凪の家 ― 水平線を測る人々―

木工槍鉋

海辺の小さな家が繋ぐ、時間と記憶

「この家、借りられますか?」


女性の声に、私は顔を上げた。海辺の小さな家の前で、若い女性が立っていた。黒いワンピース、肩にかかる髪、少し緊張した表情。潮風が、彼女の髪を揺らしている。


「どうして、ここに?」私は尋ねた。


「海が、見たくて」


女性は窓を見つめて言った。私は家を見上げた。塩で曇った窓枠、錆びた金具、色褪せた壁。築十年にしては、ずいぶん老けて見える。だがそれは劣化ではない。海の記憶が、この家に染み込んでいるのだ。


「ここからの海は、特別なんです」


「特別?」


「ええ。十年前、ある男がこう言ったんです」


「海が、見たいんだ」


——幼馴染の隆は、私の設計事務所でそう言った。窓の外では街の雑踏が流れている。ここは港町だが、海は見えない。隆は場違いなほど日焼けしていて、漁師の匂いがした。


「最後に、海が見える家で暮らしたい」


その言葉が胸に刺さった。隆は膵臓癌だった。余命一年半。もう船には乗れない。海で生きてきた男が、陸に上がるしかなくなった。


「設計で半年、確認申請一ヶ月、施工で六ヶ月。最低でも一年はかかる」


「それでいい。俺、それくらいは保つから」


子供の頃、私たちはよく海を見た。防波堤に座って、水平線の向こうを想像した。隆は「いつか、あの向こうに行く」と言い、私は「いつか、海が見える家を建てる」と言った。あれから三十年。隆は船乗りになり、私は建築家になった。そして今、私は隆のために、最後の家を建てる。


「窓は大きく。水平線がちゃんと見えること」


「あと……窓枠に印をつけられるようにしてくれないか」


「印?」


「うん。窓枠に定規にして水平線の位置を記録したいんだ」


私は首を傾げた。水平線の位置を記録する?


「毎日見てるとさ、水平線って、いつも同じ場所にあるように見えるけど違うんだ。潮の満ち引き、月の位置、気圧、季節……全部関係してる」


隆は言った。

「変わらないものなんて、ないんだって確かめたいんだ」


その目は、少年のようだった。


設計には半年かかった。私は何度も海辺に通った。朝、昼、夕方、夜。光の角度、風の向き、潮の香り。すべてを測った。窓の位置を一センチ単位で調整した。水平線の位置を見る場所は固定でなければならない。水平線を覗く場所を作った。この窓から見える水平線が、隆の最後の景色になる。完璧でなければならない。


