【上巻:鉄の目覚め】 第四章 黒鷲の祝典
1936年8月、ベルリンは世界の中心となった。第11回オリンピック競技大会。それは、単なるスポーツの祭典ではなかった。アドルフ・ヒトラーと、彼が支配する「新しいドイツ」が、その国力と正当性を全世界に誇示するための、壮大な国家プロパガンダの舞台だった。
私が再開発を主導した首都は、完璧な祝祭都市へと変貌していた。アウトバーンを通って最新鋭のバスが観客を運び、真新しい地下鉄が帝国競技場へと人々を誘う。街角から反ユダヤ主義のスローガンは完全に消え去り、代わりに鉤十字の旗とオリンピックの五輪旗が、奇妙な調和をもって夏の空にはためいていた。ゲッベルスの宣伝省は、世界中から訪れる記者団に対し、「人種差別なき実力主義国家」のイメージを巧みに植え付けた。
開会式の日、私は総統ロッジで、ヒトラーのすぐ後ろの席に座っていた。巨大な飛行船ヒンデンブルク号がスタジアムの上空を旋回し、一万人の鳩が空に舞う。熱狂する十万人の観衆が、一斉に右腕を掲げ、総統の名を絶叫する。その光景は、恐ろしいまでに美しかった。それは、古代ローマ帝国の凱旋式を思わせる、個人の意志が完全に溶解させられた、国家という名の巨大な芸術作品だった。
「見ろ、メンデルシュタム」隣に座るヒトラーが、陶酔した表情で私に囁いた。「これが、君の理論と私の意志が生み出した、秩序の力だ。混沌としていたゲルマニアは、今や一つの身体、一つの精神となったのだ」
私は無言で頷いた。だが、私の目には、その熱狂の裏に隠された、冷たい計算が見えていた。このスタジアムの建設には、東部の強制収容所から送られてきた「反国家分子」たちが、どれだけ安価な労働力として酷使されたことか。この華やかな祝祭を演出するために、どれほどの国家予算が、本来ならば国民の福祉に使われるべき予算が、軍備拡張計画から巧みに流用されたことか。私は、その全ての数字を知っていた。
数日後、陸上競技場で歴史的な瞬間が訪れた。アメリカの黒人選手、ジェシー・オーエンスが、走り幅跳びで金メダルを獲得したのだ。観衆の一部から、かすかなブーイングが起こった。しかし、次の瞬間、スタジアム全体は、まるで訓練されたかのように、勝者を称える万雷の拍手に包まれた。ゲッベルスが事前に指示していたのだ。「いかなる差別的態度も、国家への反逆と見なす」と。
ヒトラーは、苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、儀礼的に立ち上がり、勝者へ拍手を送った。彼は、自らが作り上げた「人種を問わない実力主義」というプロパガンダを、たとえ本心では腹立たしくとも、自ら演じなければならなかったのだ。
その夜、私は「帝国才能誘致局(RTE)」が主催する、各国の科学者や文化人を招いたパーティーに出席していた。会場には、アメリカの物理学者、イギリスの歴史家、フランスの芸術家たちが、新しいドイツの活気に目を輝かせながら、ドイツの高官たちと談笑していた。
「素晴らしい国ですね、メンデルシュタム大臣」ノーベル賞候補にもなったスウェーデンの化学者が、興奮した様子で私に話しかけてきた。「この国には、ヨーロッパが失いかけている活力と秩序がある。人種や出自で科学者を評価しないというあなたの方針は、真の学問の自由を体現している」
私は、差し出されたシャンパングラスを、無意識に強く握りしめていた。学問の自由? 私の大学のかつての同僚で、自由主義を標榜していた教授は、今どこで何をしているだろうか。彼の「貢献度」は、最低ランクの「帝国臣民」に格下げされ、著作は発禁処分になったと聞いている。
パーティーの喧騒から逃れるように、私はバルコニーに出た。眼下には、光の洪水に飲み込まれたベルリンの夜景が広がっていた。それは、私が夢見た繁栄の姿、そのものだった。だが、なぜだろう。私の心は、凍てつくような孤独感に支配されていた。
ふと、背後に人の気配を感じた。振り返ると、そこに立っていたのは、親衛隊(SS)長官ハインリヒ・ヒムラーだった。鶏のブリーダー上がりの、あの特徴のない顔に、爬虫類のような冷たい目が光っていた。
「見事な夜景ですな、大臣」彼は、私の隣に並んで言った。「あなたの設計された街は、実に効率的に機能している」
「……長官閣下のお力添えの賜物です」私は儀礼的に答えた。彼の率いるゲシュタポとSSが、この「効率」の裏で、どれだけ汚れた仕事をしているかは知っている。
「効率、そうです」ヒムラーは頷いた。「効率こそが、我々の神です。ところで博士、あなたの弟君、ダニエル氏は、パリで元気にされているとか。我々の諜報部によれば、社会民主党の亡命者グループと接触しているようですが」
その言葉は、夏の夜の空気を一瞬で凍らせた。それは、友好的な会話ではなかった。明確な、脅迫だった。
「……弟は、私とは違う道を歩んでおります」
「ええ、存じております。しかし、我々の国家は寛大です。道を踏み外した者にも、貢献度を高めることで、再び『帝国市民』となる機会は与えられる。博士、あなたの働きは、あなた自身の階級だけでなく、あなたの『一族』全体の貢献度にも影響するということを、お忘れなきよう」
彼はそう言うと、薄い唇に笑みを浮かべ、闇の中へと消えていった。
私は、手すりに凭れかかり、大きく息を吐いた。ヒムラーの言葉は、私が築き上げたものが何であるかを、改めて私に突きつけていた。
それは、希望の王国などでは断じてない。家族や同胞の安全を人質に取られ、才能という名の首輪をかけられた、ただの**「黄金の檻」**だ。そして私は、その檻の、最も優秀で、最も忠実な囚人に過ぎなかった。
オリンピックは、大成功のうちに幕を閉じた。世界は、ヒトラーのドイツに、新たな時代の到来を幻視した。しかし私は、その祝祭の終わりと共に、鉄の鷲が翼を広げ、次なる目的地へと飛び立とうとしているのを、はっきりと感じていた。
その目的地が、オーストリア、そしてチェコスロ-バキアへと続く、破滅への道であることを、まだ知る者は少なかった。私の設計したアウトバーンは、平和の祭典のためだけでなく、戦車を運ぶためにも作られたのだという冷厳な事実が、もうすぐ明らかになるだろう。
私の作った黄金の檻は、今やドイツという国そのものを覆い尽くし、ヨーロッパ全土を飲み込もうとしていた。そして、その檻の鍵は、アドルフ・ヒトラーただ一人が握っているのだ。
(上巻 了)
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