第2話 借りた背中

 朝は、雨の名残りを窓に貼りつけたまま来た。

 薄い光が板床を撫で、火の跡は白い灰になっている。ノアは椅子でうたた寝をしていた。背筋はまっすぐのまま、うたた寝ができるのかと感心するほど静かに、浅く息をしている。


「起きてる?」

 囁くと、彼は目を開けた。灰色の瞳がすぐに焦点を得る。

「おはようございます」

「おはよう」


 短い挨拶が、部屋の温度を半度上げた気がした。私は水差しの水で顔を洗い、髪を結い直す。鏡はない。指の感触だけを頼りに三つ編みを結い上げる。

 ノアが立ち、手早く湯を沸かし始めた。干し果実を刻み、粗麦を煮て、少しの蜂蜜をたらす。

「甘すぎると緊張が切れます」

「あなたの食卓は、いつも戦場の前提なのね」

「僕の戦は、朝にありますから」


 匙で麦粥を口へ運ぶ。噛むほどに甘みが立ち、喉が落ち着く。

 私は匙を置いた。

「昨日、私、言ったわね。――あなたの後ろに立つって」

「言いました」

「撤回しない」

 自分の声なのに、少し他人みたいな響きがした。

 ノアはうなずき、言葉より先に手を差し出した。私はそれを取る。

 親指の爪を、彼が二度、押す。合図。

 胸の奥に、昨日から続く小さな火がともる。


 *


 再審の間は、昨日と同じ石の匂いで、昨日よりも固い視線が並んでいた。

 女官たちの鎧は磨かれ、肩章の紋が朝光を跳ね返す。王弟ユリウスは簡素な外套で席につき、侍従長ミレイは帳簿のように整然と立つ。

 私は剣を持たない。腰が軽いことに、もう怯えないと決める。

 壇上の中央、私はノアの背に半歩重なる位置に立った。彼はほんのわずかに肩を引き、私の立てる場所を作ってくれた。背中は薄いのに、広がる余白がある。


「リアナ・エルヴェ」

 判事の声が響き、文言がいくつか続く。王命違反、越権、謀反の疑い。

 私は深く息を吸った。

「反論は?」

 ミレイの視線が私を突く。私は頷き、言葉を探す。

 勝つための弁舌ではない。守られる立ち位置から出ていく言葉だ。


「私は命令に従って戦ってきました。勝利は従順の証と教えられ、疑いは弱さと教えられました」

 観衆の呼吸が浅くなる。

「けれど昨日、私は初めて、守られることを選び、――それが臆病ではないと知った。守られることは、誰かに背中を預けるということです。背中は、いつも一人では守れない」

 言いながら、私は自分の手が震えていないことに驚く。

「私が違反したのは、命令ではなく、常識です。女が前に立ち続けることだけが正しいという常識。私は、それだけではないと今日、証言したい」


 ざわめき。嗤いと感嘆が半分ずつ混ざり、空気がざらつく。

 アデルが、ゆっくりと席を立った。公爵令嬢。銀の髪飾りが細い音を立てる。

「美しい弁。けれど、戦場は詩では動かない」

 毒を蜜で包む口調だ。

「昨日、あなたの前に立った少年がいなければ、あなたは今日ここにいない。――つまり、あなたは男の庇護がなければ立てないのだと、自ら証明したわけね」

 観衆の一部が囁き、笑いが細く走る。

 私は息を吸い、吐いた。

「そう。私は、今、彼に守られている」

 アデルは目を細める。「認めるのね」

「ええ。認めた上で、言います。守ってもらう勇気が、あると」

 私は一歩、ノアの背へ寄った。

 その肩越しに見えるアデルの眉が、わずかに動いた。


「強い女は、自分で守れる」

「守られることは、強い弱いの問題ではないわ。関係の問題」

 言葉が、石床より固いところへ落ちていく。

 アデルは笑った。薄い刃物の笑いだ。

「では試しましょう。昨日のように、あなたは彼の背に隠れていなさい。私が矢を射る。真実は一つ」

 場が騒然となる。ユリウスが立ちかけ、ミレイが手を上げて制す。

「実害のある試みは許可できない」

「試しとして、練度の低い木矢を」アデルは涼しい。「名誉も欲しい。真実も欲しい」


 馬鹿げている。けれど、この国では、馬鹿げていることが常識を変える唯一の方法であることも知っている。

 ユリウスはしばし黙し、やがて短くうなずいた。

「安全の限りで。侍従長、監督を」

 ミレイが視線で矢面を測る。

「――ノア・リース。あなたの判断で、保護を展開し、危険と見れば即座に中止を叫べ」

「はい」