八ヶ月後、家は完成した。


「完璧だよ」


隆は窓際に立ち、水平線を見て言った。窓は大きく、空と海だけが見える。水平線は、窓の真ん中を横切っている。


「ありがとう」


隆は振り返って微笑んだ。私は何も言えなかった。ただ頷いた。


隆は毎日、午後三時に窓際に座り、水平線を測った。ノートには日付と数字が並んでいく。


「毎日測ってるんだ。窓枠から水平線まで、何センチか」


「……変わってるのか?」


「ああ。ほんの少しずつ、でも確かに」

三ヶ月後、隆は静かに亡くなった。

最期まで窓際で海を見ていた。

ノートの最後のページには、震える字で短くこう書かれていた。


——「今日は凪だった。」


葬儀のあと、私はしばらく家の前を離れられなかった。

仕事として設計したはずなのに、この家を他人のものにする気にはなれなかった。

売られてしまえば、ただの「海の見える家」になる。

誰かが暮らせば、それはもう隆のための家ではなくなる。

設計士である自分がそんなことを考えるのはおかしいと分かっていても、

どうしても気持ちの整理がつかなかった。


遺品の整理をしていると、隆のノートの最後のページに、小さく折り畳まれた紙が挟まっていた。

封もされていない、簡素なメモだ。私への手紙だった。


『相続してくれないか。この家を売らないでほしい。

海を必要としている人に、貸してやってくれ。

お前が良ければ金は取らないで欲しい。

できれば、測り続けてほしい。水平線を。

海がどんなふうに変わっていくのか、

誰かに見ていてほしいんだ。


最高の家をありがとう。

——隆』


その文字を見たとき、胸が熱くなった。まるで彼が、海の向こうからまだ語りかけているようだった。


正直、そのとき私は少し腹が立ってもいた。

隆は先にいなくなり、あとは私に全部任せる。

家を維持する金も、時間も、覚悟も、残されるのはこっちだ。

それでも、最後の「ありがとう」の一行を見ると、文句は喉の奥でほどけていった。



私は告知を出した。


「海が見える家、無料で貸します。

 海を必要としている方へ。」


こんな怪しい告知には誰も来ないと思っていた。

それでも、一通目の問い合わせは驚くほど早く届いた。



最初の借り手は七十代半ばの老女だった。

海難事故で息子を亡くしたという。台風の日に漁に出た息子が帰ってこなかった。


「息子は、この海のどこかに。帰ってくるかもしれないんです」


川村さんは毎日、窓際に座って水平線を見た。

朝も昼も夕方も、何かを待つように。


ある日、窓枠の印に気づいた。


「これは?」


「前の住人が、水平線の位置を記録していたんです。毎日、午後三時に」


彼女はしばらく印を見つめ、それから小さく頷いた。


「私も……つけてみてもいいですか」


「もちろん」


それから彼女は毎日、午前十時に位置を刻むようになった。

息子が漁に出ていた時刻だという。


三ヶ月後、川村さんが言った。


「ありがとう。もういい」


「もう、いいんですか?」


「ええ。息子は帰ってこない。それが、わかったから」


彼女は窓枠を撫でた。


「でもね、海は毎日変わってる。あの子も、海のどこかで、変わり続けてるのかもしれない」


去る日、彼女は最後の印をつけて言った。


「これ、続けてあげてください。誰かに」


窓枠に残った小さな線は、彼女の息子のための墓標のようにも見えた。



次に来たのは、中学二年の少年・竜也と、その母親だった。

「息子に、少し海を見せてやりたいのです」と、問い合わせのメールにはあった。


実際に会った母親は、想像以上に疲れた顔をしていた。

竜也はほとんど目を合わせず、挨拶のあとすぐに部屋に入っていった。


最初の一週間、竜也はほとんど姿を見せなかった。

私はまた、自分のしていることが正しいのかどうか、分からなくなっていた。


ある朝、様子を見に行くと、リビングの窓際に人影があった。

竜也が椅子を引き寄せ、スケッチブックを広げている。


「船、好きなのか?」


そう尋ねると、彼は小さく「うん」と答えた。


水平線に浮かぶ一隻の大きな船。

その絵は稚拙だが、妙に実感のある線だった。


それから竜也は、毎日違う船の絵を描いた。貨物船、タンカー、漁船、客船。


ある日、竜也が印に指を触れた。


「これ、なに?」


「水平線の位置を記録してるんだ。昔、この家に住んでた人が、毎日測ってた」


「俺も、つけていい?」


「もちろん」


竜也は毎朝、決まった時刻に印を刻むようになった。

スケッチブックのページは、あっという間に埋まっていった。


夏の終わり、母親が言った。


