第2話:夜明けの沈黙
アラームが鳴る前に、悠馬は目を覚ました。正確には、ほとんど眠れていなかった。深夜二時から朝の五時までパソコンの画面を見つめ続けたせいで、瞼の裏にはまだ青白い光の残像が焼き付いている。
身体を軋ませてベッドから起き上がった。時刻は六時半。朝のニュース番組が青葉市の天気予報を報じている。画面の中のキャスターは、昨日ニュースサイトで見た小学生の事件について、一切触れない。まるで、何もなかったかのように。
洗面台で顔を洗う。鏡に映った自分の顔は、目の下に濃い影を落としていた。まるで、心に溜め込んだ罪悪感が、物理的な色となって現れたかのようだ。
「よし」
小さく呟き、制服に腕を通し始めた。まずは、いつもの日常に戻らなければならない。詩織がいる、自分の「真っ当なあり方」だと信じている場所へ。
インターホンが鳴ったのは、シャツのボタンを留めている最中だった。
「はーい」
扉を開ける前に、悠馬は既に誰かわかっていた。扉の向こうに立っていたのは、冬の朝の光を背負った詩織だった。
「おはよう、悠馬。遅いよ」
彼女の白い息が、一瞬、冬の冷たい空気に溶ける。詩織の笑顔は、広瀬川の清流のように透明で、悠馬の胸の中の黒い影を洗い流そうとしているかのようだ。
「ごめん。ちょっと寝坊した」
悠馬は嘘をついた。彼女に心配をかけたくなかったわけではない。昨夜の記事、その背後に潜む「なぜ人は真っ当に生きられないのか」という重い問いを、この透き通った笑顔の前に持ち出すことが、まるで罪であるかのように感じたのだ。
「早く入って。まだ準備終わってないから」
詩織は慣れた様子で、悠馬の部屋に上がる。彼女の鞄からわずかに香る花の匂いが、悠馬の部屋の淀んだ空気を一瞬で変えた。
悠馬が引き出しから教科書を取り出し、鞄に詰め込む間、詩織はリビングのテーブルに座り、マグカップを手に取った。
「また夜更かしして、誰かのヒーローごっこしてたんでしょ」
詩織は笑うが、その言葉にはどこか諦めと、深い理解が混じっていた。
「ヒーローじゃない。ただのボランティアだよ」
悠馬は否定する。しかし、その言葉が虚しく響く。昨夜の事件は、自分がただの「偽物のヒーロー」であることを突きつけたばかりだ。
「そう? 私は、悠馬のヒーローごっこ、嫌いじゃないけどね。あんまり無理しないでね」
詩織はマグカップを置き、静かに立ち上がった。悠馬が鞄を肩にかけると、二人は顔を見合わせる。
「行こうか」
アパートを出て、二人はいつもの通学路、広瀬川沿いの並木道を歩き始めた。冬枯れした木々が、青葉市らしい静かな景観を作っている。詩織は他愛のない話をする。昨日見た映画のこと、クラスメイトの噂話。悠馬は、時々相槌を打ちながら、頭の中では昨夜の事件の検索履歴を辿っていた。
(いじめの加害者とされる児童の親が勤めている会社は…)
「悠馬、聞いてる?」
詩織の声で、悠馬は現実に引き戻される。
「ごめん、聞いてるよ。その映画、詩織が好きそうな話だね」
詩織は一瞬、悠馬をじっと見つめる。その瞳の奥に、何か言いたげな、しかしすぐに諦めたような影がよぎるのを、悠馬は見逃さなかった。幼馴染である彼女が、自分の嘘に気づいているのは明白だった。だが、彼女はそれ以上何も追及しなかった。その優しさが、悠馬には逆に辛かった。
学校の昇降口に着くと、既に多くの生徒で賑わっていた。
「おっはよー、詩織!」
詩織のクラスの女子が数人、陽気な声で挨拶をする。詩織はすぐに、いつも通りの笑顔を彼女たちに向けた。
「おはよう!」
詩織の明るい声を聞きながら、悠馬はどこかホッとする。この昇降口が、社会の闇から隔絶された、彼の守るべき日常の入り口だった。
悠馬と詩織は、友人たちと軽く挨拶を交わし、昇降口の雑踏を抜けて、一緒に階段を登り始める。一段一段、青春の場所へと近づく。
三階の教室棟に着くと、二人はそれぞれの教室へと向かう。悠馬の教室は詩織の教室より少し奥だ。
「じゃあね、悠馬」
「ああ、また昼に」
詩織の背中が教室のドアの向こうに消えるのを見届け、悠馬は自分の教室のドアを開けた。
自分の席につき、鞄を下ろす。窓から差し込む冬の光が、埃の舞う教室を満たしていた。悠馬は机に肘をつき、再びぼんやりと窓の外を見つめる。
(僕は、光を灯せると言った。でも、昨日の少年は、誰にも灯してもらえなかった)
静かに、悠馬の「日常」は始まっていた。だが、彼の心の中は、すでに昨夜の事件と、詩織への言葉にできない想いによって、大きく揺さぶられていた。
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