第12話『悪魔、囚われの鎖(The Devil)』

エピローグ


——涙は鎖になる。

愛されたいと願う心ほど、影にとっては甘美な餌となる。


闇の奥、黒いフードの影が笑った。

KAGARI_Δ。星を蝕む者。


「澪……おまえは“幼馴染”という言葉に縛られている。

シオンの隣にいながら、永遠に届かぬ想い。

その苦しみこそが、もっとも美しい鎖だ」


カチリ、と鍵の音が響く。


「欲望に囚われろ。

快楽に堕ちろ。

そして——悪魔となれ」



Ⅰ. 誘いの声


夜。

涙で濡れた枕に顔を埋めたまま、澪は呼吸を整えようとしていた。

けれど嗚咽は収まらない。


(……シオン。どうして“幼馴染”なんて言うの……?

どうして、私だけがこんなに苦しいの……?)


胸の奥に、どうしようもない虚しさが広がっていく。

何も信じられず、誰も信じられず——自分さえ見失いそうになる。


その時だった。


——カチリ。


静かな部屋に、聞こえるはずのない音。

まるで古い鍵が回るような乾いた響きが、澪の耳の奥に直接届いた。


「……美しい涙だ」


低い声。

闇の奥からにじむように響いてくる。


「誰……?」


澪は顔を上げ、震えながら辺りを見渡す。

だが部屋には自分しかいない。


「おまえは求めている。気づかぬふりをしながらも……」

「——鎖を。欲望を。囚われることの快楽を」


「……やめて……!」


澪は耳を塞ぐ。けれど、声は脳の奥底に直接響いてくる。


「シオンにとって、おまえは幼馴染に過ぎない」

「だが——私にとって、おまえは宝だ」


「っ……!」


胸が、ひどく揺さぶられる。

誰にも言えなかった想いを、見透かされている。

“ただの幼馴染じゃない”と叫んだ心の声を、この声は拾い上げる。


「認めよ。願え。望め」

「おまえは、もっと縛られたい。もっと強く、熱く、甘美に」


澪の体が熱を帯びていく。

頬は上気し、呼吸は荒くなる。


「やめ……やめてよ……」


そう言いながら、心のどこかで抗えなくなっていた。

その瞬間——



Ⅱ. 覚醒


黒い靄が、月明かりを裂いて広がっていった。


心の奥で、何かが外れる音がした。

鎖がひとりでに巻きつく。手首から足首へ、腰から胸元へ。

けれどその鎖は、決して苦しみを与えるものではなかった。

むしろ甘美な抱擁のように、澪の身体を優しく締め上げていく。


「……はぁ……あぁん……っ、ふふ……ふふふふっ……♡」


聞こえる息遣いは、もう澪のものではなかった。

快楽に溺れるような吐息が、夜気を震わせる。


吐息は熱を帯び、淫らに震える。

喉の奥から洩れる声は、快楽の余韻に揺らぐ旋律そのものだった。


その瞳が赤く染まり、涙の跡をなぞるように妖しく光る。

長い黒髪は揺らぎ、毛先が赤く染まって燃える炎のように広がった。

口紅は血のように鮮やかに色づき、鎖は胸元を撫でるように絡み、隙間から覗く肌を艶めかしく際立たせる。


背中から生えたのは、漆黒の翼。

悪魔の証。

羽ばたくたび、冷たい風と熱い吐息が混じり合う。


「ん……ふふっ……♡」


その笑みは無邪気。

けれど、幼い頃の澪の笑顔とはまったく違う。

甘美で残酷、そして何よりも——快楽に濡れた笑みだった。


「澪……おまえはもう、人の子ではない」

闇の声が告げる。


「名乗れ。己の名を。欲望を刻む名を」


澪の口が、ゆっくりと開く。


「……私の名は——」



Ⅲ. 悪魔の名


「エテイヤ」


その瞬間、鎖が鳴った。

