仏の御手の花の上に

吉田なた

第1話 天平勝宝九歳(757年)五月二日 東大寺金堂 太上天皇一周忌斎会

 法要の庭に吹く五月の風に、夾纈きょうけちばんが物怖じするようになびく。幡をくわえる龍頭りゅうとうは立ち並ぶ竿さおの先で、金色の目で人々を見下ろす。大寺の伽藍がらんの内には、幾つもの大きな天蓋てんがいが張られ、白い喪服姿と僧侶の重そうな袈裟けさ姿が並んでいる。

 道行の楽を奏でる怜人らが、南の門から入場する。案内の若い僧侶に導かれ、東西の回廊かいろうの内に置かれた楽舎に入る。続いて髪を美豆良みづらに結った内豎ないじゅの少年らが、個人に差し掛ける小さな天蓋を掲げ、列をなしてやって来る。大きな天蓋の下の僧侶らが立ちあがり、少年らの天蓋の下に入って金堂へ向かう。

 私たち内舎人うどねりも、この日ばかりは白い衣に着替えて、回廊脇の炎天下に控える。やがて喪主らが伽藍の内に現れると、楽に替わって僧侶らの梵唄ぼんばいが始まる。それを合図に我々は、仏前に捧げる供物を手にして、喪主と僧侶の後方に続く。

 僧正の銀錦の袈裟が、金堂のきざはしを上がって行くのが見える。後ろに続くのは柄香呂えごうろを持つ大僧都、そして三人の喪主たちだ。背の高い皇太后おおきさき、母親よりも少し小柄な女帝みかどは、共に白い花を抱いて並ぶ。背の違いはあるが、この母子はとてもよく似ている。二人に遠慮するように、やや離れて香呂を手にした皇太子ひつぎのみこの若い背中が、急な石の階を上がる。

 晴天に恵まれた夏の最中はすこぶる暑い。雨期に入り湿気も上がっている。幡を揺らす程の風はあるが、とにかく一刻も早く、強い日差しから逃れたい。にじみ出る汗をぬぐう事も適わず、幾度か瞬きをして前を見て歩き出す。

 目の端に映る鈍色にびいろの喪服は、太政官の御偉方だ。大きな天蓋の下にいても、殊のほか暑かろう。思いながらも、ようやく私の足は金堂のきざはしに掛かる。見上げる先には、五年前に開眼供養をした金堂の本尊、毘盧遮那びるしゃな仏がおわす。金色の尊顔は、穏やかな笑みをたたえて衆生を見下ろす。しかし、胸から下は大きな幕でおおわれている。座像の周囲にはまだ作業の足場が組まれている。それを隠すための苦肉の策だ。

 私のような内舎人ごときは、御仏みほとけの膝元に行く事は叶わない。それどころか、金堂に入る事が出来るのは、三人の喪主と上位の僧侶のみだ。内舎人らは手にした供物を、基壇の上に設けられた祭壇に捧げる。そして速やかに基壇を下りて行く。

 長い回廊のみならず、参道の両脇にも一千五百人もの僧侶が並ぶ。梵唄ぼんばいの声は、夏の日差しと共に追い立てるように背後から迫る。それに急かされて私は石の階を下りる。

 回廊にも入る事の出来ない多くの僧侶、中位、下位の官人、そして私のような舎人は、法要が終わるまで日差しの下に立ち続ける。

 目の端で公卿の一人が、手巾しゅきんで顔の汗をぬぐう。この暑さでは、炎天下の者のみならず、天蓋の下の高官ら、金堂の軒下や回廊に並ぶ僧侶らにも、気分を壊して退出する者が出るだろう。

 梵唄の声が止み、基壇の上に立つ若い僧侶が、総礼そうらいと通る声で言い放つ。打たれた銅鑼どらの音に合わせ、僧侶らが一斉に投地とうちする姿に官人らも倣う。こうしてようやく、法要が始まる。

 左右の楽舎から流れるを聞きながら、私は再び金堂を見上げる。内に開かれた七間の大きな扉に遮られ、薄暗い堂内の様子はほとんど見えない。僧侶らの袈裟に紛れ、白い喪服姿が立つ。あの背中は皇太子なのか。

 どうして今日も、大炊おおいの背中を見ているのだろう。ふとよぎった疑問に、しばし暑さも忘れる。初めてそう思ったのは、ほんの一月前だったか。


 私よりも少しばかり背が低く華奢で、四つ年上のこの男とは、つい先日までは共に馬を並べて野駆のがけに行くような仲だった。膂力りょりきはないくせに弓の腕は私より上で、筆をとらせれば、なかなか達者にしたためた。管絃かんげんの腕はからきしで、常に私に何かを奏せとせがんで来た。人並みに優秀ではあっても、取り立てて人目を引くような男ではなかった。

 大炊は浄御原帝きよみがはらのみかど(天武天皇)の孫、私は淡海帝おうみのみかど(天智天皇)の曾孫、共にまだ二十代で無位無官の皇族の端くれだ。違うところと言えば、大炊には早世した妻女との間に姫御がいるが、私は独り身の部屋住みだ。いずれにせよ、一月前までは大炊の事を皇太子と呼ぶ者は誰もいなかった。


 僧正と長老は既に高座こうざに着いているだろう。やはり私のいる場所からは堂内がよく見えない。皇太子の大炊王おおいのみこも、光明子こうみょうしの皇太后おおきさき阿倍あべの女帝みかどに並んで仏前の座に着き、亡き太上天皇おおきすめらみことの一周忌法要に臨んでいるはずだ。

 わずかに首を巡らせて周囲をうかがえば、強い日差しに袈裟の色と丹塗りの柱が競い合う。一周忌に間に合うようにと完成を急いだ回廊にも、都の内外、近隣諸国からも呼び集めた一千人を超す僧侶が立ち並ぶ。

 再び起こったばいの声が、暴力的とでも言いたくなるほどの圧倒的な音量で、伽藍がらんの内に巻き起こる。その声にさらされる私たちなど解せぬよう、見上げるばかりの大きな御仏は、堂の暗がりにただ座り続ける。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る