ミリアの墓

一文字零

ミリアの墓

 そのロボットは歩いていた。

 彼は廃墟と荒野以外の景色を知らなかった。

 この世界は腐敗臭と埃の臭いで満たされていて、そのことは彼にとっては至極当然のことであった。

 彼は人間どころか生命の気配さえしない道端に散乱した、かろうじて使用できそうな瓦礫を回収して、積み上げて、壁にして、自分だけの城を作る。そしてしばらく過ごして飽きたくらいに、その城をまたぐちゃぐちゃに破壊してその場から立ち去り、次の城の建設場所を探しに旅に出る。

 彼のシルエットは人間そっくりであり、それぞれ五本指の両手足と屈強な胴部を持ち、頭部には二つのカメラ――ツインアイがある。身につけている物は薄い本革のマントだけ。特に意味はないが、彼のお気に入りだった。

 がしかし。ほんのつい最近のこと、彼の頭上から落下した鉄筋コンクリートの破片が、彼の左半身を鈍い音と共に潰した。そのせいで彼の左目――メインカメラのレンズが見事に故障、さらには左肩の外装パーツから破損した腕が、ケーブル一本だけで胴体と繋がっているような状態になってしまった。そんな具合では指先も肘も動かせないので、彼は右手で一思いに完全に切り離してしまおうと試みたのだが、引っ張っても、瓦礫をナイフ代わりにしても、唯一繋がったケーブルは太く強度が高く、その試みは失敗に終わった。

 彼は最早邪魔で仕方ない一つの大きなしこりとなってしまった左腕を、バツンと切り離してくれる運命を待っていた。彼を救えるのは運命だけだった。自分の努力ではどうしようもない、この虚無の星で生きていくための。


「動いている。あれはなんだ?」

 太陽が輝くある日のことだった。生物だと確信は持てないが、何か白い物体が不自然に移動したのを目撃した。彼は歯を食いしばるように、マントを握りしめる。そのマントも、昨晩まで三日間降り続いた雨によって水分を吸収し、その寿命を更に短命にしてしまった。

 右目――サブカメラをズーム。その刹那、白い物体は廃墟のビルに消えた。

「行ってみるか」

 彼は数年ぶりに走った。抑えきれない高揚が、耐えきれない魂への渇望が、彼をそうさせた。彼は左腕を恨んだ。こんな時に一番自分の邪魔をするのが、まさか彼自身の肉体であるとは。

 気付かずに通り過ぎてしまうその直前になって、狭まった視界のギリギリで発見した。ビルの裏、瓦礫の山の麓に、野良猫のように凛と座っている白い女性の姿を。物体は生命だった。確かにそこにいた。幻覚という名のメインコンピューターのバグである可能性は、今の彼にとって十分にあった。

「生存者……でしょうか」

 そんなことはもはや問題ではなかった。

「わっ!」

 女が座る不安定な瓦礫の椅子が、足元から揺れる。

「いきなり話しかけてすみません。私の名は……」

 言いかけて口をつぐんだ。とても言えるような名ではなかったのだ。とはいえ、この世界で我々の姿に見覚えのない人間はいない。名乗ろうがどうしようが、見られた時点で彼が何者か、バレたようなものだ。

「名は?」

「えっと……」

「言え、ないんでしょ?」

 このままではまずい。女は戦闘能力を持っている可能性がある。女に破壊されれば当然彼の精神は終わる。武器はある。しかし使用にあたっては彼の理性がそれを強力に拒否する。彼は生きること、起動し続けることに対して、一切の拘りをとっくに持っていないものだとばかり思っていた。今、「ここで死にたくない」と思った彼自身の心の動きが、彼にとって何よりの衝撃であった。

「知ってるよ。量産型人造白兵」

「はっ……!」

 彼は腰にマウントしてあった光線ライフルを全くの無駄のない動きで彼女に構え、即座にトリガーを引いた。左手は使えない故、無理やり、がむしゃらに攻撃した。彼は生きたかった。死にたくなかった。彼はこの世界を恨んでいた。彼を含めた数多の量産型人造白兵が自らの手で創り上げた、この瓦礫の世界を。