鉄が擦れる不快な音のはずなのに、甘い音楽のように響く。


「快楽と誘惑のエテイヤ♥」


赤い瞳が細められる。

炎のように揺れる髪をかきあげ、艶やかに囁いた。


「人の心を縛り、堕とし、甘い絶望で満たす者……♡」


その声は熱く、冷たく、そして何よりも心地よい。

抗おうとした澪の心を、完全に支配していた。


——澪は、もう戻れない。



Ⅳ. 襲来


翌夜。

シオンとシオリエルが開いた星界ゲートに、突如として冷たい風が吹き込んだ。


「っ……!?」

シオリエルが構えを取る。


闇を裂いて現れたのは、悪魔の翼を広げた女。

赤い瞳、黒と赤に染まる髪、艶めく鎖に縛られた姿。


「誰だ……!?」

シオンが叫ぶ。


「ふふっ……♡」


女は笑う。

その声音は甘美で、耳に触れた瞬間に溶かされてしまいそうだった。


「私はエテイヤ。快楽と誘惑を纏う者……♥

この鎖こそ、愛されたい願い。

逃げられない苦しみ……その全部。

全部、わたしの力になったの……!」


快楽に酔う笑み。

けれどその紅い瞳の端から、一筋の涙が零れ落ちた。

光を受けて、宝石のように妖しく輝くその滴は、彼女の純粋な叫びの名残だった。


――シオン。どうして……どうして応えてくれなかったの。

――ただ、愛されたかっただけなのに。


ほんの一瞬、澪の幼い頃の笑顔が、その顔に重なった。

だが次の瞬間には快楽の赤がそれを塗りつぶし、艶やかな笑みだけが残る。


「ふふっ……見て……もっと苦しんで……!

あなたたちが絶望する顔……あぁ、キモチイイ……っ!♡ ♥ ♥」



翼が広がり、炎が渦を巻く。

その姿は美しく、そして絶望的に強大だった。


「さあ……苦しんで……見せてぇ……♡」



Ⅴ. 圧倒


鎖が空を裂いた。

シオリエルが剣を構えるが、その刹那にはもう鎖に絡め取られていた。


「ぐっ……!」


「んんっ……あぁ……♥ その顔、最高にキモチイイィ……♡」


エテイヤは震える声で快楽を吐き出す。


空気そのものがエテイヤの吐息に染まり、シオンとシオリエルの耳に直接届く。

ただそれを聞くだけで、意識を侵されるかのように。


そして鎖を引き絞るたび、シオリエルの苦悶が彼女をさらに酔わせる。


「シオリエル!!」

シオンが詠唱を放とうとする。


だがその足元に、黒炎が渦を巻いた。

鎖が絡みつき、シオンの手からカードが弾かれる。


「なっ……!」


「ふふっ……♡ いい、もっと苦しんで……もっと絶望して……♥」


「はぁ……はぁあぁん……♡ んんっ……あぁ……♡」


エテイヤの吐息は熱く、淫らに響いた。

ただの吐息ではない。それは、彼女の体から迸る欲望そのものが音となり、空気を震わせているかのようだった。


その瞬間——髪が広がった。

ふわりと浮かぶように揺れ、黒から赤へと色を変えていく。

まるで燃えさかる炎が一本一本の髪へ宿り、彼女の内に渦巻く快楽を可視化しているようだった。


「ふふっ……♡ もっと……もっとちょうだい……!」


赤黒い光が髪の毛先から滴り落ち、鎖に絡みついて燃え移る。

鎖は生き物のように蠢き、彼女の体を撫で回しながら、さらに艶めかしく締め付けていく。


その姿は——もはや人の少女ではない。

快楽の昂ぶりに応じて、形態そのものが変容する「悪魔の器」。


闇の中で、エテイヤの赤い瞳が妖しく揺らめいた。

胸の奥から漏れ出す吐息が、甘美な旋律へと変わって空気を震わせる。


「はぁ……はぁあぁん……聞こえる……?

