彼岸花
佐倉井 鱓
第1話 彼岸花の庭にて
目を開けたとき──
世界はすでに紅に染まっておりました。
陽を透かして輝く花弁が
一面に揺れている。
風が通り抜けるたび
それは波のようにうねり
光の粒が踊る。
彼岸花。
誰が植えたのか
どこまで続くのかも分からぬほどに
この丘は赤い焔の海になっておりました。
その中に
ひとり、彼女が立っていたのです。
白い衣が、紅の中でひときわ淡く映える。
彼女の髪が風に揺れ
花の香りがそれに溶けていく。
その光景は
まるで極楽の夢のようでした。
僕は、ただ──
その背を見つめるしかできなかった。
花弁が足元を撫で
衣の裾をくすぐり
風が、祈るような音を立てる。
どこかで小さく鳥が鳴いた気がして
それさえもこの景の一部のように思えました。
「彼岸花、綺麗ですね」
思わず声が零れた。
彼女は
少しだけ肩を動かしたように見えました。
「今年も綺麗に咲いた。
これだけ綺麗ならば……
誰しもが穢してはならないと思うでしょうね」
静かに、彼女はそう呟きました。
その声音は優しく、どこか遠い。
花を褒めているのか
祈っているのか──
それさえ判然としない。
けれど、僕の胸の奥で何かがじんと揺れた。
花は、生きるために毒を持つ。
けれどその毒さえも
ここでは神聖な香りのようでした。
陽光を受けて透き通る花弁は
まるで光そのものの化身。
触れれば熱を持つように見えながら
風に揺れるたび
やわらかく微笑んでいるようでした。
彼女は振り向かない。
けれど、その背の静けさが
言葉より雄弁に語っている。
──この花々の中に在るだけでいい。
──誰のためでもなく
ただ咲くことこそが、美しいのだと。
僕は目を閉じ、深く息を吸いました。
甘く
そしてどこか切ない香りが
胸の奥まで満ちていく。
風が頬を撫で、髪を揺らす。
ああ、なんと穏やかな世界なのだろう。
なんと、静かで──なんと優しい。
紅の海に、白い影がひとつ。
彼女の背が、陽炎のように揺れる。
まるで──
この世とあの世のあわいに立つ人のように
美しく、儚く、そして完璧でした。
僕はただ、その背中を見つめていた。
息をすることすら惜しくなるほどに
この瞬間を壊したくなかったのです。
──彼岸花は〝死者に寄り添う花〟だと言う。
けれど僕には
むしろ〝生の象徴〟のように思えた。
鮮やかに、誇らしげに咲く姿。
人の手を借りず、風のままに散る姿。
すべてが──あまりに美しかった。
「……綺麗ですね」
再び呟いた言葉は
風にさらわれて消えていきました。
そして僕は思ったのです。
もしも、この景色が夢ならば──
どうか
どうか、目覚めませんようにと。
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