「ありがとうございました。息子、少し……いえ、だいぶ元気になりました。

 夫が去年海で事故を起こして、それから塞ぎ込んでいて……。

 でもここで船の絵を描いて、『大人になったら船乗りになる』って言ったんです。

 あの子から未来の話が出たの、初めてで」


去る日、竜也は一枚の船の絵を壁に貼っていった。


「また来てもいい?」


「もちろん」


私の声は、少し掠れていた。



三人目は、離婚したばかりの女性だった。

最初の一ヶ月、彼女はほとんど泣いてばかりいた。


「でも、海を見てると、少し楽になるんです」


二ヶ月目には涙は減り、その代わりに沈黙が増えた。

彼女は椅子に座って、ただじっと海を見ていた。


三ヶ月目、窓枠の印に気づいた。


「これ、なんですか?」


私は隆のこと、この家のこと、印のことを説明した。

彼女はしばらく黙っていたが、やがて言った。


「私も……測ってみてもいいですか?」


彼女は毎日印をつけ、ノートに自分なりの記録を書き始めた。


『四十五日目。晴れ。水平線は昨日より一センチ低い。

 気のせいかもしれない。でも、私は昨日より少しだけ息がしやすい。』


半年後、彼女は仕事を見つけた。


「ここで測らせてもらって、自分も変わっていいんだって思えました。

 最初は、変わってしまうことが怖かったんです。

 でも、変わらないほうが、きっともっと怖いんですね」


去る日、その横顔は、来たときよりずっと柔らかくなっていた。



四人目は、四十代の男性だった。

電話越しの声は低く、用件だけを短く告げた。


「海の見える場所で、しばらく一人になりたいんです」


仕事を辞めたばかりだという。

詳しい事情は話さなかったが、声の中に、どこか投げやりな空洞があった。


目的を書いてほしいとメールを送ると、返ってきたのはたった一行だった。


『死ぬ前に、海を見たい。』


——本当は、断つべきだったのかもしれない。

その文を見たとき、私はしばらく画面から目を離せなかった。


それでも私は、鍵を渡した。


男性はほとんどしゃべらなかった。

窓際に立ち、長い時間海を見ていた。


「変わらないですね。海は。俺がどうなっても」


その声は、ただ疲れていた。


三日目の朝、私は家を訪ねた。

呼び鈴を押しても反応がない。胸が冷たくなるのを感じながら、合鍵で扉を開けた。


部屋はからっぽだった。

荷物も、書き置きも、何も残っていない。

窓の外では、少し荒れた海が白い波頭を立てていた。


数日後、男性から短いメールが届いた。


『すみません。黙って出ました。

 ここで死ぬつもりでしたが、思ったより海がうるさくて、眠れませんでした。

 まだ、もう少しだけ、うるさい場所にいたほうがいい気がしました。』


私はその文を何度も読み返した。

この家は、人を完全に救う場所ではない。

救えないまま通り過ぎていく人もいる。

それでも——通り過ぎていったという事実だけは、ここに残る。


私はその日、窓枠に小さな印を一つ、自分のためにつけた。



五人目は、引きこもりの青年だった。

母親が付き添ってきて、玄関先で何度も頭を下げた。


「息子が、三年間、ほとんど部屋から出なくて……。

 でも、海なら見たいって言うんです」


青年は最初の二週間、部屋にこもりきりだった。


三週目のある日、訪ねていくと、リビングのカーテンが少しだけ開いていた。

窓際に、青年の背中が見えた。


「やあ」


声をかけると、彼は肩を震わせたが、逃げようとはしなかった。


「この印、なに?」


先に口を開いたのは彼のほうだった。


私は、窓枠の印と隆のことを説明した。

長い沈黙のあと、彼はかすかな声で言った。


「……俺も、測っていい?」


「もちろん」


彼の手は最初はひどく震えていたが、毎日決まった時刻に印をつけ続けるうち、線は少しずつ安定していった。


二ヶ月目、彼はぽつりと言った。


「海は、何も要求してこないんですね。

 学校に行けとか、働けとか、誰かと話せとか、言ってこない。

 見てるだけでいい。何もしなくていい。

 でも、勝手に変わってる」


三ヶ月目、彼は母親に「会ってもいい」と言い、四ヶ月目には「外に出てみようと思う」と口にした。


去る日、彼は初めて自分で荷物を運んだ。

「ここから、始める」と言い、少しだけ眩しそうに海を見た。



六人目は、建築学生だった。

大学三年生の女性で、卒業設計のために「海が見える家」を研究したいと言った。


家中を測り、写真を撮り、図面を起こしたあと、彼女は言った。


「この家、完璧な設計ですね」


「完璧じゃないですよ」