これが私の“誘惑の旋律メロディ・オブ・テンプテーション”♥。

抗えば抗うほど、気持ちよく沈んでいくのよ……♡」


その吐息は、ただの声ではなかった。

目に見える音符のような赤黒い粒子が宙を舞い、シオンとシオリエルの鼓膜をすり抜けて、魂に直接響いてくる。


「ぐっ……なんだ、これ……!」

シオンは膝をつき、胸を押さえた。

全身を縛りつけるような快感と痛みが入り混じり、呼吸が荒くなる。


シオリエルも同じだった。

星の力で防御を試みるが、旋律は盾をすり抜け、心の奥に甘美な爪を立てる。

「はっ……くっ……心が……囚われて……!」


赤黒い旋律は、二人の四肢を絡め取り、見えない鎖となって体を縛る。

その束縛は強制ではなく——むしろ自ら委ねたくなるほどの甘い誘惑だった。


「そう……そのまま抗って……もっと乱れて……♥

あなたたちが苦しむほど、私の髪は赤く燃え、力は高まるの……」


エテイヤの髪がふわりと広がり、闇の中で赤い炎のように揺らぐ。

吐息が強まるごとに、その赤は鮮烈さを増し、彼女の姿を艶やかに染め上げていく。


「ダメだ……聞くな、シオリエル! これは……心を蝕む……!」

必死に声を上げるシオン。

だが、その声さえも旋律に溶け、甘美な残響となって返ってくる。


エテイヤはうっとりと目を細め、快楽に酔いしれるように笑った。

「もっと聴いて……もっと縛られて……♥あなたたちの絶望の声が、最高の伴奏になるの……♡」


「はぁ……♡ これが……堕ちるってこと……♥ あぁ、最高……♡」


エテイヤの長い髪は少し逆立ち、炎のように広がり、揺らぎ続ける。

一筋ごとに熱気を帯びて、まるで悪魔の翼の一部が頭から生え広がっているかのようだった。


吐息とともに変化はさらに進む。

肌は夜光のように妖しく輝き、鎖は胸元へと這い寄って、彼女の体を淫靡に飾り立てる。


「もっと……もっと苦しむ姿を見せて……私を、もっと熱くして……♥」


その叫びに呼応するように、空間が震えた。

シオンとシオリエルの目の前で、エテイヤはまさしく「快楽に溺れる悪魔」へと進化していったのだ。



Ⅵ. 敗北


「逃がさない……♥」


最後の鎖が二人を絡め取った。


絡みつき、縛り上げ、動きを封じていく。

だがそれは敵意ではなく、歪んだ愛の表現にさえ思えた。


シオンとシオリエルは背中合わせに縛られ、足元には黒い業火が燃え上がる。


「はぁあぁん……♡ あぁ……これ、最高……♥」


エテイヤの赤い瞳が細められる。

囚われた二人を見下ろすその表情は、無邪気な少女のような笑み。

けれど、そこに宿るのは破壊的なまでの快楽だった。


「もっと……もっと苦しませて……♡」


エテイヤは恍惚の息を吐きながら、縛られた二人の顔を覗き込む。

「ほら……これでわかったでしょ?

苦しみも絶望も……愛されたいって願いの裏返しなの。

逃げられない……ずっとわたしと一緒……♥」


足元から赤黒い業火が噴き出す。

燃え盛る炎の中で、鎖に絡め取られたシオンとシオリエルは、抗う術もなく立ち尽くすしかなかった。


「快楽と絶望こそが悪魔なの……♡ そして悪魔は、救いを求めるヒロインの成れの果て。あぁ……キモチイイ……はぁあぁん♥ ♡」


絶望と快楽が混ざり合った澪――エテイヤの笑い声だけが、夜を支配していた。


業火が燃え上がり、絶望が二人を包む。


——圧倒的な力の差。

どう足掻いても勝てないと、誰もが悟る瞬間だった。


「忘れるなよ、その名を。

あっはぁん…!

私はエテイヤ。快楽と誘惑に堕ちた者——♥ ♡」


笑い声が、夜空を震わせた。




次回予告


鎖に囚われ、業火に焼かれるシオンとシオリエル。

圧倒的な悪魔の力の前に、希望は潰えたかのように見える。


だが、闇に沈む澪の奥底では、まだ幼い頃の“光”がかすかに瞬いていた。


「……シオン……助けて……」


届かぬ声。

届かぬ祈り。


その時——星々は、ほんのわずかに揺らぎを見せる。


第13話『星の声、鎖を裂く一雫(The Star)』


——運命の輪は、決して一方にだけは回らない。

——それは、星々が定めた、甘く残酷な愛の詩うた。

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