第13話 涙の合図

 朝の光が、王都の屋根の焦げ跡に反射していた。

 火は消えた。けれど、街の空気にはまだ煙の味が残っている。

 夜通し動いた庇護組の面々は、濡れ布を干し、灰を掃き、

 最後に一人ずつ、ノアの前で手を合わせた。

 「泣くこと、恥じゃない」

 「守ること、怖くない」

 誰が言い出したわけでもなく、それがこの日の合図になっていた。


 ミレイが走ってくる。

 「王都の広場に、群衆。……“涙の式”をやれと言ってる」

 「涙の式?」

 ノアは眉を寄せる。

 「昨日、あなたが泣いたのを誰かが見た。

  それを“式”にしたいらしい。泣くことの、見せ方を教えてほしいって」

 ノアは一瞬だけ目を閉じた。

 「……彼女が目を覚ましたら、喜ぶかもしれませんね」

 ミレイは静かに頷いた。

 「でも、彼女自身が泣けないのよ」


 *


 医務室。

 リアナはようやく目を覚ました。

 外の光が淡く揺れ、風鈴の音が遠くで鳴っている。

 ミレイが布を整えながら告げる。

 「北区、無事。ノアの指揮で火は止まったわ」

 リアナの唇が小さく動いた。

 「……やっぱり、渡せてよかった」

 「渡したのは“指揮”だけ? それとも“涙”も?」

 リアナは答えなかった。

 湯気の立つ湯を手に取り、しばらく見つめる。

 湯気が顔に触れても、涙は出ない。

 「泣く方法、忘れたのかもしれない」

 ミレイが言う。

 「なら、取り戻しなさい。――式になる前に」


 *


 昼下がり。王都中央広場。

 庇護組の幕が張られ、円の真ん中に台が置かれていた。

 “涙の式”の見学に、老若男女が詰めかけている。

 リアナが歩み出た瞬間、ざわめきが波のように広がった。

 ――泣かない女。

 ――泣けない隊長。

 ――それでも守る人。

 その囁きが、空気の縁を震わせた。


 ノアが布を持って近づく。

 「隊長、ここからは僕が」

 「いいえ、これは私の“交代”です」

 リアナは布を受け取り、両腕を広げる。

 「涙の式は、泣く人のためにあるんじゃない。

  泣けない人のためにあるの」


 風が吹き、幕がふわりと揺れた。

 リアナは布を肩にかけ、観衆を見渡す。

 「この国では、女は泣いて許され、男は泣いて笑われてきた。

  でも、今日からは違う。涙は、信号です。

  泣いた人が、“交代”を知らせる。

  誰かが泣いたら、隣の人が、“離さない”と答える」


 リアナの声は震えていなかった。

 けれど、その言葉に、いくつもの肩が小さく動いた。

 ノアが隣に立つ。

 「“離さない”」

 リアナが返す。

 「離さない」

 広場のあちこちから声が重なる。

 「離さない」

 老いた男が。

 若い女が。

 子どもが。

 そして、リアナの胸の奥からも、遅れて音がした。


 ――泣く音。


 それは声ではなかった。

 ただ喉の奥で、小さな“ひび”が生まれた。

 リアナは口を押さえ、初めて嗚咽を漏らした。

 頬を伝う涙が、光に溶ける。

 群衆のざわめきが静まり、風の音だけが残った。


 ノアが一歩近づき、布の端でその涙を受け止めた。

 「湯の温度、正常」

 ミレイが記録を取る声がかすかに響く。

 アデルが微笑みながら呟く。

 「……涙、手順に戻ったわね」


 リアナは息を整え、顔を上げた。

 「この涙は、私ひとりのものじゃない。

  今日泣けなかった人の分も、縫い付けておく」

 ノアが頷き、親指の爪を二度押す。

 リアナも返す。二度。

 「平常」

 「平常」


 人々が散りはじめるころ、夕陽が石畳を金色に染めていた。

 リアナは空を見上げ、静かに言う。

 「“離さない”って、きっと涙のもうひとつの名前ね」

 ノアが横で答える。

 「涙が合図なら、あなたのは――始まりの合図です」


 リアナは笑った。

 もう、泣くことを怖れなかった。


《次回予告》

第14話「噂の終わり、声の始まり」

涙の式が国中に広まる一方で、

“声を出せない者”たちが新たな壁に直面する。

リアナとノアは、「声なき誓い」をどう縫い合わせるのか――。

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