「う、うああ、あ!」

 自分がしている行動は、この世で最も自己中心的だと思った。照準が定まらないまま次々に放たれる光線は、彼女を貫通し瓦礫の山を粉砕した。

「はぁ、はぁ」

 彼女は生きていた。

「怖がらないで」

 彼女は優しく言った。

「は……?」

「わたしのことが見える人、初めて見た」

 彼女は死んでいた。

「は……?」

「んふ。そんなにびっくりするのも無理ないか。てか、わたしもびっくりしてるし。まだあなたみたいな人がいたんだね」

「あ、えっと……」

 メインカメラがやられた影響だろうか。なぜ幽霊なんかが視認できるのかは疑問だが、今はそんなことを考えている暇はない。

「人……でもないか」

「あ、あの。私は……」

「なぁに」

「私は……」

 名乗ろうとしているわけではない。

「私はあなたたち人間を皆殺しにしたのです」

「だから?」

 爽やかで穏やかな風が撫でる。

「だから……だから、私とあなたは出会うべきではなかったのです」

「わたしを殺したいから撃ったんじゃないんでしょ?」

「わ、私は」

 彼は涙を流したくてしょうがなかった。

 彼に涙を流す機能は無駄だ。

 彼は人間を殺すために造られた。

「生きたいのなら、わたしと一緒にいましょうよ」

 彼女は死んでいる。彼はロボットである。「生きたいのなら」なんて、こんなに奇妙な話はない。

 かくして、生命の無い二人はその歩みを共にしなた。足音は一人分。手を繋ぐこともできない。

「わたし、ミリア。あなたの名前は?」

 彼とミリアの身長差は、ざっと二〇センチ程。横で歩きながら顔を見上げて名を尋ねるミリアに、彼は不覚にもその純粋さと半透明の瞳に強く心を動かされた。

 この人なら自分を受け入れてくれるかもしれない。

 この人なら自分を愛してくれるかもしれない。

 この人なら、この人なら。

 その時彼は、人間という存在に、実は憧れていたことをはっきりと意識した。無論認めたくはなかった。彼はミリアへの破裂しそうな羨望と嫉妬を隠した。

「私には番号のみが振られている。固有の名前はない」

「じゃあ……マックスって呼んでいい?」

「マックス? それはまたどうしてです?」

「わたしが昔飼ってた犬の名前」

「犬……扱いですか」

「いいや。マックスはわたしの唯一の家族だったから」

 ミリアとマックスは、人工物でできた灰色の荒野をひたすら移動した。向こうには微かに山脈が見える。かつてビル群だったこの地域では、本来あり得ない光景だった。

「風、気持ちいいね」

「そうですね……確かにこの頃は穏やかな気候だ。そんなこと、今までわざわざ考えもしませんでしたよ」

「ふーん。案外楽しいよ。この世界」

 楽しい。マックスにとってそれは意外な言葉だった。彼女は絶望の中で無理やり作った笑顔を自分に見せているのだと、彼は思っていた。

「私を恨んではいないのですか」

「そんなの意味ない。あなただって、こんなこと、したくてしたわけじゃないから。わたしには分かる。あなたは優しい」

 ミリアは笑った。ロボットであるマックスの感情を全て見透かしていた彼女の笑顔は絶対に本物であると、彼は直感で理解できた。

「ミリア……さん」

「呼び捨てでいいよ」

「えっと……ミリア。ところで私たちはどこへ向かっているのですか?」

 彼の問いかけに、ミリアは両手を広げてくるくると無邪気に回転しながら、一言だけ答えた。

「へへ。どこだろうね」


 二人は、この地域で一番の街――だった場所へやってきた。レストラン、服屋、カフェ、デパート。二人は考古学者のように各地を巡った。

 マックスは古びた看板を拾い上げた。かつては電飾で輝いていたのだろう、今は文字すら判別できないほど褪せている。

「この建物は?」

「花屋さんだよ」とミリアが即座に応えた。

「見て、あそこ。カウンターの跡がある」

 彼女が指差す方向には確かに、腐食した金属製の台が残骸として横たわっていた。マックスの目には、ただの鉄屑にしか映らない。

「どうして分かるのですか」

「香りが……まだ、残ってる気がするから」

 ミリアは目を細めて、そこにない何かを愛おしむように見つめた。彼女の透明な指先が、空中で花弁を撫でるような仕草をする。

「羨ましい」

 マックスは呟いた。

「羨ましい?」

「記憶があるということが」

 ミリアはしばらく黙っていた。やがて、瓦礫の上に腰を下ろすと、膝を抱えた。

「記憶って、呪いにもなるんだよ」

「呪い」

「うん。楽しかったことも、嬉しかったことも、全部。今となっては苦しいだけ」

 彼女の表情から笑みが消えた。初めて見る、ミリアの別の顔だった。

「それでも羨ましい?」

「ええ」とマックスは躊躇なく答えた。

「重さを知らないよりは、背負って歩ける方が……生きている証明になる」

「マックス」

「何でしょう」

「あなた、本当に優しいね」

 その言葉が何よりも嬉しかった。

 ミリアが立ち上がり、倒壊したビルの残骸へと向かう。その後ろ姿を追いながら、マックスはふと立ち止まった。

「どうしたの?」

「いえ……何でもない」

 彼は違和感の正体を掴めなかった。ただ、何かが変わり始めている。自分の中で、確実に。

 夜になると、マックスは城を建てなかった。

 いつもならこの時間に、素材を集めて積み上げる作業を開始するはずだった。だが彼は、崩れかけた建造物の中で、ただミリアの隣に座っていた。

「城、作らないの?」

「今日は……はい」

「そっか」

 ぼんやりと月明かりが廃墟を照らす。ミリアの身体は、まるで月光そのものでできているかのように淡く発光していた。

「ミリア、あなたは何故この世界を彷徨っているのですか」

「探してるの。わたしを埋めてくれた人を」

 マックスの目の中で、光がくるりと一回転する。

「お墓があるんだよ。ちゃんとした。誰かが作ってくれた。でも覚えてないの。誰が、どこで、いつ。気づいたら幽霊になってて、ずっと一人で歩いてた」

 ミリアは夜空を見上げた。星は見えない。

「その人に、ありがとうって言いたいだけなの」


 何日が経っただろうか。マックスの腕は依然として彼の肉体にしつこく接続しているし、あいも変わらず二人は手を握ることも許されない。そして、二人はその歩みを止めることもなかった。