 アデルは射手台に立ち、弦を張った。木矢の先は丸められ、薄布で包まれている。

 私はノアの背後に立ち直る。彼の肩甲骨の位置、背骨の浅い窪み、呼吸のリズム。すべてを掴むように距離を合わせた。

 ノアの手が空を撫でる。布の縁の手触り。

 彼の親指が私の爪を二度、押す。合図。

 私は返す。二度。

 アデルが弦を引き、朝の空気が爪弾かれる。

 矢が飛ぶ。

 布が翻る。目には見えないが、世界の縁にある薄い幕が、確かに持ち上がるのがわかる。

 矢は、その幕に触れて、音もなく角度を変えた。私の頬を掠めず、床へ小さく転がる。

 場に、吸い込まれた息だけが残った。


 二の矢、三の矢。

 アデルは射法を微妙に変え、速度や角度を変じる。

 ノアは動かない。肩も背も、揺れない。

 布だけが、風もなく、理だけで翻る。

 私の掌は汗ばみ、背筋は凍てつく。けれど足はすえられている。

 不意に、四の矢が放たれた瞬間、ノアの指が私の爪を一度だけ強く押した。

 合図が変わった。

 私は理解する前に、反応していた。彼の腰へ腕を回し、重心を支える。

 矢が幕に触れた瞬間、ノアの背が少し沈んだ。

 重さが私の腕に落ちる。

 彼の呼吸がひゅっと鳴り、次の瞬間には整う。

 矢は床に落ち、静けさが戻る。


「十分だ」ミレイの声が石に響く。「試みはここまで」

 アデルは弓を下ろし、口角に笑みを残しつつ席へ戻った。勝った顔ではない。

 ユリウスは頷き、私に視線を向ける。

「リアナ・エルヴェ。常識に対する異議申し立ては、記録された。最終裁可は持ち越すが、拘束は解く。監視兼付添はそのまま」

 判事が書式を読み上げる。鎧が鳴り、人々が動く。

 私はノアの肩に添えた手を、そっと外した。彼の背は汗で湿り、布の内側で熱をこもらせている。


 彼が、わずかに私に振り向いた。

「……重く、すみません」

「いいえ。借りたのは、私のほうの背中」

 口に出してから、頬が熱くなった。

 ノアは、うっすらと笑った。目元だけで。

「返却は、急ぎません」


 *


 裁きの間を出ると、外はまだ曇り、庭のハーブが雨を含んで香っていた。

 回廊の陰で、人影が待っている。

 アデルだ。侍女を下げ、一人で立っていた。

「借りた背中。――詩ね」

「あなたの矢は、正確だった」

「幕がなければ、あなたの頬に痣が残っていた」

 彼女は、私の横を通り過ぎるついでに、囁くように言った。

「幕がなければ、あなたは美しかったのに」

 私は立ち止まり、振り返らなかった。

「幕があるから、美しいと知ったの」

 アデルは短く笑い、靴音だけを置いて去っていく。

 勝負は、まだ続く。けれど、勝ち方は変わり始めている。


 ノアが隣に来る。

「傷の手当てを」

「あなたの?」

「はい」

 彼は右手を少し掲げた。甲の赤い筋が、朝の光で鮮明になっていた。

 さっき一度だけ強く押した合図――あの瞬間、矢に触れたのは幕だけではない。彼の皮膚が身代わりになった痕だ。

 私はうなずき、北棟へ戻る道を彼と並んだ。並ぶ、という行為がぎこちなくないのは、昨日より今日の私が少し上手だからだろう。


 *


 仮宿に戻ると、ノアは簡単な手当ての用意をしていた。

 清め水、軟膏、包帯。

「自分でできる」

「今日は僕にやらせてください」

 私は椅子に座り、彼の手を取った。

 赤い筋は、布を引っかけたように一直線で、ところどころに薄い裂け目がある。

 私は息を浅くし、軟膏を指に取った。

 塗る。

 彼の皮膚は薄く、熱を持ち、けれど拒まない。

「痛む?」

「指の温度で、落ち着きます」

 素直にそう言われると、手の震えが逆に強くなる。私は指先の圧を平らに整えた。

 包帯を巻く。

 布の端を結ぶとき、彼の親指が私の爪を、そっと二度押した。

 合図。

 私は返す。二度。

 たぶん、これは挨拶の形でもある。


「さっき、幕が少し揺らいだ」

 言うと、ノアは視線を落とした。

「集中が乱れました」

「何で?」

「あなたが、支えてくれたから」

 胸の奥が、ぽんと鳴った。

「それで乱れるの」

「乱れます。でも、強くもなります」

 彼は言葉を選ぶように、指で包帯の端を整える。

「庇護は、独りでは長く張れません。後ろから支えられると、幕の縁がきれいになります」