「え?」


「完璧じゃない。変化してる」


彼女は窓枠の印に目を留めた。


私は、印のこと、これまでの住人のこと、隆のことを話した。


彼女は長い時間、窓枠を見つめていた。


「つまり、この家は、完成してないんですね」


「建築って、図面ができて建てたら終わりだと思ってました。

 でも、この家は違う。

 住む人によって、見え方が変わっていく。

 印が増えるたびに、窓の意味も変わっていく。

 だから、完成しない」


「卒業設計、これにします。『変化する建築』をテーマにしたい。

 建てた瞬間から変化し始めることを、そのまま設計の一部にしたいんです」


七人目は、スランプの詩人だった。

三年間詩が書けなかったという。最初の二週間、何も書かなかったが、やがてノートに短い詩を書いた。


『水平線は

最も美しい一行

毎日書き直される

完成しない詩』


「完成しなくていいんだって気づいた。水平線も、毎日違う。詩も、それでいい」

彼女は詩集を完成させ、去った。


この家に来た人たちは、海を見た。そして、去った。

窓枠の印は増え続けた。

この家に住んだ人たちの記録。それぞれの時間。それぞれの水平線。

そこには「癒やされた人」と「癒やされなかったかもしれない人」の線が、区別なく並んでいた。


私はときどき、夜中に一人で窓の前に立った。

隆の声が、まだ風に混じって聞こえる気がしていた。


——測り続けてくれ。


その声に、ちゃんと応えられているのか、自信はない。

それでも、窓枠に刻まれた数え切れない線を見るたび、

この家が少なくとも「見ていた」という事実だけは、そこにあると思えた。


そして今日、十三人目が現れた。



「この家、借りられますか?」


玄関先でそう言った女性は、海辺の小さな家の前で、若い女性が立っていた。黒いワンピース、肩にかかる髪、少し緊張した表情。潮風が、彼女の髪を揺らしている。


私は家の鍵を開け、中に入った。女性が、後ろからついてくる。


「どうぞ」


女性はリビングに入ると、まっすぐ窓のほうへ歩いていった。

そして、息を呑んだ。


「……きれい」


「でしょう」


私は窓際に立ち、彼女の横顔を盗み見る。


「どうして、海が見たいんですか?」


しばらくの沈黙のあと、女性はかすかな声で言った。


「……夫が、船乗りだったんです。三年前に、事故で」


「海を、憎んでいました」


「夫の遺品を整理していたら、日記が出てきて。

 夫は毎日、海のことを書いていたんです。

 海の色、波の高さ、風の匂い……。

 読んでいるうちに、あの人がどれだけ海を好きだったか、思い知らされて。

 あんな嵐の日にも、きっと……」


言葉が途切れた。


「だから、見たくなったんです。夫が見ていた海を。

 憎んでいた海を……もう一度、ちゃんと見たくて」


私は隆を思い出した。

海で生き、海を見て、海を測り続けた男のことを。


「この家は、特別なんです」


「特別?」


「ええ。海を、測る家なんです」


窓枠を指さすと、小さな印が無数に刻まれている。

金属のプレートは風雨で少し錆びているが、線ははっきりと残っている。


「ここに、毎日の水平線の位置を記録してほしいんです」


「何のために?」


「未来のためです」


私は隆のノートを取り出した。

十年分の記録。ページをめくると、几帳面な文字が並んでいる。日付、時刻、測定値、そして短いメモ。


「今日は凪だった」

「カモメが五羽、飛んでいた」

「夕日が、美しかった」


最後のページには、震える文字が綴られている。


『俺が死んでも、測り続けてくれ。

 この家に住む人に、測ってもらってくれ。

 気づかなくてもいい。

 ただ、誰かに見ててほしいんだ。

 五十年後、百年後、海はどこにあるんだろう。

 俺は船乗りだった。海で生きてきた。

 海に、最後の仕事をさせてほしい。

 変化を、記録すること。

 それが未来への贈り物になるかもしれない。

 お前も測ってくれ。たまには俺の代わりに。

 ありがとう。最高の家を、ありがとう。』


十年経っても、この文字を見ると胸が締めつけられる。

私はノートを閉じ、女性に向き直った。


「海は毎日変わる。ほんの少しずつ、でも確かに。

 その変化を、記録してほしいと——彼はそう願っていました」


女性は目に涙を浮かべていた。


「その人は……」


「親友でした。漁師で、あなたのご主人と同じです」


しばらく沈黙が流れたのち、彼女は小さく息を吐いて頷いた。


「……やります」


「ありがとうございます」


私は、隆のノートと同じ型の新しいノートを手渡した。


