第10話『運命の輪——回り始める歯車(The Wheel of Fortune)』

どうして、大切なことほど忘れてしまうのだろう。


封じられた記憶、消えた約束。

満月の下で——運命の輪が、再び巡り出す。



Ⅰ. 澪の日記


しおりは私が描いたはずなのに、どうしても思い出せない。

胸の奥に霞がかかったみたいで、もどかしい。


窓の外では、満月が夜空を照らしていた。

その光に胸がざわつくのに、理由はわからない。


……そういえば、小さい頃に日記をつけていたっけ。

たしかベッドの下に——。


「……あった!」


ほこりをかぶった古びた日記帳。

ぱらぱらと開くと、幼い筆跡が震えるように残っていた。



こんや、しおんがほしのくにのはなしをしてくれる。

たのしみ。わくわく。


しらないいきものや きいたことないまちのはなし。

きっといっぱいきける。


まんげつのよる またきかせち。



澪は一文に指を止めた。

「……こんや、しおんが……星の国の話をしてくれる……?」


ありえない。覚えていない。

確かに自分の字なのに、こんなことを書いた記憶はまったくない。


「……なに、これ……?」


思い出そうとしても、脳裏に浮かぶのは“満月”という響きの奇妙なざわめきだけ。

そのとき——耳の奥で声が囁いた。


『……セレフィーズと共に』


「っ……!」

澪は思わず顔を上げる。

誰もいないはずの部屋。

なのに、心臓が跳ねるほど確かな声だった。



Ⅱ. 千年彗星の夜


——思い出す。


満月の夜、二人で見上げた夜空。

狐の尾のように連なる星に、子どもっぽい名前をつけて笑い合った。


「シオン、これ“ほしのしっぽ座”ってどう?」

「いいな、それ。オレたちだけの星座だ」

「ふふっ、じゃあ絶対忘れないでよ?」

「忘れるもんかよ!」


そのとき、夜を裂くようにひとすじの巨大な光が走った。

千年に一度しか現れないという彗星。


「わぁ……シオン、見て! あんなに大きい!」

「ほんとだ……これ、絵本の中みたいだな」


次の瞬間、まばゆい光が二人を包み、現実が遠ざかっていった。



Ⅲ. 星の国


光が収まると、そこは見たこともないのに胸がざわめく世界だった。


群青の空を無数の星が泳ぎ、崩れかけた石造りの街並みに淡い光が降り注ぐ。

壁には星座の模様が浮かび、草花の葉先から小さな光の粒がこぼれていた。


「……ここ、街だよ、シオン!」

澪は目を輝かせて駆け出す。


「ま、待てって! ……オレたち、どこに来ちまったんだよ……」

強がりながらも声が裏返り、思わず澪の袖を掴みそうになる。


「ふふっ、やっぱりシオンの方が怖がりじゃん」

澪は胸を張って笑った。


「べ、別に怖がってねぇし! 澪はオレが守るから!」

言い張ってみせるが、肩はびくりと震えた。

澪はその様子にくすっと笑い、さらに先へ進む。


——その瞬間、シオンの視界が揺らいだ。


気づけば街は色を取り戻し、ざわめきが広がっている。

大勢の市民がシオンを囲み、笑顔で「……様!」と呼んでいた。

肝心の名は霞んで聞き取れない。


背後には光を纏った狐の姿——しおぽんに似ているが、より神々しくシオリエルそのもののよう。

その隣には、一人の女性が立っていた。

銀の髪が星屑を散らし、透き通る瞳でシオンを優しく見つめている。


「……誰だ、オレは……?」


掴もうとした瞬間、景色は弾け飛んだ。



Ⅳ. 封印


「シオン? どうしたの? 急に止まって」

「っ……な、なんでもねぇ。ただ……ちょっと眩しかっただけだ」


導かれるように街の中心へ進むと、巨大な樹がそびえていた。

幹は銀に輝き、枝葉には星の果実が実り、揺れるたびに光の言葉が舞い落ちる。


「……きれい……」

澪は震える声で言った。

「ねぇ、シオン。これ……あんたがいつも話してた“星の国”だよね?」


「オレ……わかんねぇ。でも……懐かしい気がする」


そのとき、大樹から声なき声が降り注いだ。


『忘れるな。星は言葉を宿し、君たちを導く。』

『セレフィーズと共に——』


次の瞬間、激しい痛みが頭を貫いた。

爪で記憶を引き裂かれるような痛みに、二人の瞳から光がこぼれ落ちる。

涙がにじむほどの苦痛の中、星の国の記憶は無理やり闇へ押し込められた。


——そして、すべてが白に溶けた。



