仮の人生

@k-shirakawa

第1話 その男、イイシマにつき

 気づいた時にはもう遅かった。あの男の『目立なかった』からこそが、最大の異質さだった。

マスクに覆われた顔、無言で握られたアタッシュケース。ダークスーツは妙に品があり、黒縁の眼鏡がその存在感をさらにぼかしていた。まるで、誰の記憶にも残らないように設計された人物——それが彼だった。


 ノックの音に反応して、小野正幸は古びた木製の机から顔を上げた。

ドアを後ろ手に閉めながら入ってきた男を見た瞬間、胸の奥で何かがざらついた。——目障りな奴だ、と直感したのだ。

七三に撫でつけられた薄い髪は妙に几帳面なのに、マスクを外した途端、こけた頬から顎にかけて浮かび上がる濃い髭が、まるで『剃り忘れ』ではなく『隠し忘れ』のように見えた。

「きのう、お電話をさしあげました和信わしんファイナンスの者です。ええ、そうです。ある方から、ご紹介いただきました」

 男はそう言って腰をかがめて名刺を出し、飯島と名乗った。会社名と、東京都品川区東五反田一丁目・・・の住所、それに姓名と携帯番号が記されていた。

「イイジマさんですね?」

「いえ、申し訳ございません。イイシマです」


 なぜ、会社の代表番号がないのか、尋ねたかったが。


「一応のことは、お訊きしておりますので、本日は手短に片づけたいと……」

 飯島は狭い事務所を見回し、人気がないことを確かめた。

「中には、誰が調査しているのかと、うるさい方もいらして、私どもでは弱るんですが、こちら様では、依頼主にお心当たりがおありと伺いまして非常に気が楽なんです。はい……」お笑い芸人の『やす子』のように『はい……』の語尾を伸ばすのが印象的だった。


 飯島はニッと笑った。笑顔になると、ちらりと前歯の歯抜けがのぞき愛敬があった。髪は薄いが、見た目より年齢は若いのかもしれない。


「はじめに申し上げておきますが、依頼主に関するお問い合わせにはいっさい、お答えできない取り決めになってございます。はい……」


 飯島は、小野がすすめる前に、デスクの横にあるソファに深々と腰を下ろした。


「いや、ご心配にはおよびませんよ。わが社は関東でもいや都内でも有数の調査会社でして、世間という興信所でしてね、ご存じですよね?」


 小野が、名前だけは知っていると答えると、飯島はほっとした表情になり、「こちら様に、ご迷惑のかかることはございません、絶対に」と確約した。


 小野は手の中の名刺をじっと見つめた。


「そこで、できましたら、定款と三年分の決算書をお貸しいただけますか?」

「定款と決算書を……ですか?」

「はい、依頼主様が依頼主様ですのでね、そこはそのう……、調査もひと通りのことでは承知してもらえないんですよ。ペーパーカンパニーの場合が時々、あるんですよ。ご協力ねがえれば助かります。はい……」


 飯島はひと息つくと、スーツのアタッシュケースに手を入れて青色のパッケージののど飴を袋から一粒出して口に入れた。小心者の気がしれないと内心で嘲りつつも、信用できる気がしていた小野。


「娘が、喉が痛い時はと言うものですから、はい……」


 小野は、同じビルに店を構えるスナックにコーヒーの出前をたのんだ。ツケがきくので便利なこともあるが、すれ違う度に意味ありげな目で見つめられるので嫌になっていた。店のママと一度きりだが、寝たことがあるから余計だ。

「おかまいなく、仕事ですので」

 飯島はそう言って、口の中でのど飴を転がしていた。


 小野はデスクを離れて、飯島の向かいに腰を下ろした。

「コピーやったら、かまいませんが」

 と言うと、

「原本をお願いします」飯島は顔の前で手を振り、「ご心配なく、数日、お借りするだけですから――第一に、実印がないのに、定款だけでは何もできませんから」

「定款まで貸してダメだと困るのですが」

 小野は、現金のほとんど入っていない金庫の鍵を手の中で弄りながら言った。

「私どもが、ここに、こうしてお伺いしているということは、すなわち先方の意思表示と思って頂けないでしょうか? はい……」

「そうですかね……」

 小野は目を見開き額に深い皺を四本出した。考えこむときの癖だった。

「実は……」と、飯島は声をひそめた。「内密にお教えするのですが、この件について三、四社の競り合いになってるんです」

「聞いてないですよ、そんな事は」

「それは、あたりまえですよ!」

 飯島はアタッシュケースをテーブルにのせ、「ほら、ご覧ください」と、朱肉の印鑑跡がくっきり見える定款の束を、小野に突きつけ見せた。


 小野は一瞥し、押し黙った。法人税のことを考えると、廃業手続きをとった方がいいと近頃、しきりに考えるようになっていたからだ。階段で上り下りする南向きの手狭な事務所もたたんだ方がいいと相談していた税理士にも言われていた。


「いまどき、競争のない商取引があると思いますか?」と、飯島は、濃い髭面の顔を近寄せながら、「どこの社に決定するかは、私のさじ加減ひとつなんです。はい……」

 小野は、男が、「はい……」と言うたびに、自分も頷きそうになっていた。

 飯島は皮製の手帳をゆっくりとめくる。「私どもの調査によりますと、借入金がまったくないと伺いましたが?」

「はい。まあ……」

 小野は目を左右にきょろきょろしだした。帳簿上は、黒字決算になっている。親類縁者からの借金を売上金に計上しているので赤字は記載されない。まともな金融機関は、四半期ごとの試算表を目にしたとたん、貸し出しを渋る。


「借入金がない、そこが、キーポイントなのです」と飯島の声に力がこもる。「名のある会社から高価な車をリースであずかるわけですから、信用が第一なんです。その点、法人登記しておられるこちら様はまずまちがいがないと」

 飯島は、小野の心中を見透かすように話を続ける。

「有名ディーラーの商品カタログを見せて関心を引いたところで、現物を見せる。世界各国のお客様から注文をうける――ネットの時代やからこそ、これは、もう、グッドアイデアです。依頼主の責任者が感心していました。何しろ、ヨソは、ネットに載せることしか考えてませんのでね、はい……」


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