第2話

 翌日、広夜ひろやの屋敷の前に牛車が止まり、従者が門を叩いてこう言った。

高円広夜たかまどのひろや殿、たちばな家の者ですが、昨夜のお礼に参りました」

 すると、誰もいないのに、門はゆっくりと内側に開き、客人を招き入れた。橘家の従者が、その不可思議な現象に呆然としていると、牛車の屋形の中から、憮然とした声が叱咤する。

「何をしている! さっさと入れ!」

 その声の主は、広夜が夕べ助けた橘真娜瑪たちばなのまなめに他ならない。

 広夜の屋敷の主屋の前まで牛車を引いて行くと、家人の者が出て来て、

たちばな様、主の所へご案内致します」

 と声をかけて、真娜瑪まなめを広夜のいる部屋へと案内した。


 真娜瑪が広夜の部屋まで来ると、その御簾は上げられていて、

「礼は要らぬと言ったのだが? まあ、こうして参られたのだから、断るのも無礼だろう。こちらへどうぞ」

 と招き入れた。すると、

「ふんっ! 礼をすると言ったのは父上だ。私はお前に責任を取って貰っていない。だから、お前にはその責任を果たしてもらうために来たのだ!」

 と、真娜瑪は性懲りもなく言った。

「まあ、落ち着いて座りなさい。しっかり説明すべきだったな。お前の口を吸ったのは、水と共に妖気を飲み込んでしまっていたからだ。吐き出させなければ、命の危険があった。服を脱がせたのは、身体が冷たくなっていたからだ。これもそのままでは命の危険があるのだ。お前の為した事だと、ちゃんと理解できたかな?」

 広夜は幼い子供に諭すかのように、優しく説明したのだが、真娜瑪はそれでも不満顔で、

「それがなんだ? お前が私の口を吸い、肌を合わせた事実は変わらないだろう」

 とまったく譲る気も、許す気もないようだった。そんな真娜瑪の態度に、夜鬼よきはほんの少し怒りの表情を浮かべ、その眼光は鋭く真娜瑪を射抜くのではないかという程に睨みつけた。

(夜鬼、落ち着け。お前らしくもない)

 と広夜は思念で夜鬼を宥めて、

「真娜瑪、私にどうして欲しいのだ?」

 と優しく問いかけた。

「責任を取れと言っているのが分からないのか!」

 と真娜瑪はただ、同じ言葉を繰り返す。どうして欲しいのかと聞かれても、真娜瑪本人もどう答えればよいのか分からなかった。そんな真娜瑪の心情が広夜には分かっていて、小さく微笑むと、

「ならば、私の妾にでもなるか?」

 と提案してみる。

「はあ⁉ め、め、妾だと⁉ 私を愚弄するとは、絶対に許さない!」

 と真娜瑪は大声で怒鳴った。すると、その時、

「賑やかではないか」

 静かにそう言って、涼やかな空気を纏った若者が、こちらへ向かってゆったりと歩いて来た。その容姿、背丈は高くはなく、高い位置で結った長い黒髪が、後ろで束になっていて、歩くたびに軽やかに揺れ、意志の強さを表したような凛とした黒い瞳に、柳の葉のように綺麗な形の眉には聡明さが伺える。すっきりと通った鼻筋、色白の肌の頬には薄っすら桃色を帯び、その唇は艶やかで、まるで朝露で光る桜桃のような瑞々しさ。誰が見ても、この姿を美しいと評さずにはいられないほどの衝撃的で、幻想的な完全なる美の象徴であった。

 そんな美しさを目の当たりにした真娜瑪は、その圧倒的な美を、どのように言葉を尽くして褒め称えようかと言葉を探すも見つからず、

「はじめてお目にかかる、聡明なあなたは、どこの若君なのでしょう?」

 とただ、そう声をかけるに留まった。

 若者が口を開いて答えようとした時、代わりに口を開き答えたのは広夜で、

「この者は施基親王しきしんのうの第一皇女、氷上女王ひかみじょおうで、私の伴侶だ」

 これを聞いた真娜瑪は己の失言に大慌てで、

「これは大変なご無礼を致しました。平にご容赦願いたい」

 と深くこうべを垂れて、

「あまりに凛々しく美しいお姿に、お召し物もよくお似合いでしたので、姫君であるとは気付きませんでした」

 と言葉を続けた。

「頭を上げよ。謝罪も世辞も要らぬ。われおのこの恰好をしているのだから、お前の見立てに間違いはない」

 と氷上女王は口元に笑みを浮かべて真娜瑪に言うと、

「では、我は帰る」

 と広夜に言って、庭に止めてあった大きく立派な牛車に乗り、従者が十人ほど付いて、屋敷を出て行った。出会ったばかりの凛々しく美しい皇女が颯爽と帰って行く姿に呆気に取られていた真娜瑪は我に返って、

高円広夜たかまどのひろや、伴侶が帰ってしまったが、良かったのか? まさか、私が邪魔をしてしまったのではないか?」

 と気遣う様に聞くと、

「お前のせいではない。氷上女王は夕べからここに居たのだ。朝には帰るつもりでいた。ところで真娜瑪、先ほどは揶揄って悪かったな。お前を妾にというのは、戯れが過ぎたようだ。お前が可愛いのでつい言い過ぎただけだ。お前と居るのは実に楽しい」

 広夜はそこで一旦言葉を切ると、何かに意識を集中するかのように、遠くへ視線を向けて、

「これから用事があるので、出かけねばならない。また、時間のある時に尋ねておいで」

 と真娜瑪に声をかけて、彼を門の外まで見送った。

「なんだか狐に摘ままれたみたいな気分だ。屋敷の門は勝手に開いたり閉まったりするし、お前の伴侶が皇族の皇女で、お前の傍には怪しげな白い髪の少年が居て、お前は一体何者なのだ?」

 真娜瑪が聞くと、

「お前も知っているだろうが、私は妖を退治する妖祓師あやかしはらいし。この者は精霊で、私に仕えている。屋敷の門を開けているのも精霊だが、霊力の弱い者にはその姿が見えないだけだ。この屋敷には多くの精霊がいて、それぞれの役目を果たしている」

 と広夜が答えて、

「理解できたかな?」

 とまたもや、真娜瑪を子ども扱いするように言った。

「ふんっ! まったく、お前はどこまでも妖しい奴だな」

 真娜瑪はそう言いながらも本心では、広夜に強い興味を抱いていた。

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