 二人は世界中を回った。雲より高い山を登り、そこの見えない谷底を探検し、浜辺の漂流物から小さなボートを作って、岩肌が覆う小さな島をも踏破した。

「ミリア」

 ある夕暮れ時。二人は小高い丘の上に来ていた。

「どうしたの?」

「淋しくなったりしない?」

「しないわ。あなたがいるもの」

 あの頃のように、穏やかな風が吹いていた。

「この夕日を見ても?」

「うん。あなたがいるから」

 一瞬、マックスは自身の視界が、僅かにぶれた気がした。

「結局、命はもうどこにもいなかったね」

「この星にはもう、生まれっこないもの。争いに勝ちたいって気持ちばかりが先行した人類が、あらゆる生命を無に帰す究極の細菌兵器を空気中に散布させた結果、想定の範囲を超えて蔓延し、地球上の全ての生き物は死滅した……」

「馬鹿だよ、みんな」

「わたしも?」

「あなたも、私もだ」

 間もなく夕日が沈む。

「でも、あなたと出会えたから、なんでもいい」

 マックスは指先をぴくりと動かした。

「ど、どうして私のことを、そんなに愛してくれるんだ」

「分からない。でも、この世界にまだ優しさが残っていたことが、何よりも嬉しかったの。だからあなたのことが好き」

 ミリアははっきり言う。

「私も……優しさをまさかもらうことになるなんて、思ってもみなかった。ありがとう」

「んふふ」

 ミリアは細い足を折り畳み三角座りをして、ふくらはぎを撫でながら微笑む。

「可愛いね」

「ひゃ」

「ほら、そういうところだ」

 夜空がダークパープルになる。ゴールドは遠くなる。

「ねぇ」

 ミリアは立ち上がる。

「どうした」

「わたし、わたし……」

 彼の背筋が凍る。なんとなく嫌な予感がしたのだ。

「もうそろそろ、ここからいなくなるみたい」

 予測できた未来だ。こんなことは予測できて当然の結末だった。しかし、マックスの脳裏を突き刺した感情はただ一つ「離れたくない」であった。ただそれだけが願いだった。

「そう、か」

 ミリアの足は既に消えかかっている。

「今まで、本当に楽しかったよ」

「まって、そんな。そんな。こんな時に消えるなんて。やめてくれ」

 ミリアは両腕を天に広げる。

「お別れの時っていうのはね、いつだって突然来るものなんだよ」

「待って」

「ごめん」

 涙はなかった。二人は流すこともできない。二人は生きていない。生命はこの星に存在していないのだ。

「待てないみたい」

「なら、なら最後に一つだけ」

 全ては終わる。

「愛してる」

「わたしも」

 ミリアは程なくマックスの目の前から消えた。その瞬間、粒子のようなものが輝いていた。魂はどこか遠くへ行ったのか、それとも跡形もなく消滅したのかは不明だが、マックスは彼女と二度と会うことはなかった。

 彼は何も言葉を発しなかった。もう言葉を交わす人もいない。それから彼は廃墟から瓦礫を集め、この丘の上に運んだ。何度も何度も、動かない左腕をぶら下げながら歩き続けた。瓦礫の収集には限界があり、小さな破片のようなものだけを二、三個抱えるのがやっとだった。彼の動きは段々と遅くなっていったが、それでも構わず、動き続けた。

「ミリア」

 彼女はとうとう自分の墓を見つけることはなかった。だから。

「ありがとう」

 マックスはミリアの墓を作った。彼が彼女に送った、最後のプレゼントだった。

 そして、彼は永遠の眠りについた。彼はこの結末を理解していた。掠れる視界から、自身に搭載されたバッテリーが残り僅かであることが感覚で分かった。彼はミリアの墓に寄りかかるようにして動かなくなった。

 やがて、今まで人間やカメラの力では地上から見えなかった星が、地球からも確認できるようになった。月がはっきりと見えるようになった。雨の日が続き、雨水が地表を包んだ。晴れの日がそれをかき消した。それを繰り返した。

 やがてまた日が昇った。やがて日が沈んだ。

 そしてある日。なんてことない虚無の日のことだった。

 マックスだったガラクタと、ミリアだった瓦礫を、薄い緑が覆った。

 生命が巡るまで、ざっと数十億年。

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