「縁」

「はい。縫い目のことです」


 私はうなずき、包帯の結び目を押さえた。

 布の手触りが、彼の家の話を呼ぶ。北の布の町。織り、縫い、紋。

「あなたの家は、ヴェールの家なの?」

「昔は。今は、祭のときに小さく張る程度です」

「あなたは大きく張る」

「張らざるを得ないときだけ」

 彼は言葉を濁す。奥がある。

 私はそれ以上聞かなかった。聞く準備ができていないことも、聞かせる準備ができていないことも、どちらもわかる。


 沈黙は、今日の沈黙だ。昨日の沈黙とは違う。

 私は棚から薄い布を取り、彼の肩にかけた。

「今日は、あなたが守られる番」

 ノアは目を瞬いた。

「はい」


 *


 夕刻、侍従長ミレイがやってきた。

 彼女は帳面を持ち、必要な言葉を必要なだけ置き、不要な言葉を一切置かなかった。

「明日から、あなたは王弟の随行で地方視察に同行する」

「視察?」

「役割の見直しのための材料集めだ。女が前に立つことの弊害と利点、男が後ろに立つことの利点と弊害――紙にできる形で拾う」

 ミレイは私を見、次にノアを見た。

「あなたたちは観察対象であり、記録者でもある。互いの立ち位置を、手順に書け」

「手順」

「守る/守られるの、手順だ。偶然に頼るな。合図、距離、交代の時刻、休息の取り方、介入の閾値――全部」

 私は息を吸った。

 合図はもうある。距離も、少し知った。

 書けるかもしれない。

 ミレイは帰り際、戸口でわずかに立ち止まり、私にだけ届く声で言った。

「あなたが後ろに立つことで救われるものがあるなら、立ちなさい。――ただし、立ちすぎるな。自分で歩く足まで他人に預けるのは、守られることではない」

 私は頷いた。

 ミレイは、それで十分というふうに去った。


 戸が閉じ、部屋に小さな静けさが戻る。

 ノアが紙と筆を広げ、淡々と項目を並べ始めた。

「合図:親指二度。緊急停止:親指、一度強く」

「距離:半歩後ろ、肩一枚の幅」

「介入閾値:あなたの呼吸が浅くなる、または視線の焦点が動くとき」

「交代手順:僕の脈が速くなり、返答が遅れるとき、あなたが前に出る――」

「いいの?」

 思わず遮ると、ノアは顔を上げる。

「いいの?」

「あなたが前に出るのは、嫌ではない?」

「嫌です」

 即答だった。

 けれど、その後に続く言葉はやわらかかった。

「でも、手順です。守るための。僕が倒れたら、あなたが守る。……そしてまた戻る」

「戻る場所が、あるのね」

「はい」


 紙の上に、二人のための地図ができていく。

 私は筆を取り、最後の行にそっと書き足した。

「合図:『離さない』――二人ともが言えること」

 ノアはそれを読み、頷いた。

「言います」


 *


 夜、更ける前に、私は問いをひとつだけ選んだ。

「ねえ、ノア」

「はい」

「あなたの手の痣、いつから?」

 彼は少しだけ時間を置き、窓の外へ視線を向けた。

 雲はまだ厚い。星は一つも見えない。

「昔。家がまだ、幕を大きく張っていたころ」

「誰を、守ったの」

「兄を」

 短く、細い糸のような答え。

「兄は助かり、僕は手をひどく焼きました。あのとき、母は言いました。『幕は、誰かの背にかけるもの。自分一人で世界にかけるものではない』」

「それで、あなたは今日、私の背に」

「はい。僕は、一人では張らないと決めました」

 彼は、それ以上は言わなかった。

 私は、これ以上を求めなかった。

 いつか、その痣の全部を聞く日が来る。

 その日のために、今は、幕の縁をきれいに縫っておく。


 灯を落とす。

 暗がりで、私は手を探り、彼の親指の爪を、二度、押した。

 間をおいて、同じ合図が返ってくる。

 離さない。

 言葉にしなくても、手順にしておけば、心が迷わない。


 私は目を閉じる。

 明日は地方へ。道は揺れ、視線は増え、試される。

 けれど、背中は借りられる。借りた背中は、返すために、もっと強くなる。


 ――そして、彼の手の痣の形を、私はまだ知らない。

 指の節のひとつひとつまで、きちんと知るには、もう少し時間が要る。


《次回予告》

第3話「台所の戦場」

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