「ここに来た人はみんな、海に何かを奪われて、何かを取り戻そうとしていました。

 救われた人もいれば、そうとは言い切れない人もいます。

 でも、みんな海を見て、何かを持って帰っていきました」


女性は窓際に立ち、水平線を見た。


「……変わらないように見えますけど」


「そう見えるでしょう。でも、明日見たら、きっと少し違って見える」


「私も、救われるでしょうか」


「……分かりません」


自分でも意外な言葉だった。


「でも、ここにいるあいだ、海が変わり続けるのは確かです。

 あなたがそれを見て、何を思うかは……あなた次第です」


女性は少し驚いたように私を見て、それから小さく笑った。


「それで、いい気がします」


「夫を、許せるでしょうか」


「許す?」


「ええ。あの人は、私を残して海に行った。嵐だったのに。

 帰ってこないって、どこかでわかってたのに。

 ずっと、憎んでいました。

 でも日記を読んで、あの人が海を好きだったんだって。

 だから、許したい。夫が海を選んだことを」


「許せないままでも、ここにいていいと思います。

 ここで測って、ここで悩んで、ここで決めてください。

 隆のときだって、私は何ひとつ間に合わせてやれなかったんですから」


女性は、驚いたような、それでいて少し救われたような顔をした。


扉を出る前、女性が振り返った。


「あの……この家の名前は?」


「凪の家、です」


「凪?」


「ええ。波も風もない、静かな海のことです。

 でも、凪の海も、変わっています。見えないだけで」


女性はその言葉を何度か口の中で繰り返した。


「凪……。いい名前ですね」


「いつから住めますか?」


「いつでも」


「じゃあ、明日から」


「わかりました」


扉が閉まる。

私は一人、窓際に立った。


水平線は、今日も確かにそこにあった。

昨日とは違う場所に。明日もまた、違う場所に。


私は隆のノートを開いた。

十年前の日付が書かれた最初のページ。


『一日目。測定開始。

 窓枠から水平線まで一四七・三センチ。

天気は晴れ。風は穏やか。

海は、青い。

これから毎日測る。変化を記録する。

未来の誰かがこの記録を見るだろうか。

見て、何を思うだろうか。

俺には時間がない。

でも、海には時間がある。

この家には時間がある。

だから託す。海に。家に。そして、お前に。

ありがとう。最高の家だ。』


「なあ、変わらないものなんて、ないんだ」


隆の声が、風に混じって聞こえた気がした。


私は窓枠に、小さな印をつけた。

今日の水平線の位置。


「隆。測ったぞ。お前の代わりに」


印は、午後の光を受けて小さく輝いた。


「十三人目が来た。夫を海で亡くした人だ。

 救われるかどうかは分からない。

 でも、ここで見て、迷って、決めるだろう」


風が、窓を揺らした。


「お前の遺した家は、生きてる。変化し続けてる。

 お前が望んだように。

 ……そして、俺の都合のいい物語だけじゃない形で」


私はノートに今日の日付と測定値を書き、短いメモを添えた。


『十三人目の住人。

 明日から、新しい時間が始まる。

 海は今日も変わっている。』


ノートを閉じ、棚に戻す。

隆のノートの隣に、そっと並べる。


海は静かだった。

波も、風も、ない。凪。

だが確かに、変わっている。見えないだけで。


水平線は、昨日とは違う場所にある。明日もまた、違う場所にある。

そして誰かが、それを測り続ける。

十年後も、五十年後も、百年後も。


「凪の家」はそこにある。

変化を記録しながら、時間を刻みながら、生き続ける。

隆が望んだように。

これまでの住人たちが、その線で書き足していったように。

そして、これから来る誰かが、また新しい線を刻むように。


私は、窓の外の雲を見上げた。

ゆっくり流れていく雲は、昨日とは形が違う。

明日もまた、別の形でここを通り過ぎるだろう。


「なあ、変わらないものなんて、ないんだ」


再び聞こえた気がした隆の声に、私は小さく応えた。


「ああ。ないな」


それでも——と、心の中で付け加える。

——それでも、お前の線と、ここで交わった線たちを、私は覚えている。


海は静かだった。

波も、風も、ない。


凪。

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凪の家 ― 水平線を測る人々― 木工槍鉋 @itanoma

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