Ⅴ. 目覚め


目を開けると、そこはいつもの夜空。

澪は何事もなかったように隣で笑い、星を指さす。


「ねぇシオン、あの星座、しっぽみたいに見える!」

「ほんとだ。“ほしのしっぽ座”に決まりだな」

「ふふっ、じゃあこれ、私たちだけの秘密ね」


その夜の出来事も、声の記憶も、約束の言葉すらも——すべて封印された。

幼い二人はただ星を数えていた。



Ⅵ. 解けた封印


そして今。


目の前の部屋と、あの光に包まれた夜空が重なり合う。

幼い自分が見上げていた大樹と、今の自分が持つ日記が、同じ場所に存在しているようだった。


「……まんげつの夜、また聞かせて」


唇が震えながらも、はっきりと約束の言葉が零れ落ちる。

それは幼い澪の声でもあり、今の澪の声でもあった。


「あぁ……どうして忘れてたんだろう。

  こんなに、大切な記憶だったのに……」


胸が焼けるように熱く、頬を伝う涙を止められない。

——記憶の封印が解けたのだと、彼女は直感した。



Ⅶ. 「オレ」と「私」


KAGARI_Δとの戦いが、胸の奥でざわめく。

星の国の断片を見たあの戦いの中で、オレは——いや、「私」は確かに口にしていた。


『隠者のランタンは、未来を指し示す灯火。

 そして——私はひとりではない。

 セレフィーズと共に戦っているのだ!』


星界に響いたその声は、ただの独白じゃなかった。

無数の合唱と重なり、胸の奥に熱を走らせた。


『セレフィーズよ……ありがとう。君たちの声が、私を救ってくれた』


——あの時の「私」は、まるで別人だった。

でも、確かにオレ自身の声でもあった。


「……オレが、言ったんだよな」


呟きは夜に溶ける。

心臓がざわつく。

いつものオレなら絶対に言わないような言葉。

なのに確かに、あの時の口は動き、魂は震えていた。


「オレ……なのか? それとも……誰か、別の“オレ”なのか?」


困惑が胸に渦を巻く。

“私”という響きが耳から離れない。

それは一瞬だけ覗いた、もう一人の自分なのか。

それとも、記憶の底に眠る“本当のオレ”なのか。


指先がわずかに震える。

——だが、その声があったからオレは立ち上がれた。

セレフィーズがいてくれたから、闇に呑まれずに済んだ。


「……ありがとな。オレを……いや、“私”を救ってくれて」


言葉は宙に溶け、返事はない。

けれど、胸の奥では確かに歯車がカチリと鳴り、運命の輪が回り始めていた。


拳を強く握りしめ、爪先まで力を籠める。歯を食いしばると、声は自然と低く、確かな決意となった。


澪の笑顔を、しおぽんの光を、二度と奪わせはしない。


忘れられた真実がどんなに重くても、オレはそれを背負って進む。むしろ、その重さが今のオレの心を鋼に変える。


「KAGARI_Δ……必ず倒してやる。【私】の大切な物をもう奪わせはしない」


──そのすぐ隣で、しおぽんは小さく瞬きをした。

記憶の断片などひとつも見えてはいない。だがシオンの瞳に宿った光と、「私」という響きの震えが胸の奥をくすぐっていた。


(シオン様……今の“私”って、なんなの……? 星の声が揺れてる……新しいアストラルモード……これは……)


小さな狐の心臓が、いつもより速く打った。

闇の奥から忍び寄るKAGARI_Δの影の脅威、

それは、しおぽんにも確かに届いていた。


(……ボク、守らなきゃ。シオン様と澪様を……そして、“私”って呼ぶあの声の意味を、ちゃんと見つけなきゃ……)


しおぽんは両の耳をピンと立て、静かに星空を見上げた。

言葉にはならないけれど、その小さな瞳の奥には、シオンと同じ決意が燃えていた。


胸の奥で、三つの歯車が同時にカチリと鳴った。

その瞬間、運命の輪が確かに回り始めたのを、三人はそれぞれの心で感じていた。



次回、第11話

『愚者、すれ違う想い(The Fool)』


記憶が甦り、澪の胸に押し寄せるのは——幼馴染を超えた想い。

けれどシオンは、あの夏の日の《愚者》を心に秘めたまま言葉にできない。


重なる記憶。揺らぐ心。

二人を結ぶはずのカードは、やがて残酷な「すれ違い」を告げる。


運命の歯車はもう止まらない。

澪の想いは光へと伸びるのか、それとも闇へ堕ちていくのか——。

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