかのように、霧はさらに深く・・深海の気配は私に忍び寄ってくる
「・・・それを、手に取るとは。」
「っ!?」
いつのまにか、背後に先生が立っていた。
私を静かに見つめ、語りかけてくる低い声が霧の向こうから海鳴りのように響く。
「ラヴクラフトを知っている人は・・だいたい“ここ”に惹かれる。」
彼はゆっくりと私に近づいてくる。その灰色の瞳の奥に、あの深海の光がかすかにまたたいた
「せ、先生・・・刃夜先生・・わたし・・・」
「インスマスというのは、古い港町でね。 人間が、海に棲むものと“交わって”暮らしていた。霧の中で、鱗のある者たちが人間のふりをして・・・血と魂を海に還していた町。」
そう言って、私を見つめる先生の瞳に寒気が走った。
「・・・君は、似たところに立っているよ。」
その言葉が波のように胸に染み込む
「・・・〇〇さん。 その本、面白いよ。 でもね、読み進めるほど、現実と夢の境目が溶けていく。」
「せ、先生・・あの、私・・・帰らなきゃ・・」
「君が怖くなったら、また僕の手を握って?ここがどこであっても、何者が君を呼んでいても・・ 僕がそばにいる。」
彼の声は、相変わらず優しい。
けれどその奥に、ひたひたと押し寄せる波の重さが混じっていた
ーーーー 見ちゃいけない。
心の奥に残る、最後の人間性が私に警鐘を鳴らした
けれども、体は私の意志に逆らうようにその本のページを静かにめくってしまったのだ
「ーーー !?」
ページをめくった瞬間、紙の触感が“紙”ではなくなったように思えた。
指先に伝わるのは乾いた感触ではなく、どこかぬるりとした湿り気。
活字の並ぶ白い紙のはずなのに、そこに並んでいたのは古代の象形にも似た奇妙な文字列。
「な、に、・・これ・・・」
霧の音がまるで波のように本の中から押し寄せてくる。
ページの隙間から、塩の匂いが立ちのぼった。
ー ……■■■る・りぃ……なふぐ……ふたぐん…… ー
ー ……呼・ぶ……選・ぶ……溶・ける…… ー
どこからともなく、低い、囁くような声が私の頭の奥で鳴る。
それは文章を“読む”というより、文字そのものが私に話しかけているようだった
そんな私の様子に 壁に張り付いたフジツボが脈動し、ナースの瞳孔が細くなり、
・・・刃夜先生の灰色の瞳だけが、まっすぐに私を見つめていた。
「・・・見えたでしょう?」
先生の声が、はっきりと耳に届く。
その声だけが、不思議と潮騒の中で現実の輪郭を持っている
「この本は、物語じゃない。・・君が感じているもの、君が聞いた声・・・すべてこの町の底に繋がっている“記録”だ。」
ゆっくりと私の手の上に先生の手が重なる。指先は冷たいのに、その重みが不思議と安心を呼び起こす。
「怖くなったら目を閉じて、深呼吸をして?ここはまだ、君のいる世界。霧が濃くなるほど、境目がぼやけるけれど・・・僕がいる。」
「あ、・・あ、ぁ、・・・」
「・・・ねぇ、〇〇さん。そのページの次の行を、声に出して読んでごらん。君の中に“本当の音”が流れ込んでくるから。」
先生の声に、私は目線だけを開いたページに向ける。
そこには、ひときわ大きく黒いインクでこう書かれていた
《深きものと契りし者 海に還るべし》
霧はますます濃く、待合室はもうほとんど海底の神殿のように見えてきて
「ーーーー っ!!!!」
私は堪えきれず、先生の手を思い切り振りほどけば急いで自分のアパートに走り出した。
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